第29話「世界最強」
世界は広い。
国境を越え、山を越え、海を渡る。その先にも人の暮らす土地があり、誰も名前を知らない森があり、長い年月の中で忘れ去られた遺跡が眠っている。かすみは、そんな世界を一人で歩いていた。
決まった目的地があるわけではない。自分の知らない場所へ行き、知らないものを見つける。ただそれだけのことが、いつの間にか彼女にとって旅と呼べるものになっていた。
ある森では、風の精霊と出会った。木々の間を抜けてきた風がかすみの身体を包み込み、耳元を過ぎていく。
知らない土地へ着けば、人の暮らしを見て歩く。名も残らない森へ入り、埋もれた遺跡があれば足を止めた。行き先を決めるのは、そこにまだ知らないものがあるという、それだけの理由だった。
『もっと速く』
声が聞こえた瞬間、身体が驚くほど軽くなった。
「わあ……!」
思わず駆け出した。最初は一歩だった。それが二歩、三歩と続き、気づけば風に追いつくような速さで森の中を走っていた。
別の土地では、大地の精霊に認められた。
『決して揺らがぬ強さを』
足元から伝わった力が、身体の奥へ静かに染み込んでいく。山を越えた先では水の精霊が彼女を迎え、さらに旅を続けるうちに、炎、雷、光、氷と、新しい力が一つずつ増えていった。
精霊から授かるものばかりではなかった。訪れた町で剣士と出会えば、その剣を見て学び、槍を使う戦士がいれば動きを覚える。弓を得意とする冒険者の技を目にすれば、自分も弦を引いて何度も標的へ矢を放った。魔術師と出会えば術式について尋ね、古い遺跡を見つければ、そこに残された魔術を調べた。
一つを知れば、その先が知りたくなる。身につけたものが増えるほど、まだ知らないものの多さにも気づかされた。かすみにとって強くなることと世界を知ることは、いつの間にか同じ旅の中にあった。
そうして歩き続けるうちに、彼女の手には神話級と呼ばれる武具まで集まり始めた。剣、槍、弓、そして膨大な魔力を引き出す杖。どれも一国の宝になってもおかしくないものだったが、かすみはそれらを眺めても、特別な感慨を抱かなかった。
旅の途中で立ち寄った町の外れ、夕暮れの空を見上げながら一人で呟く。
「まだまだ……もっと強くなれる」
その言葉は、やがて現実になった。
剣を振れば、熟練の剣士でさえ追いつけない。槍を握れば、達人の技を見ただけで吸収していく。弓を引けば遥か遠くの標的を射抜き、魔術を学べば古い時代の術式さえ理解してしまう。傷を負えば自ら治癒し、必要になれば武器を捨て、拳だけで戦った。
いつしか、かすみの前では「できない」という言葉が、ほとんど意味を持たなくなっていた。
そして、ある戦いを境に、その強さを語る声が広がり始めた。
「あの少女を見たのか?」
「ああ。剣を持っていた」
「剣だけじゃない。魔術も使っていたぞ」
「本当に?」
「ああ。あれほどの力を持つ冒険者は見たことがない」
最初は、一つの町で交わされる噂にすぎなかった。それが旅人や商人とともに別の町へ伝わり、国境を越え、やがて海の向こうまで渡っていった。
「あの少女は剣聖を超えたらしい」
「魔術師としても最高峰だそうだ」
「弓も使える」
「槍も格闘もできるらしい」
人々の言葉は伝わるたびに大きくなり、いつしか一つの呼び名が生まれた。
――最強の勇者。
その名を初めて聞いたとき、かすみは首を傾げた。
「私が?」
「そうだよ。知らないの?」
旅の途中で出会った冒険者にそう言われ、かすみは少し困ったように笑った。
「知らなかった」
「知らなかったって……」
冒険者は呆れたように笑った。
けれど、その噂は冗談では終わらなかった。過去に名を残した英雄たち、数々の強敵を倒してきた歴代の勇者たち、神話に語られるほどの偉業を成し遂げた者たち。そうした者たちの名前と並べて語られるようになっても、かすみの強さは止まらなかった。
百八の世界には、長い歴史の中で数え切れないほどの勇者が現れてきた。そのすべてを通しても、かすみは最も強い。そう語る者まで現れ、やがて新たな呼び名が世界中に知られるようになった。
――歴代最強の勇者。
けれど、その日もかすみは一人で旅をしていた。
ある町を出たあと、夕暮れの丘に腰を下ろした。傍らには、これまでの旅で手に入れた武具が置かれている。風が髪を揺らし、遠くでは町の明かりが一つ、また一つと灯り始めていた。
「……強くなったなぁ」
人を救ったときには、その手を握って礼を言われた。魔物を倒せば歓声が上がった。どれだけ強くなっても、探している小さな手にはまだ触れられない。
かすみは小さく笑った。
確かに、昔よりずっと強くなった。できることも増えたし、知らなかったこともたくさん知った。今では世界最強と呼ばれ、百八の世界の歴代の勇者たちと比べられるほどになった。
それなのに、胸の奥にはどこか空白が残っていた。
その空白を埋められる日が来るのかは、かすみ自身にも分からない。
丘の上から眺める町には、もう夜が近づいていた。旅を始めてからいくつもの国を歩き、山を越え、海を渡り、そのたびに知らなかったものを知ってきた。
それでも世界には、まだ自分の知らない場所があり、見たことのないものがある。
かすみは立ち上がった。
「行こう」
傍らの武具を手に取り、夕日へ背を向けて歩き始める。
世界最強と呼ばれるようになっても、その名を誇ることはなかった。何かを手に入れたから旅を終えることもなく、また広い世界の中へ歩いていく。
どこを探せば息子に会えるのか、かすみにはまだ分からない。
ただ、胸の奥に残る空白を抱えたまま、彼女はまだ知らない場所へ向かって歩き続けていた。




