第33話「西の大陸」
黒龍ダグラスファーが第百八世界へ追放されてから、しばらくのあいだ、彼は動かなかった。
山脈の頂から人間たちの国を眺め、時には雲の上まで昇り、遠くにある力の気配を探った。
ダグラスファーはこの世界を知っている。
この世界で暴れ、異世界に追放された。ここは自分が生まれた世界だ。
しかし、今のこの世界は、自分が知っている世界とは少し違う。
この世界には、自分と同じように、人間や魔物とは明らかに異なる存在がいる。
一つではない。
森の奥、荒野の向こう、海を隔てた土地。方角も距離も違う場所から、いくつもの大きな力を感じた。
ダグラスファーは、それらへ近づこうとはしなかった。
敵か味方かも分からない相手を確かめるより、先に自分の足場を作るべきだと考えたからだった。
眼下には、人間たちの国が広がっている。
その中でも、魔導帝国は強大だった。
魔力を動力とする戦車を持ち、竜を騎乗用に飼い慣らし、各地から優れた魔術師を集めている。周辺諸国も、その軍事力を無視することはできない。
ならば、そこを奪えばいい。
国も、兵も、蓄えられた魔導具も、そのまま自分の力に変えられる。
ダグラスファーにとっては、それだけのことだった。
魔導帝国の国境に黒い影が現れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
最初に異変へ気づいたのは、国境砦の見張りだった。
雲だと思った影が、ゆっくりと翼を広げた。
警鐘が鳴る。
砦の門が閉まり、城壁の上へ魔術師たちが並んだ。地上では魔導戦車が砲口を空へ向け、その後方から竜騎士たちが次々と飛び立つ。
黒龍は止まらなかった。
魔導砲が放たれる。
幾筋もの光が空を走り、巨大な身体へ直撃した。遅れて魔術師たちの攻撃が重なり、爆炎が黒龍を覆う。
兵たちの間から声が上がった。
だが、炎の向こうから翼が現れた。
傷らしい傷は見えない。
ダグラスファーが一度羽ばたく。
それだけで爆炎が吹き散らされ、空へ上がっていた竜騎士たちの隊列が崩れた。騎竜が風に煽られ、何騎も高度を失っていく。
続いて黒龍が口を開いた。
吐き出された黒い炎が城壁を横切る。
魔術障壁が幾重にも立ち上がったが、一枚、二枚と砕け、最後の障壁まで割れたところで炎は城壁へ届いた。
石が赤く焼け、砲台の一つが崩れ落ちる。
「撃て! 止めろ!」
指揮官の声に応じ、残った魔導戦車が一斉に砲撃した。
ダグラスファーは地上へ降りた。
巨体が着地した瞬間、大地が揺れた。
先頭の戦車が跳ね、履帯が地面から浮く。
黒龍はそのまま歩いた。
砲撃を受けても足を止めない。
一台の魔導戦車へ前脚を振るう。厚い装甲がひしゃげ、車体が横へ飛んで別の戦車へ衝突した。
竜騎士が背後から槍を構えて降下する。
振り返りもしない。
尾が空を薙ぎ、騎竜ごと弾き飛ばした。
人間たちは弱い。
少なくとも、自分を止められるほどではない。
ダグラスファーは確信した。
この国を奪うことは難しくない。
ここを足場にすれば、さらに周辺の国も手に入れられる。
いずれ、この世界そのものを――。
そこで、足が止まった。
遠い場所で、一つの気配が消えた。
ダグラスファーが顔を上げる。
戦場ではまだ砲撃が続いている。
だが、彼の意識はもう人間たちへ向いていなかった。
先ほどまで確かに感じていた大きな力が、一つ、なくなっている。
続いて、二つ目が消えた。
間を置かず、三つ目。
「……何だ?」
四つ。
五つ。
遠すぎて、そこで何が起きているのかまでは分からない。
ただ、消えていく気配の一つ一つが、道端の魔物などとは違うことだけは分かった。
自分と同じように、この世界の生き物から外れた力。
それが次々と消えている。
六つ目。
ダグラスファーの目が細くなる。
偶然ではない。
互いに争っているのなら、これほど短い間に一方的に消え続けるのは不自然だった。
そして、七つ目が消えた。
直後。
遠い山の方角から、それまでとは比較にならないほど大きな力が一瞬だけ広がった。
距離があるにもかかわらず、黒龍の鱗がわずかに震えた。
ダグラスファーは動かなかった。
魔導砲が肩へ当たり、光が弾ける。
それでも人間の軍勢を見ることなく、七つの気配が消えた方角を見つめていた。
あそこに、何かがいる。
七つを消した何かが。
それが何者なのかは分からない。
人間なのか、神なのか、あるいは自分たちと同じようにこの世界へ追いやられた存在なのか。
分からないからこそ、今は近づくべきではない。
この国を手に入れれば、領土を守らなければならなくなる。
兵を持てば動きも知られる。
正体すら分からない相手がいる状況で、わざわざ自分から動けない場所を作る必要はない。
ダグラスファーは翼を広げた。
「退くのか……?」
城壁の上で、誰かが呟いた。
黒龍は答えない。
大地を蹴り、空へ上がる。
竜騎士たちは追わなかった。
追える者も、もうほとんど残っていなかった。
ダグラスファーは西へ向かった。
七つの気配が消えた場所から、離れる方角へ。
同じ頃、別の土地でも異変が起きていた。
森の奥で地面を這っていた厄災が突然動きを止める。荒野を進んでいた厄災も、岩山を越えていた厄災も、ほとんど同じ頃に足を止めた。
何かを感じ取ったようだった。
それは音ではなく、目に見えるものでもない。遠く離れた場所から、山を震わせるほどの巨大な力が一瞬だけ広がり、その気配はすぐに消えた。それでも厄災たちは、それまで進んでいた方向へ戻ろうとはしなかった。
東へ向かっていた一体が身体の向きを変え、西を向く。それにつられるように、別の厄災も進路を変えた。
森の中を進んでいたものは木々をなぎ倒しながら西へ向かい、荒野にいたものは大地を踏み砕きながら歩いていく。山を越える厄災が通った場所では岩壁が崩れ、深い森では木々が根元から倒れていった。
地響きを感じた獣が茂みへ逃げ、行く手にいた旅人も荷を抱えて道を空けた。
まるで、何かから離れようとしているようだった。
やがて、別の場所にいた厄災も同じ方向へ向かい始めた。
東から西へ。
一体、また一体と、それぞれ別の場所にいた厄災たちは、互いに示し合わせることもなく同じ場所を目指して進んでいく。
その中には、魔導帝国を離れた黒龍の姿もあった。
その先にあったのが、西の大陸だった。
西の大陸には、人間の王国が少ない。広大な荒野や深い森が広がり、そこには悪魔や魔物たちが暮らしている。厄災たちにとって、人の暮らす土地よりも身を隠しやすく、何より東から離れるには都合のいい場所だった。
最初の厄災が西の大陸へ入った。
それからしばらくして、別の厄災が姿を現した。さらに一体、また一体と続き、やがて十五体の厄災が西の大陸へ集まった。
彼らが大陸へ足を踏み入れるたび、大地が震えた。森では木々が倒れ、岩山では崖が崩れる。遠く離れた村にまで地響きが届き、人々は何が起きているのか分からないまま空を見上げた。
厄災たちは、そのまま進んでいった。
一つの村へ近づくと、そこに暮らしていた魔物たちが逃げようとする。ところが、逃げた先にも別の厄災が現れた。
行き場を失った魔物たちは足を止めた。
目の前に立つ巨大な存在を見上げ、やがて一体がゆっくりと地面へ伏せる。それを見た周囲の魔物たちも、次々と身体を低くしていった。
抵抗する者はいなかった。
厄災は何も語らない。ただ、その場に立っている。それだけで十分だった。
人間の村でも同じだった。
武器を手にした者たちがいても、厄災が一歩踏み出すだけで地面が揺れ、剣先が震え、やがて剣が土の上へ落ちる。家の壁には亀裂が走り、屋根から瓦が落ちてくる。
誰もが理解した。
戦って勝てる相手ではない。
こうして、西の大陸では少しずつ厄災の支配する土地が広がっていった。
その噂は、やがて旅人たちによって東へ運ばれていく。
西の大陸に、十五体の厄災が集まった。
なぜ集まったのか。
それを知る者は、まだいなかった。
ただ一つ確かなのは、厄災たちがそれまでいた場所から離れ、何かを避けるように西へ向かったということだけだった。




