第28話「人間界へ」
洞窟へ戻った譲は、入口に並べた二つの石を眺めた。
いつからだったのかは分からない。ただ、この二つの石を見ると、ここへ戻ってきたのだと思うようになっていた。雨の日には洞窟の奥で雨音を聞き、夜には石の淡い光を眺めながら眠った。誰かに与えられた場所ではなく、自分で見つけ、自分で住み始めただけの場所だった。
それでも、離れることを考えると、足が少し重くなる。
譲は考えるのをやめ、洞窟の中に残していたものをまとめた。乾かした木の実と、以前拾った石片、それからいくつかの魔石。並べてみると、魔界へ来てから増えたものは驚くほど少ない。
生きるだけなら、それで十分だった。食べるものは探せば見つかる。水もある。眠る場所もある。魔獣に襲われても、自分の身を守ることには困らない。魔族や悪魔に出会っても、こちらから近づかなければ大きな問題にはならなかった。
ここで暮らすことは難しくない。それなのに、帰ろうと思った。
譲には、その二つがどうして一緒にあるのか分からなかった。
洞窟の外へ出ると、朝の光が谷を照らしていた。空へ浮かび上がろうとしたとき、遠くから黒い影が近づいてくる。黒い翼と長い角を持つ、以前、壊れた境界門の前で出会った悪魔だった。
「また来たのか」
「うん。ちょうどよかった」
譲は懐から石片を取り出し、これが反応する場所を見つけたこと、帰る方法があるかもしれないことを話した。悪魔は石片へ目を落とし、しばらく見つめてから短く答えた。
「……そうか」
譲がそのまま行こうとすると、悪魔が呼び止めた。
「お前は、本当に帰るのか」
譲は振り返った。
「帰りたいからね」
「なぜだ?」
答えは、門の前で尋ねられたときから変わっていない。
少し考えたが、やはり答えは浮かばなかった。
人間界へ戻ったところで、自分を待っている人がいるわけではない。戻れば、また怖がられるかもしれない。魔界にいるほうが誰にも何も求められずに済み、静かに暮らせる。自分の好きな場所へ行き、好きなときに眠り、誰にも邪魔されない。
それなのに、帰りたい。
言葉にしようとすると、どれも違う気がした。
「……分からない」
悪魔は眉を寄せた。
「分からないのに帰るのか」
「うん。でも、帰りたいんだ」
悪魔は、それ以上理由を聞かなかった。
譲は少し意外だった。人間界にいた頃なら、理由を説明できない気持ちは、自分でも信用できなかったかもしれない。けれど、この悪魔は「分からない」という答えを、そのまま受け取っている。
譲はふと、以前から気になっていたことを尋ねた。
「最初に会ったとき、ぼくのこと怖かった?」
「怖かった」
迷いのない返事に、譲は少し目を丸くした。
「やっぱり」
「だが、お前が何をするか分からないことと、お前が何者なのかは別の話だ」
譲は黙った。
魔界へ来てから、自分を怖がる者は何人もいた。炎を向けてきた者もいれば、姿を見ただけで逃げていった者もいる。この悪魔も怖がっていた。それでも、話をした。
譲はその違いを、以前より少しだけ分かるようになっていた。
悪魔は腰のベルトから小さな黒い石を外した。掌に収まるほどの大きさで、表面には細い亀裂のような紋様が走っている。
「これを持っていけ」
「何?」
「境界の近くでは魔力が乱れる。それを持っていれば、お前の魔力が周囲へ流れすぎるのを抑えられる」
譲が石を受け取る。ひやりとしていると思った掌には、ほんのりとした温かさが残った。
「大事なものじゃないの?」
「昔から持っていただけだ。もう使わない」
譲は石を見つめてから懐へしまった。
「そっか。ありがとう」
悪魔は返事をしなかった。ただ、以前とは少し違う顔をしていた。
譲には何を考えているのか分からなかったが、返してくれと言われなかったので、そのまま受け取っておくことにした。
「じゃあ、また」
譲が言うと、悪魔は少しだけ目を細めた。
「……ああ」
譲は空へ浮かび上がった。遠ざかっていく谷を見下ろしながら、魔界へ来たばかりの頃を思い出す。
食べ物があり、水があり、眠れる場所がある。それだけで生きていけると思っていた。けれど今、離れようとしている場所には、それだけではないものがあった。
あの洞窟。遠くから眺めた集落。焚き火を囲んで笑っていた魔族たち。そして、自分を怖がりながらも話をしてくれた悪魔。
いつの間にか、どれも記憶の中に残っていた。
譲が懐へ手を入れると、黒い石と石片が触れ合った。その瞬間、石片の術式が淡く光り、黒い石の紋様にも同じような光が走る。
譲は二つを取り出して見比べた。
どうやら黒い石は、単に自分の魔力を抑えるためのものではない。石片の術式と反応し、境界付近で乱れる魔力の流れを整えているらしい。
「これなら、もう一度試せそうだ」
譲は向きを変えた。
目指す場所は決まっている。石片が示していた、巨大な樹木の根元にある古い建物だった。
谷を越え、森を抜ける。やがて、周囲の木々より何倍も高く伸びた黒い樹木が見えてきた。枯れているように見えるのに、その根だけは地中深くへ、生き物のように伸びている。その根元に、古い建物が半ば土へ埋もれていた。
譲は地面へ降り、建物の中へ入った。
石室の中央には、以前見つけた魔法陣が残っている。欠けた術式を一周眺めてから、譲は黒い石を中心へ置いた。すると、欠けていた術式の一部が淡く光った。
譲はしゃがみ込み、指先で術式をなぞる。
境界門とは違う。この術式は二つの世界そのものを繋ぐものではなく、もっと小さく、もっと限定された仕組みになっている。誰か一人を、決められた場所へ通すための術式だった。
譲は魔力を流した。最初は細く、次に、その流れを崩さないよう少しずつ量を増やしていく。魔法陣が光り始めると、そこで一度力を抑えた。
強引に動かすことはできる。けれど、動かせることと、正しく動くことは違う。
壊れた境界門を前にして、譲は力だけではどうにもならないものがあると知った。
魔力の流れを一つずつ確かめ、壊れた部分を補っていく。やがて魔法陣の中央に光が生まれ、それはゆっくりと広がった。
その向こうに浮かび上がったのは、見慣れた森の景色だった。木々の色も、空の明るさも、人間界のものだった。
譲は黙って見つめた。
帰れる。
嬉しいはずだった。けれど、胸に浮かんだのは喜びだけではなかった。
魔界へ来たばかりの頃なら、帰る場所があるなら帰ればいいと思っていただろう。今は、向こうへ戻れば、魔界で過ごした時間を置いていくような気がした。
もちろん、時間が消えるわけではない。あの洞窟も、焚き火も、悪魔の声も、自分の中からなくなるわけではない。それでも、もう一度だけあの場所へ戻っておきたいと思った。
譲はしばらく光の向こうを見つめた。
帰ると決めた。なら、進むしかない。
振り返ると、石室の外には黒い樹木が立ち、その向こうには何日も歩いた魔界の森が続いていた。
もう、何もない場所には見えなかった。
「……また来るかもしれないね」
誰もいない場所へ呟き、譲は光の中へ足を踏み入れた。
身体が一瞬、何かに引かれる。次の瞬間、足元へ土の感触が戻り、風が頬を撫でた。
譲は目を開けた。
最初に感じたのは、匂いだった。湿った土の匂い、草の青臭さ、遠くから漂ってくる薪の煙。魔界とは違う、薄く軽い空気が肺へ入ってくる。
それだけで、人間界へ戻ったことが分かった。
鳥が鳴いている。葉が擦れている。遠くでは水が流れている。そのさらに向こうからは、人の声が聞こえていた。
一つではない。何人もの声が重なっている。笑い声や、誰かを呼ぶ声が森の向こうから届いてくる。
譲は立ち止まった。
その声を聞いていると、魔界にいた頃のことが次々に浮かんだ。雨の夜に聞いた話し声、焚き火を囲む二人の魔族、「またな」と言った悪魔。そして、自分が誰かの声を聞くために、眠る前まで耳を澄ませていたこと。
魔界にいた頃は、静かなほうが楽だった。誰にも話しかけられず、誰にも何かを期待されない。好きな場所へ行き、好きなときに眠る。それで困ることはなかった。
けれど今、人の声を聞いていると、あの静けさを思い出す。
譲は小さく息を吐き、懐へ手を入れた。指先に黒い石が触れる。その温かさに、あの悪魔の顔が浮かんだ。
石を握ったとき、向こうから一人の男が姿を現した。
男は譲を見ると、足を止めた。視線が合った途端、驚きと困惑が浮かび、それらを押し潰すように恐怖が顔へ広がっていく。
譲は何もしていなかった。魔力も放っていない。ただ、そこに立っているだけだった。それでも男は一歩後ろへ下がった。
「……大魔王」
掠れた声だった。
その呼び方が、譲にはひどく遠いものに聞こえた。
男は振り返り、「大魔王がいる!」と叫んだ。その声を聞きつけた者たちが森の奥から集まり始める。枝を踏み折る音が重なり、複数の声が飛び交った。逃げろという声もあれば、人を呼べという声もある。
譲はその場に立ったまま、人々の顔を見ていた。
魔界へ送られる前にも、自分はこうして見られていた。恐れられていた。
けれど、魔界で過ごした時間を経た今は、そこに別のものが見える。
あの悪魔も、最初は自分を怖がっていた。それでも話をしてくれた。怖いと思いながらも、譲を知ろうとしてくれた。最後には黒い石を渡し、「また」と言ってくれた。
目の前にいる人々は、まだ譲自身を見ていない。彼らが見ているのは、自分に貼りついた恐怖の名前だった。
譲は、それに怒ることができなかった。
ただ、以前より寂しいと思った。
魔界にいた頃は、一人でいることを寂しいとは思わなかった。誰とも関わらなければ、傷つくこともない。そう思っていた。
けれど、誰かが怖がりながらでも自分と話してくれることを知ったあとでは、誰も近づいてこないことが違って見える。
譲は懐へ手を入れ、黒い石を掌へ取り出した。まだほんのりと温かい。その温度に触れた途端、あの谷の景色と黒い翼、最後に交わした言葉が浮かんだ。
「また」
譲は、その言葉を胸の中で繰り返した。
目の前では、さらに人が集まっている。
それでも譲は、彼らから逃げようとは思わなかった。
魔界へ行く前の自分なら、人間に怖がられることだけを見ていたかもしれない。今は、怖がることと、相手を知ろうとすることが別のものだと知っている。
だから、いつか自分もこの人たちと話せるのかもしれないと思った。
そうならないかもしれない。
どちらにしても、今すぐ答えを出す必要はなかった。
譲は黒い石を握り、ゆっくりと歩き始めた。
人間界へ戻った。けれど、魔界へ行く前と同じ目で世界を見ることは、もうできなかった。魔界で聞いた声も、焚き火の熱も、洞窟で過ごした日々も、黒い石の温かさも、すべて残っている。
譲は一度だけ振り返った。
そこには人間界の森しかない。
それでも、遠い魔界のどこかに、もう一度会いたいと思える相手がいる。その気持ちに名前をつけることはできなかった。
譲は黒い石をそっと握り直し、人の声が聞こえるほうへ歩いていった。




