第26話「淋しい世界」
魔界で暮らすことに、譲はすっかり慣れていた。
朝と呼べる時間に目を覚ますと川へ行き、途中で見つけた実をいくつか摘んで洞窟へ戻る。腹が減れば食べ、眠くなれば眠る。
森の奥へ行くときには、以前出会った魔獣の足跡を避けるようになったし、地面の色が変わる場所にも近づかない。何度か失敗を繰り返すうちに、この世界で生きていくために必要なことは、ほとんど身についていた。
危険がないわけではない。それでも譲にとっては、たいていの場合「少し面倒なもの」にすぎなかった。巨大な魔獣に追われれば飛べばいい。崖が崩れれば空中へ逃げればいい。魔族に襲われても、先日のように相手を傷つけない程度に押し返せば済む。
生きることだけを考えるなら、魔界は思っていたほど厳しくなかった。
その日、譲はいつもより高い場所へ飛んだ。黒い森を越え、切り立った岩山の上へ降りる。そこから眺める魔界は、洞窟の中から見るよりずっと広かった。遠くには赤茶けた山脈が続き、その間を黒い川が蛇のように這っている。森のあちこちから煙が上がり、その近くには小さな集落がいくつも見えた。
岩の上に座ると、高いところまで来たせいか、地上では聞こえなかった音が風に乗って届いてきた。どこかで金属を打つ音がし、別の方向からは獣の鳴き声、そのさらに向こうからは誰かの笑う声が聞こえる。譲は、その笑い声のした方向へ何となく顔を向けた。
集落が見えた。鬼らしい大きな影が火のそばに座り、その周囲を小さな影が走り回っている。別の場所では角を持つ魔族が何かを運んでいた。火の上には鍋らしきものが吊るされ、煙と一緒に匂いまでこちらへ流れてくる。
少し離れた家の前では、幾人かが寄り合い、何かを一緒に支えているように見えた。
譲は鼻を動かした。
「……おいしそう」
呟いて、少し笑った。
食べ物なら自分にもある。洞窟には昨日採った実が残っているし、川で魚を捕まえることもできる。わざわざあそこへ行く必要はない。それでも譲は、しばらく集落を眺め続けた。
火の周りにいる者たちは何かを話している。声はここまで届くものと届かないものがあり、ときどき大きな笑い声だけが風に乗って流れてくる。そのたびに、譲の口元もわずかに緩んだ。
やがて、集落の誰かが岩山の方を見上げたようだった。相手が何かを叫ぶと、すぐに何人かがこちらを振り向き、弓を持った者が姿を見せ、魔法を使えるらしい者が空へ向かって手を掲げた。
譲は手を振った。
「こんにちは」
返事の代わりに、集落の中でざわめきが広がった。譲は手を下ろし、小さく呟いた。
「……また怖がらせちゃったか」
譲は岩山から飛び立った。洞窟へ戻る途中、何度か先ほどの集落を振り返った。煙はまだ見えている。火も消えていない。ただ、もう声は聞こえなかった。
洞窟へ戻ると、入口の近くに置いていた実を一つ手に取った。食べようとして、ふと手が止まる。さっき見た鍋が頭に浮かんだ。あの中には何が入っていたのだろう。
そんなことを考えている自分がおかしくなって、譲は小さく笑った。
「……ぼく、何してるんだろ」
実を口に入れる。甘い。いつもと同じ味だった。それなのに、集落から漂ってきた匂いが鼻の奥から消えなかった。
その夜、雨が降った。魔界の雨は長い。岩を叩く音が洞窟の中まで響き、入口から入り込む冷たい風が頬を撫でていく。譲はなかなか眠れず、何度か寝返りを打った。
そのとき、雨の向こうから遠くの声が聞こえた。譲は起き上がり、耳を澄ませる。何を言っているのかまでは聞き取れない。ただ、二人か三人の声が重なっていることは分かった。そのうち一人が何かを言い、少し遅れて別の誰かが笑った。
譲は洞窟の入口まで歩いた。雨の向こうには何も見えない。声だけがある。
魔界へ来たばかりの頃なら、気にせず眠っていただろう。人の気配がないことを、むしろ都合がいいと思っていたかもしれない。今も困っているわけではない。食べ物はある。水もある。眠る場所もある。誰かに頼らなくても生きていける。
それなのに、雨の向こうから聞こえる声を、もう少し聞いていたかった。
人間界にいた頃にも、似たような声を聞いたことがある。食事をしながら話す声。仕事の合間に交わされる短い会話。道の向こうから聞こえる笑い声。誰かが自分へ話しかけているわけではなくても、そういう音が周囲にあることを、譲は当たり前のように思っていた。
今は違う。魔界にはたくさんの生き物がいる。魔族も、悪魔も、鬼もいる。遠くへ行けば集落だってある。それでも、自分のいる場所まで届く声はほとんどなかった。
譲は雨の中へ出た。声のした方向へ歩いていくと、森を抜けた先に小さな焚き火が見えた。魔族が二人、雨を避けるように岩陰へ座り、焚き火の上では何かを焼いている。
譲は近づかなかった。近づけば、また警戒されるかもしれない。木の陰に立ち、その様子を眺める。一人が焼いていたものをもう一人へ渡し、受け取ったほうが何かを言う。二人とも笑った。
譲は、その光景を見ているのが嫌ではなかった。もう少し、ここにいたいと思った。
けれど雨が強くなり、二人は火を消して立ち上がった。
「またな」
そんな声が聞こえた。
譲は目を伏せた。二人が森の向こうへ消えていくと、そこには火の跡だけが残った。しばらくその場に立っていたが、やがてしゃがみ込み、まだ赤く残っている炭を眺める。指先を近づけると、ほんのりとした熱が伝わってきた。
その熱に触れた瞬間、譲の手が止まった。
誰かの手を握っている。小さな自分の手を包む、温かい手。顔は見えない。声も聞こえない。それでも、その手を離したくなかったことだけは、なぜか分かった。
譲は炭から指を離し、しばらく何も言わずに赤い光を見つめた。やがて立ち上がる。
帰ろう。
そう思って歩き出した。
洞窟へ戻る道の途中で、譲は何度か振り返った。もう焚き火は見えず、声も聞こえない。それでも足を止めるたびに、さっきの場所へ戻りたくなるような気がした。
洞窟へ戻ると、いつもの二つの石が青白く光っていた。譲はその前に座る。今日も食べるものはある。眠る場所もある。明日になれば、また川へ行けばいい。
洞窟の入口へ目を向けると、雨はまだ降っていた。その向こうには魔界の森が広がっている。広い世界だった。どこへでも行ける。誰にも縛られない。一人で生きられる。
少し前まで、それで十分だった。
譲は膝を抱え、雨音を聞いた。さっきの二人の姿が浮かぶ。焚き火を囲んで話す声。食べ物を渡す手。別れ際の「またな」という言葉。
自分にも、そういう時間があったのだろうか。考えても、はっきりとは思い出せない。ただ、温かい手の感触だけが残っていた。
「……一人で生きられるからって、一人でいたいとは限らないのかな」
口にした言葉は、雨音に紛れていった。
譲は少し笑った。
「変なの」
誰もいない洞窟に、自分の声だけが返ってくる。その声を聞きながらしばらく動かずにいたが、やがて横になり、雨音を聞きながら目を閉じた。
一人で生きていける。それは今も変わらない。
けれど、その夜から、譲は遠くで誰かの声が聞こえると、眠る前にしばらく耳を澄ますようになった。




