第32話「七つの厄災」
かすみと別れてから、ルビアは一人で山道を進んでいた。次の街で受けた依頼を片付けるためだったが、険しい道を半ばまで進んだところで、ふと足を止めた。
風が妙に弱い。鳥の声も聞こえない。山の向こうからは地面を揺らすような低い音が響き、遠くで何か巨大なものが動くたび、足元の土までかすかに震えていた。
「……何?」
ルビアは剣の柄へ手を添え、音のする方へ慎重に進み、少し離れた山の頂へ出た。眼下の森には、異なる魔力がいくつも重なり合っていた。
山頂から見下ろした斜面が、轟音とともに崩れた。巨大な岩が転がり、太い木々が根元からへし折られていく。岩同士がぶつかるたびに石が弾け飛び、土煙の向こうに現れた巨大な影を見て、ルビアの足が止まった。
一体ではない。
炎をまとったもの、雷を纏ったもの、氷を吐き出すもの。大地を震わせながら歩くものまでいる。その数を目で追ったルビアは、思わず息を呑んだ。
「……七体」
七体の厄災が、森の中央にいる一人の少年を取り囲んでいた。
「なんで……あの子が……」
少年は譲だった。
譲は短刀を手にしたまま、七体の厄災を前にして静かに立っている。その姿には、追い詰められた様子も、怯えた様子もなかった。
最初の厄災が動いた。巨大な腕が振り上げられ、そのまま譲へ叩きつけられる。
「逃げて!」
ルビアの声は山頂の風に消え、譲のいる森までは届かなかった。
次の瞬間、譲の姿が消えた。轟音とともに拳が大地へめり込み、地面が大きく陥没する。衝撃は波のように周囲へ走り、岩が一斉に砕け、弾き飛ばされた石が木々をへし折っていった。山肌には亀裂が走り、斜面の土砂まで崩れ始める。
ルビアは反射的に腕で顔を覆った。山頂の足元まで揺れが伝わり、木の葉が肩へ落ちた。
これほどの威力をまともに受ければ、身体が無事で済むとは思えない。それどころか、あの一撃が自分へ向けられていたなら、剣で受けるという選択肢すらなかった。避けられなければ、それで終わる。
しかし土煙が晴れたとき、譲は少し離れた場所に立っていた。遠目には、傷ついた様子も見えなかった。
「……速い」
呟いたルビアの眼下で、譲が短刀を向けた。
炎が弾ける。
一瞬で膨れ上がった火柱が厄災を包み込み、その巨体を吹き飛ばした。炎の熱で周囲の草木まで一気に燃え上がり、黒く焦げた地面だけが残る。炎が消れたあとには、砕けた外殻だけが転がっていた。
ルビアの目が見開かれる。
「……一撃?」
さっきまで山を揺らしていた存在が、あまりにも呆気なく倒れた。
それでも残る六体は止まらない。一体が炎を吐き出し、赤い奔流が森を横切った。木々は瞬く間に燃え上がり、離れた山頂のルビアにも、森に炎の壁が広がるのが見えた。燃えた木が倒れると、その火は隣の木へ移っていった。
その直後、別の厄災が雷を放った。空気が震え、白い閃光が地面を貫く。落雷を受けた木は幹の途中から吹き飛び、地面には黒く焼け焦げた跡が残った。さらに一度、二度と雷が落ちるたび、森の中から逃げ場が削られていく。
そこへ氷が重なった。
地面を這う冷気が炎の届いていない場所まで一気に広がり、草木を白く染める。凍りついた枝は重みに耐えきれず折れ、地面には氷の亀裂が幾筋も走った。炎と氷が同時に存在することで空気そのものが不安定になり、熱で膨張した空気が冷気に押し戻され、そこへさらに雷が落ちる。
大地を操る厄災が足を踏み鳴らすと、今度は地面そのものが波打った。森の中の木々が一斉に揺れ、地中から巨大な岩の塊が突き出してくる。逃げ道だったはずの場所まで岩に塞がれ、山道そのものが少しずつ形を失っていった。
ルビアは山頂の木の陰へ身を寄せた。
「……これが、厄災……」
何度か相対したことのある存在だ。一体だけでも、まともに戦えば命を削られる。炎の厄災なら近づくだけで焼かれ、雷の厄災なら攻撃を目で追うより先に雷が落ちる。氷の厄災は周囲そのものを凍らせて動ける場所を奪い、大地を操る厄災に至っては、戦っている場所そのものを武器に変えてしまう。
それが七体。
しかも今は、それぞれが好き勝手に力を振るっているだけではない。炎が逃げ道を塞ぎ、雷がその隙を狙い、氷が足場を奪い、大地が動きを封じる。互いの力が重なるたび、森の中から安全な場所が消えていった。
ルビアが戦う側だったなら、どこへ逃げても次の攻撃が待っている。まともに戦う以前に、生き残ることさえ難しい。
けれど、その中心にいる譲は違った。
炎が迫れば届かない場所へ移り、雷が落ちれば、その瞬間にはすでに別の場所にいる。足元の大地が隆起しても、崩れるより早くそこから離れていた。
単に速いというだけではない。七体が同時に放つ攻撃の軌道を見て、次に危険になる場所を先に選んでいる。譲が動いた直後、さっきまで立っていた場所が炎に包まれ、雷に砕かれ、巨大な岩に押し潰されていった。
周囲では岩が砕け、木々が倒れ、山の形さえ少しずつ変わっていく。その中を、譲だけが静かに動いていた。
ルビアは目を離せなかった。
一体の厄災が譲へ突進する。巨大な爪が振り下ろされたが、譲の姿はその脇へ抜け、爪は空を切った。その勢いのまま厄災が岩壁へ突っ込み、岩壁が崩れ落ちるより早く、譲の短刀が閃く。
巨体が崩れた。
続いて別の厄災が襲いかかる。譲のいた場所を攻撃が通り過ぎ、譲の姿はすでに巨体の懐へ入り込んでいた。厄災が振り下ろした腕が地面を叩き、その衝撃で周囲の木々がまとめて倒れる。その直前、厄災の陰から短刀が一度閃いた。
また一体が倒れた。
「……」
ルビアの口から声が出なかった。
三体。四体。
七体の厄災が持つ力は、一体ずつでも山を破壊するほどだった。それが四体倒れるまでの間、譲は一度も真正面からその力を受けていない。攻撃が届く前にかわし、隙が生まれれば確実に仕留めている。
それでも、厄災の側にとって数の優位が消えたわけではなかった。
残った三体が距離を取り、同時に力を溜め始める。炎が膨れ上がり、雷が空を走り、氷が地面を覆う。山そのものが唸っているようだった。
やがて、残った厄災が一斉に譲へ向かった。
炎と雷が重なり、氷が大地を覆う。衝撃で地面が揺れ、周囲の木々が根ごと持ち上げられた。炎で焼けた地面が氷によって急激に冷やされ、そこへ雷が落ちる。爆発した岩が四方へ飛び、山肌まで震えた。
ルビアは思わず息を止めた。
「あれは……まずい」
譲の姿が、爆発する炎と土煙の向こうへ消えた。これまでとは違う。逃げる場所そのものがなくなっていた。
胸が強く鳴る。
だが次の瞬間、土煙を突き抜けるように一つの影が飛び出した。
譲だった。
あれほどの爆発の後でも、動きに鈍りは見えなかった。
譲は空中で身体を翻し、そのまま地面へ降り立つと、すぐに短刀を掲げた。
「終わりにするね」
譲の声は穏やかだった、離れた山頂までは届かなかった。
足元に魔法陣が広がる。一つ、二つ、三つ。重なった魔法陣が一気に輝き、山全体を白い光が覆った。
次の瞬間、視界が白く染まり、轟音が響き渡った。岩壁が砕け、木々が大きく揺れ、土煙が空高く舞い上がる。地面を伝わった衝撃はルビアの足元まで届き、立っているだけで身体が揺さぶられた。
ルビアは腕で顔を覆いながら、それでも指の隙間から前を見ていた。
やがて光が消え、静寂が戻った。
崩れた岩、折れた木々、大きく抉られた地面。焼け跡と氷の残骸が入り混じり、森は戦いが始まる前とはまるで別の場所になっていた。そこにあるのは、七体の厄災が残した破壊の痕跡だけだった。
その中央に、譲が立っている。
七体の厄災は、もうどこにもいなかった。
譲は短刀を下ろし、周囲を見回した。
譲が「……終わった」と呟く声は、ルビアには届かなかった。
遠くから見えるその姿には、疲れた様子さえほとんどない。
ルビアは山頂の木の陰から動けなかった。眼下に広がる光景を見れば、どれほど激しい戦いだったのかは分かる。山は傷つき、森は壊れている。あの七体が放った力が決して小さなものではなかったことくらい、嫌でも理解できた。
それなのに。
「……あれだけ戦って、傷を負ったようには見えない」
自分ならどうだっただろう。
そう考えかけて、ルビアはやめた。答えを出すまでもなかった。
かすみの戦いを思い出す。あの少女でさえ、厄災と向き合えば真正面から力をぶつけ、傷を負いながら戦っていた。それが普通なのだと思っていた。厄災とは、そういう相手なのだと。
けれど、眼下の少年は違う。七体を相手にしても、最後まで落ち着いた動きのままだった。
ルビアの指先が震えた。
「あんなの……勝てるわけない」
喉から出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
その言葉を口にした瞬間、ようやく理解した。
厄災が弱いわけではない。
この少年が、おかしいのだ。
譲はそんなルビアの存在に気づくこともなく、眼下の壊れた森を歩いていった。倒れた木々を避け、崩れた岩を越え、背中が遠くなってから山の奥へ消えた。
姿が見えなくなっても、ルビアはしばらく動けなかった。
消える直前の遠い背中を思い浮かべながら、ルビアは呟く。
「……子供?」
そのとき、以前耳にした噂が頭をよぎった。
人間とは思えないほどの力を持つ存在。
その噂と、今、自分が目にした少年の姿が重なる。
「……譲」
ルビアは小さく息を呑んだ。
「……あれが、噂になっていた大魔王か……!」
離れた山頂に、ルビアの声だけが残った。眼下の森には静かに風が吹いていた。




