第27話「帰る理由」
雨が上がった翌朝、譲はいつもより早く目を覚ました。洞窟の入口から差し込む光は薄く、雨に濡れた岩肌が淡く光っている。
譲はしばらく横になったまま天井を眺めていた。昨夜、雨音の向こうから聞こえていた魔族たちの声が、まだ耳の奥に残っている。
「またな」
別れ際に交わされた、何気ない言葉だった。なぜか、その言葉が離れなかった。
譲は起き上がって洞窟の外へ出た。雨を吸った森はいつもより濃い匂いがし、葉の先から落ちた水滴が土へ染み込んでいる。川の流れも少し速くなっていた。
川辺に立ち、水面を眺める。
「……帰ろうかな」
口にすると、驚くほど自然に出てきた。
人間界へ戻る。
そう思ったところで、譲は水面から目を上げた。
なぜ帰りたいのだろう。
考えてみても、答えは浮かばなかった。魔界で生きていくことに不自由はない。食べるものも、水も、眠る場所もある。魔獣に襲われても自分の身を守ることには困らないし、魔族や悪魔と出会えば警戒されるものの、こちらから近づかなければ済むことだった。
誰にも何も求められない。それは楽だった。
だからこそ、帰りたいと思った自分が、譲には少し変に思えた。
譲は水へ手を入れた。冷たい感触に触れた途端、昨日見た集落が浮かんだ。火のそばにいた鬼、笑っていた魔族、鍋から立ち上っていた湯気。自分とは関係のない場所で、誰かと誰かが一緒にいる光景だった。
譲は水から手を引いた。
「……帰ろう」
今度は、さっきよりはっきり声にした。
理由は分からない。それでも、その言葉を口にすると、少しだけ身体が軽くなった。
その日から、譲は魔界のさらに奥へ向かうようになった。探しているのは、人間界へ通じる場所だった。
自分がここへ来たときのことを思い出せば、手掛かりはある。村全体に仕掛けられていた魔法陣によって、人間たちは譲を殺すのではなく、別の世界へ送り飛ばした。
ならば、同じような術式が魔界側にも残っているかもしれない。
森を越え、谷を越え、譲は飛びながら周囲を調べた。魔力の流れが不自然な場所を見つければ地上へ降り、古い建物があれば中を覗く。地下へ続く遺跡も何度か見つけたが、どれも崩れており、転移に使えそうなものは残っていなかった。
三日ほど探した頃、黒い岩山の向こうに巨大な石造りの遺跡を見つけた。
そこだけ森が途切れていた。
崩れた柱が何本も並び、その中央に二本の巨大な石柱が立っている。柱と柱の間には何もない。ただ、そこにある空間だけが奇妙に歪んでいた。
譲は地面へ降りた。
近づくにつれて空気が重くなる。石柱の表面には古い文字が刻まれていた。読むことはできなかったが、魔力を流してみると、その意味だけがぼんやりと伝わってくる。
「……境界」
譲は目を細めた。
「人間界との?」
指先を石柱へ触れた瞬間、身体の奥まで響くような振動が走った。
柱の間に淡い光が浮かび、歪んでいた景色が大きく揺れる。一瞬だけ、その向こう側が見えた。
森。
見慣れた木々。
人間界の空。
譲は思わず一歩近づいた。
「帰れる……?」
手を伸ばす。
指先が歪んだ空間へ触れた途端、強烈な抵抗が返ってきた。譲の身体がわずかに後ろへ押し戻される。
「へえ」
珍しく、顔に興味が浮かんだ。
もう一度、今度は少しだけ力を込めてみる。石柱が震え、足元の地面に亀裂が走った。それでも門は開かなかった。
譲はしゃがみ込み、地面に刻まれた術式を調べた。転移魔法に似ている。けれど、普通の転移とは構造が違う。一人を別の場所へ送るための術式ではなく、もっと大きなもの同士を繋いでいる。
「……境界そのものを固定してるのかな」
そのとき、背後から声がした。
「その門に触れるな」
譲が振り返る。
崩れた建物の陰から、一人の悪魔が姿を現した。黒い翼と長い角を持ち、その身体から放たれる魔力は、以前出会った悪魔たちとは比べものにならないほど濃い。
悪魔は譲ではなく、石門を睨んでいた。
「どうして?」
「その門は壊れている」
「壊れてる?」
「見れば分かるだろう」
譲は石柱へ目を戻した。確かに術式の一部が欠けている。中心となる魔力の核も失われていた。
「直せそうだけど」
悪魔は首を横に振った。
「直すだけでは駄目だ。この門は、二つの世界を繋ぐためのものだ。正常な状態なら、一方から一方へ通るための道を作れる。だが、壊れたまま無理に開けば、道だけを作ることはできない」
譲は黙って聞いていた。
「どういうこと?」
悪魔は石門を指した。
「境界そのものが崩れる。魔界と人間界を分けているものがある。それを無理やり破れば、こちら側の土地や生き物まで向こうへ引きずられる。向こう側も同じだ。二つの世界が混ざり始めれば、元に戻すことは難しい」
譲はもう一度、門を見た。
確かに術式は単純な転移とは違っている。一人を動かすためではない。二つの場所そのものを繋ぎ合わせるためのものだった。
「じゃあ、ぼくだけ帰ることはできないんだ」
「今の門ではな」
譲は少し考えた。
「力で壊して通るのも?」
「やめろ」
「どうして?」
「壊せば、もっと酷いことになる」
譲は黙り、石門へ伸ばしかけていた手をゆっくり下ろした。
自分の力なら、この門そのものを壊すことはできるかもしれない。けれど、それでは帰れない。
「……分かった」
悪魔が少し意外そうな顔をした。
「諦めるのか?」
「ううん。帰りたいから、壊すわけにはいかない」
悪魔は何も言わなかった。
譲は地面へ目を落とした。石門の周囲には古い術式がいくつも残っている。門を動かすためのものとは別に、境界を安定させるための術式があり、その一部はまだ生きていた。
「これ、誰かが使ってたのかな」
「昔はな」
「昔?」
「この門がまだ機能していた頃だ」
「じゃあ、他にもある?」
悪魔は答えなかった。
譲は顔を上げる。
「別の門とか、別の方法とか」
「知らん」
「そう」
譲は石門の周囲を歩き始めた。
その途中、崩れた石の下に小さな石片を見つけた。拾い上げると、表面には別の術式が刻まれている。転移に似ているものの、門に刻まれたものとは違っていた。
譲が魔力を流すと、一瞬だけ遠くの景色が浮かんだ。
暗い谷。巨大な樹木。その根元に、古い建造物らしき影がある。
景色はすぐに消えた。
「……こっちにも何かある」
悪魔が譲を見る。
「何を見た?」
「分からない。でも、まだ調べてない場所みたい」
譲は石片を懐へ入れた。
帰るための手掛かりは見つかった。すぐに帰ることはできず、壊れた門を無理に使えば世界の境界まで壊してしまう。ならば、別の方法を探すしかない。
譲にとって、それは初めて力だけでは片づかない問題だった。
不思議と嫌な感じはしなかった。知らない場所を探し、知らない術式を調べ、まだ誰も知らない道を見つける。そう考えると、少しだけ楽しくなった。
「じゃあ、探してみるよ」
悪魔が譲を見る。
「お前は、本当に帰るつもりなのか」
「うん」
「なぜだ?」
また同じ問いだった。
譲は答えようとして、口を閉じた。
人間界が好きだから、と言うほど好きだったわけではない。誰かに会いたい、と言えるほど、具体的に会いたい相手がいるわけでもなかった。
それでも、魔界へ来てから、ときどき思い出すものがある。
温かい手。遠くから聞こえる声。食器の触れ合う音。誰かが笑う声。
顔も名前も浮かばないのに、それらを思い出すと、人間界へ戻りたくなった。
「……分からない」
悪魔は眉を寄せた。
「分からないのに?」
「うん。でも、帰りたい」
譲は石門を見上げた。
「だから、帰れる方法を探す」
大きな理由があるわけではない。誰かに説明できる言葉もない。それでも、帰りたいという気持ちだけは消えなかった。
譲は空へ浮かび上がった。
帰る前に、洞窟へ戻らなければならない。
そう思ったとき、胸の奥がほんの少しだけ重くなった。
二つの石を並べた場所。雨の日に眠った場所。森から拾ってきた実を置いた場所。誰にも見せるつもりのなかった、小さな生活。
そこを離れることを考えると、足が止まりそうになる。
譲は空中で振り返った。魔界の森が遥か彼方まで広がっている。
最初は、何もない世界だと思った。今は違う。知らないものが多すぎるからこそ、まだ歩いていない場所へ行ってみたい。その先に人間界へ戻る道があるのかもしれないし、もっと別の何かが見つかるのかもしれない。
譲は小さく息を吐いた。
「……忙しくなりそうだな」
誰もいない空で呟いた声には、以前にはなかったわずかな弾みがあった。
譲は洞窟へ向かって飛んだ。
帰るために。
そして、自分がなぜ帰りたいと思ったのかを知るために。




