外伝2 第2話「二人で歩いた五年間」
旅を始めたばかりの頃、かすみは戦うこと以外の多くを知らなかった。
町へ入れば、どこへ行けばいいのか分からない。依頼を受けるにも何を確認すればいいのか分からず、宿の取り方さえ、最初のうちはルビアに尋ねていた。
「ルビア」
「ん?」
「これ、どうすればいいの?」
差し出された依頼書を見て、ルビアが笑う。
「まず読む」
「読んだよ」
「じゃあ次は?」
「……分からない」
「依頼主に話を聞く」
「どうして?」
ルビアは依頼書を指で叩いた。
「書いてあることが全部とは限らないから。依頼を出した人が、本当に困ってることを自分で確認するの」
「なるほど」
かすみは素直に頷いた。
その日から、少しずつ変わっていった。町へ入れば周囲を見る。依頼を受ける前には内容を確認する。危険な場所へ向かうなら帰り道まで考え、食料が足りなくなりそうなら先に買っておく。ルビアに言われたことを、かすみは一つずつ覚えていった。
最初の頃は、何かあるたびに「どうすればいい?」と聞いていた。それがしばらくすると「今回はこっちでいい?」に変わり、さらに時間が経つと、自分で決めてからルビアへ伝えるようになった。
ある日、宿を出る前に、かすみが地図を広げていた。
「今日は西の森に行こうと思う」
「どうして?」
「昨日聞いた話だと、森の奥に魔物が出てる。でも南側の道は昨日の雨でぬかるんでるから、西から回ったほうが帰りやすいと思う」
ルビアは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「ちゃんと考えるようになったね」
「前にルビアが教えてくれたから」
「じゃあ、今日はかすみの判断で行ってみようか」
それが嬉しくて、かすみは小さく笑った。
戦いだけではない。冒険者として生きていくために必要なことを、かすみは旅の日々の中で少しずつ身につけていった。
ある日、二人は森で魔物に襲われた。
「右!」
ルビアの声が飛ぶ。
かすみは振り向かなかった。身体を傾けた直後、頭上を巨大な爪が通り過ぎる。そのまま踏み込んで剣を振り抜くと、魔物の腕が切り裂かれた。
「そこ!」
ルビアの炎が魔物の足元を焼き、動きが止まる。かすみは一気に距離を詰め、剣でその身体を捉えた。巨体が地面へ崩れ落ちてもすぐには剣を収めず、周囲を見回し、新たな敵の気配がないことを確かめてからようやく鞘へ戻す。
「終わったよ」
ルビアが歩いてくる。
「うん。完璧」
「やっぱり強いね、かすみ」
「ルビアには負けるけどね」
「そこはまだまだ」
ルビアは笑った。
初めて手合わせをしてから、少しずつ時間が流れていた。かすみはすでに並の冒険者を遥かに超えていたが、それでもルビアにはまだ届かない。
剣だけではなく、炎を操る魔術、戦場全体を見る視野、相手の動きを読む判断力、そして長年の冒険で積み重ねた経験。S級冒険者という称号が、単純な力だけで与えられるものではないことを、かすみは旅の中で知っていった。
十二歳のかすみは強かった。けれど、強いからこそ目の前の敵だけを見てしまうこともあった。
別の町で依頼を受けたとき、かすみは魔物が潜んでいるという洞窟へ一人で入ろうとした。
「ちょっと待って」
ルビアが呼び止める。
「何?」
「帰りのこと、考えた?」
かすみは足を止めた。洞窟の奥に魔物がいることまでは考えていたが、戦いが長引いた場合や、夜になった場合のことまでは考えていなかった。
「……考えてない」
「じゃあ、考えてから行こう」
日没までの時間を計り、灯りと食料を揃えた。数か月後、別の洞窟へ向かったときには、かすみのほうが先に道具を並べていた。
そんなことの繰り返しだった。
夜になると、二人は焚き火を囲んだ。
かすみが尋ねる。
「冒険者の等級って、どんな基準なの?」
「それぞれの冒険者に、実力に合った依頼を割り振るための目安だよ。……表向きはね」
「表向き?」
「本当は、冒険者が国やギルドに逆らったとき、討伐にどれだけの兵力が必要かを管理するための等級でもあるの。魔導帝国を中心とした軍事同盟の参加国と、冒険者ギルドが決めてる」
「国が討伐部隊を出すときの目安ってこと?」
「そう。C級以下なら百人以下。B級やA級なら二百人から千人。S級冒険者が逆らったときには、最大一万の軍勢が討伐に向かう」
「……ルビアはS級冒険者なんだよね?」
「まぁね」
「いつか、ルビアに勝てるかな」
「さあね」
ルビアは薪を火へ放り込んだ。
「でも、かすみならいつか追いつくんじゃない?」
「ほんと?」
「うん」
ルビアは笑った。
「ただ、強くなることばっかり考えちゃ駄目だよ」
「どうして?」
「冒険者は戦うだけが仕事じゃないから」
その言葉を、かすみは旅を続けながら少しずつ理解していった。依頼を受ける。町で情報を集める。食料を買う。宿を探す。怪我をしたら治療する。人と話す。困っている人がいれば助ける。かつては一つずつルビアに教えてもらっていたことも、やがて教えられる前に動けるようになった。
ある町では、依頼を終えた帰り道に、かすみが突然立ち止まった。
「どうしたの?」
「……あの人、困ってる」
見ると、道端で老人が荷物を抱えて立ち尽くしていた。以前のかすみなら、ルビアが声をかけるまで気づかなかったかもしれない。
「手伝ってくるね」
「うん」
ルビアはそれだけ答えた。
かすみが老人のもとへ向かう背中を見ながら、少しだけ嬉しそうに笑った。
春が過ぎ、夏が来る。秋の雨を避け、冬は同じ毛布へ足を入れ、また春が来る。季節が巡るたび、かすみは少しずつ成長していった。
ある町で、両親と歩く子どもとすれ違った。かすみは数歩進んでから足を止め、三人の背中を振り返った。
「かすみ?」
「……ううん。行こう」
父と母に会いたい気持ちは、季節が巡っても消えていなかった。
ある朝、ルビアが目を覚ますと、焚き火の前にかすみが座っていた。
「おはよう、ルビア」
「……おはよう」
「朝ご飯、作ってみた」
ルビアは鍋を見る。それから、少し不安そうなかすみを見る。
「食べていい?」
「うん」
一口食べると、ルビアが黙った。
「……どう?」
「うん」
「どうなの?」
「ちょっと塩辛い」
「……ごめん」
かすみがしょんぼりすると、ルビアは思わず笑った。
「でも、前よりずっと上手になった」
「本当?」
「本当」
その言葉に、かすみは嬉しそうに笑った。
そんな何気ない日々が、二人の間に積み重なっていった。かすみが疲れて眠ってしまえばルビアが毛布をかけ、ルビアが怪我をすれば、今度はかすみが治療する。
「ルビア、動かないで」
「これくらい平気だって」
「血が出てる」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない」
「……はいはい」
ルビアは苦笑した。
かすみが治療を終えると、傷口を確認する。
「もう大丈夫」
「ありがと」
「無茶しないでね」
「それ、昔あたしが言ってたことじゃない?」
「じゃあ、今度は私が言う」
「そっか」
ルビアは笑った。
最初は、ルビアがかすみを守っていた。何も知らない十二歳の少女を連れて歩き、必要なことを一つずつ教えた。
それがいつの間にか、依頼を受ければルビアが読むより先にかすみが内容を確認し、町へ入れば宿を探し、必要な食料を買い、次の目的地までの道を考えるようになっていた。危険な場所では自分のことだけでなく、ルビアがどう動くかまで考えている。
「ルビア、今日はこの宿にしよう」
「お、もう決められるようになったんだ」
「前に泊まったことがあるから」
「そっか」
かすみは、自分の足で歩けるようになっていた。
十五歳になる頃には、周囲の人々も彼女をただの幼い少女として見ることはなくなり、勇者としての名も少しずつ広がっていた。
ある町で依頼を終えて戻ってくると、受付の冒険者たちがかすみを見て声を上げた。
「勇者のかすみだ」
「本当にこの子が……」
以前なら、その視線を気にすることもなかった。今のかすみは軽く頭を下げ、それからルビアへ尋ねる。
「帰る?」
「うん。今日はもう休もうか」
「分かった」
その様子を見ながら、ルビアは昔とは違うなと思った。
強さだけなら、もっと早くから十分だった。けれど、十二歳だった少女は五年の旅の中で、力の使い方だけではなく、人との距離の取り方や、自分で考えて選ぶことも覚えていた。
それでも、ルビアだけは変わらなかった。かすみが褒められれば笑い、無茶をすれば叱る。そして時々、昔と同じように頭を撫でる。かすみも、それを嫌がらなかった。
そして十七歳。
夕暮れの野営地で、二人は焚き火を挟んで座っていた。かすみが炎を見つめながら口を開く。
「ルビア」
「ん?」
「私、もう大丈夫だと思う」
ルビアはすぐには答えず、かすみを見た。
十二歳だった少女は、もういない。目の前にいるのは、自分の力で旅を続けられる一人の冒険者だった。
「そっか」
ルビアは微笑んだ。
「うん」
かすみも笑った。
五年間、二人は一緒に歩いた。戦って、笑って、ときには喧嘩をして、それでもまた仲直りした。ルビアに教えられていたことを、いつしかかすみが自分でできるようになり、怪我をしたルビアの手当てをすることさえ当たり前になった。
いつの間にか、互いの存在は当たり前になっていた。
けれど、その当たり前が変わる時が近づいていることを、二人とも分かっていた。
その夜、二人はいつもより少し長く、焚き火の前に座っていた。




