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神々に願った、たった一つの愛  作者: 狹霧
第5章 「大魔王、魔界に落ちる」
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第27話「帰る理由」

雨が上がった翌朝、譲はいつもより早く目を覚ました。洞窟の入口から差し込む光は薄く、雨に濡れた岩肌が淡く光っている。

譲はしばらく横になったまま天井を眺めていた。昨夜、雨音の向こうから聞こえていた魔族たちの声が、まだ耳の奥に残っている。

「またな」

別れ際に交わされた、何気ない言葉だった。なぜか、その言葉が離れなかった。

譲は起き上がって洞窟の外へ出た。雨を吸った森はいつもより濃い匂いがし、葉の先から落ちた水滴が土へ染み込んでいる。川の流れも少し速くなっていた。

川辺に立ち、水面を眺める。

「……帰ろうかな」

口にすると、驚くほど自然に出てきた。

人間界へ戻る。

そう思ったところで、譲は水面から目を上げた。

なぜ帰りたいのだろう。

考えてみても、答えは浮かばなかった。魔界で生きていくことに不自由はない。食べるものも、水も、眠る場所もある。魔獣に襲われても自分の身を守ることには困らないし、魔族や悪魔と出会えば警戒されるものの、こちらから近づかなければ済むことだった。

誰にも何も求められない。それは楽だった。

だからこそ、帰りたいと思った自分が、譲には少し変に思えた。

譲は水へ手を入れた。冷たい感触に触れた途端、昨日見た集落が浮かんだ。火のそばにいた鬼、笑っていた魔族、鍋から立ち上っていた湯気。自分とは関係のない場所で、誰かと誰かが一緒にいる光景だった。

譲は水から手を引いた。

「……帰ろう」

今度は、さっきよりはっきり声にした。

理由は分からない。それでも、その言葉を口にすると、少しだけ身体が軽くなった。

その日から、譲は魔界のさらに奥へ向かうようになった。探しているのは、人間界へ通じる場所だった。

自分がここへ来たときのことを思い出せば、手掛かりはある。村全体に仕掛けられていた魔法陣によって、人間たちは譲を殺すのではなく、別の世界へ送り飛ばした。

ならば、同じような術式が魔界側にも残っているかもしれない。

森を越え、谷を越え、譲は飛びながら周囲を調べた。魔力の流れが不自然な場所を見つければ地上へ降り、古い建物があれば中を覗く。地下へ続く遺跡も何度か見つけたが、どれも崩れており、転移に使えそうなものは残っていなかった。

三日ほど探した頃、黒い岩山の向こうに巨大な石造りの遺跡を見つけた。

そこだけ森が途切れていた。

崩れた柱が何本も並び、その中央に二本の巨大な石柱が立っている。柱と柱の間には何もない。ただ、そこにある空間だけが奇妙に歪んでいた。

譲は地面へ降りた。

近づくにつれて空気が重くなる。石柱の表面には古い文字が刻まれていた。読むことはできなかったが、魔力を流してみると、その意味だけがぼんやりと伝わってくる。

「……境界」

譲は目を細めた。

「人間界との?」

指先を石柱へ触れた瞬間、身体の奥まで響くような振動が走った。

柱の間に淡い光が浮かび、歪んでいた景色が大きく揺れる。一瞬だけ、その向こう側が見えた。

森。

見慣れた木々。

人間界の空。

譲は思わず一歩近づいた。

「帰れる……?」

手を伸ばす。

指先が歪んだ空間へ触れた途端、強烈な抵抗が返ってきた。譲の身体がわずかに後ろへ押し戻される。

「へえ」

珍しく、顔に興味が浮かんだ。

もう一度、今度は少しだけ力を込めてみる。石柱が震え、足元の地面に亀裂が走った。それでも門は開かなかった。

譲はしゃがみ込み、地面に刻まれた術式を調べた。転移魔法に似ている。けれど、普通の転移とは構造が違う。一人を別の場所へ送るための術式ではなく、もっと大きなもの同士を繋いでいる。

「……境界そのものを固定してるのかな」

そのとき、背後から声がした。

「その門に触れるな」

譲が振り返る。

崩れた建物の陰から、一人の悪魔が姿を現した。黒い翼と長い角を持ち、その身体から放たれる魔力は、以前出会った悪魔たちとは比べものにならないほど濃い。

悪魔は譲ではなく、石門を睨んでいた。

「どうして?」

「その門は壊れている」

「壊れてる?」

「見れば分かるだろう」

譲は石柱へ目を戻した。確かに術式の一部が欠けている。中心となる魔力の核も失われていた。

「直せそうだけど」

悪魔は首を横に振った。

「直すだけでは駄目だ。この門は、二つの世界を繋ぐためのものだ。正常な状態なら、一方から一方へ通るための道を作れる。だが、壊れたまま無理に開けば、道だけを作ることはできない」

譲は黙って聞いていた。

「どういうこと?」

悪魔は石門を指した。

「境界そのものが崩れる。魔界と人間界を分けているものがある。それを無理やり破れば、こちら側の土地や生き物まで向こうへ引きずられる。向こう側も同じだ。二つの世界が混ざり始めれば、元に戻すことは難しい」

譲はもう一度、門を見た。

確かに術式は単純な転移とは違っている。一人を動かすためではない。二つの場所そのものを繋ぎ合わせるためのものだった。

「じゃあ、ぼくだけ帰ることはできないんだ」

「今の門ではな」

譲は少し考えた。

「力で壊して通るのも?」

「やめろ」

「どうして?」

「壊せば、もっと酷いことになる」

譲は黙り、石門へ伸ばしかけていた手をゆっくり下ろした。

自分の力なら、この門そのものを壊すことはできるかもしれない。けれど、それでは帰れない。

「……分かった」

悪魔が少し意外そうな顔をした。

「諦めるのか?」

「ううん。帰りたいから、壊すわけにはいかない」

悪魔は何も言わなかった。

譲は地面へ目を落とした。石門の周囲には古い術式がいくつも残っている。門を動かすためのものとは別に、境界を安定させるための術式があり、その一部はまだ生きていた。

「これ、誰かが使ってたのかな」

「昔はな」

「昔?」

「この門がまだ機能していた頃だ」

「じゃあ、他にもある?」

悪魔は答えなかった。

譲は顔を上げる。

「別の門とか、別の方法とか」

「知らん」

「そう」

譲は石門の周囲を歩き始めた。

その途中、崩れた石の下に小さな石片を見つけた。拾い上げると、表面には別の術式が刻まれている。転移に似ているものの、門に刻まれたものとは違っていた。

譲が魔力を流すと、一瞬だけ遠くの景色が浮かんだ。

暗い谷。巨大な樹木。その根元に、古い建造物らしき影がある。

景色はすぐに消えた。

「……こっちにも何かある」

悪魔が譲を見る。

「何を見た?」

「分からない。でも、まだ調べてない場所みたい」

譲は石片を懐へ入れた。

帰るための手掛かりは見つかった。すぐに帰ることはできず、壊れた門を無理に使えば世界の境界まで壊してしまう。ならば、別の方法を探すしかない。

譲にとって、それは初めて力だけでは片づかない問題だった。

不思議と嫌な感じはしなかった。知らない場所を探し、知らない術式を調べ、まだ誰も知らない道を見つける。そう考えると、少しだけ楽しくなった。

「じゃあ、探してみるよ」

悪魔が譲を見る。

「お前は、本当に帰るつもりなのか」

「うん」

「なぜだ?」

また同じ問いだった。

譲は答えようとして、口を閉じた。

人間界が好きだから、と言うほど好きだったわけではない。誰かに会いたい、と言えるほど、具体的に会いたい相手がいるわけでもなかった。

それでも、魔界へ来てから、ときどき思い出すものがある。

温かい手。遠くから聞こえる声。食器の触れ合う音。誰かが笑う声。

顔も名前も浮かばないのに、それらを思い出すと、人間界へ戻りたくなった。

「……分からない」

悪魔は眉を寄せた。

「分からないのに?」

「うん。でも、帰りたい」

譲は石門を見上げた。

「だから、帰れる方法を探す」

大きな理由があるわけではない。誰かに説明できる言葉もない。それでも、帰りたいという気持ちだけは消えなかった。

譲は空へ浮かび上がった。

帰る前に、洞窟へ戻らなければならない。

そう思ったとき、胸の奥がほんの少しだけ重くなった。

二つの石を並べた場所。雨の日に眠った場所。森から拾ってきた実を置いた場所。誰にも見せるつもりのなかった、小さな生活。

そこを離れることを考えると、足が止まりそうになる。

譲は空中で振り返った。魔界の森が遥か彼方まで広がっている。

最初は、何もない世界だと思った。今は違う。知らないものが多すぎるからこそ、まだ歩いていない場所へ行ってみたい。その先に人間界へ戻る道があるのかもしれないし、もっと別の何かが見つかるのかもしれない。

譲は小さく息を吐いた。

「……忙しくなりそうだな」

誰もいない空で呟いた声には、以前にはなかったわずかな弾みがあった。

譲は洞窟へ向かって飛んだ。

帰るために。

そして、自分がなぜ帰りたいと思ったのかを知るために。

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