第25話「一人で生きる」
魔界で暮らし始めてから、どれほど経ったのか、譲にはもう分からなくなっていた。
この世界には、人間界のように時間をきちんと区切るものがない。空は明るくなったり暗くなったりするものの、朝と夜の境目は曖昧で、森の木々も光の具合とは関係なく葉を閉じたり開いたりする。譲は眠くなれば眠り、腹が減れば食べ、気が向けば洞窟の外へ出た。それで困ることはなかった。
むしろ、一人でいるほうが都合のいいことも多かった。
森で食べられる実や飲める水、近づかないほうがいい場所も少しずつ分かってきた。
最初はいちいち魔力を調べていた植物も、今では見た目や匂いからおおよその判断がつく。洞窟の近くを流れる川は増水すると流れが変わり、空が暗くなる頃には森の奥から大きな獣が出てくることも覚えた。
誰かと一緒なら、こんなふうには覚えなかったかもしれない。歩く速度を合わせたり、相手が疲れたら回復するのを待ったり、危険な場所を説明したりする必要がある。譲には、そういうものがなかった。
気になるものがあれば立ち止まり、分からなければ近づいて確かめればいい。自分のことだけを考えていれば、それで済んだ。
その日も、譲はいつもの川を離れ、まだ足を踏み入れたことのない森の奥へ進んでいた。
しばらくすると、木々の向こうから声が聞こえてきた。低い声と甲高い声が混じっている。人間の話し声に似ているものの、言葉の響きが少し違う。譲は足を止め、木の間からそっと覗いた。
開けた岩場に三人いた。
一人は人間によく似た姿をしており、黒い外套をまとい、額から二本の角が伸びている。その隣には輪郭そのものが炎のように揺らめく悪魔が立ち、さらに後ろには狒狒ほどもある巨体の鬼がいた。赤黒い肌に太い角を持ち、両手には大きな棍棒を握っている。
三人が話しているところへ、譲の踏んだ枝が乾いた音を立てた。
三人が一斉に振り向き、会話が止まる。
悪魔の目が細くなった。
「……人間?」
鬼が鼻を鳴らした。
「違う。人間の匂いじゃねえ」
譲は木の陰から出た。
「こんにちは」
三人は答えなかった。
譲は少し困ったように首を傾げる。
「ここ、魔界だよね?」
黒い外套の魔族が警戒を解かないまま尋ねた。
「お前は何者だ」
「譲」
「種族は?」
「分からない」
「……分からない?」
「うん」
鬼の眉間に皺が寄った。
「自分の種族も知らねえのか」
「知らないんだ」
譲は嘘をついているわけではなかった。自分が何者なのかと問われても、答えようがない。人間ではないらしいことは分かっている。けれど、自分を何と呼べばいいのかは知らなかった。
黒い外套の魔族が譲をじっと見つめる。
「では、なぜここにいる?」
「人間たちに飛ばされたから」
「人間に?」
「うん。村に入ったら、地面が光って、そのまま落ちてきた」
「……何のために?」
「たぶん、ぼくをここへ送るため」
あまりにも素直な答えに、三人は顔を見合わせた。
悪魔が先に口を開く。
「お前は、人間界から来たのか」
「そうだよ」
「ならば、なぜそんなに平然としていられる?」
「平然としてる?」
譲は自分の顔に触れた。
「そう見える?」
「見える」
「そうなんだ」
譲はそれ以上気にせず、岩場の端へ視線を向けた。そこには白い花が咲いている。
「これ、食べられるかな」
「食うな!」
三人の声が重なった。
譲の手が止まる。
「え?」
悪魔が頭を抱えた。
「それは猛毒だ」
「そうなんだ」
「少しは警戒しろ!」
「してるよ」
「どこがだ!」
鬼が怒鳴る。
譲は白い花から手を離し、少し考えてから答えた。
「食べる前に聞いたから、ちゃんと警戒したでしょ」
鬼は何も言えなくなった。その顔がおかしくて、譲は小さく笑った。
次の瞬間、悪魔の身体から炎が噴き出した。
譲を取り囲むように、いくつもの火球が浮かび上がる。熱気が一気に膨れ、岩場の草が乾いた音を立てて燃え始めた。
「動くな」
悪魔の声が低くなる。
「お前が何者なのか分からない以上、こちらも不用意に近づくわけにはいかない」
「それなら、どうして魔法を出したの?」
「抵抗する気がないか確かめる」
「なるほど」
譲は火球を見上げた。人間界で見る炎とは少し違う。魔力が濃く、炎そのものが生き物のように揺れている。
「きれいだね」
悪魔の表情が引きつった。
「……そういう問題ではない」
火球が一斉に譲へ向かった。
轟音が岩場を揺らし、炎と煙が譲の姿を覆い隠す。鬼は棍棒を構えたまま煙の向こうを睨み、悪魔も魔力を解かずに次の術式を組もうとしていた。
やがて、煙の中から足音が聞こえた。
一歩、そしてもう一歩。
譲が姿を現した。服の袖に煤がついているだけで、身体には傷一つない。
「熱かった」
悪魔の顔から血の気が引いた。
「……無傷?」
「そうみたい」
譲は袖についた煤を払った。
悪魔が言葉を失う。その横で、鬼が棍棒を振り上げた。
「なら、俺の番だ!」
巨体が跳び、踏み切った地面が砕けた。振り下ろされた棍棒が譲の頭上へまっすぐ落ちてくる。
譲は避けなかった。
片手を上げる。
棍棒の先端が手のひらに触れたところで止まった。
鬼の腕が震える。
「……な?」
譲は不思議そうに棍棒を見た。
「重いね」
「お、お前……」
鬼は両手で棍棒を握り直した。全身の力を込めると足元の岩が沈み、棍棒が軋む。それでも譲の腕は微動だにしない。
鬼の額に汗が浮かんだ。
「なんで……動かねえ」
「動かしたいの?」
「当たり前だ!」
「じゃあ、離すね」
譲が手を離すと、鬼は自分の勢いで後ろへ飛び、数メートル転がって岩へ背中をぶつけた。
「痛ぇ……」
「大丈夫?」
鬼は答えなかった。
譲は本当に心配そうに鬼を見ていた。
その顔を見て、悪魔は気づいた。目の前にいる存在は、自分たちを圧倒している。その事実を、本人だけが理解していない。
それが一番恐ろしかった。
「お前……」
悪魔の声が震える。
「何なんだ」
譲は答えられなかった。
答えを知らない。
そのとき、森の奥から大量の魔力が押し寄せてきた。
三人が一斉に振り返る。木々の間を黒い影が走っていた。一匹ではない。十匹近い魔獣が群れになり、岩場へ向かってくる。
「まずい」
黒い外套の魔族が剣を抜いた。
「囲まれるぞ」
鬼も立ち上がって棍棒を構え、悪魔が再び炎を広げる。譲だけが、近づいてくる魔獣の群れを眺めていた。
怖いとは思わなかった。
ただ、あの獣たちは腹を空かせているように見えた。
先頭の一匹が飛びかかる。
譲は手を伸ばした。
魔獣の身体が空中で止まり、四本の脚が宙を掻いた。
譲はその鼻先へ顔を近づける。
「お腹空いてるの?」
魔獣が唸った。
「そっか」
譲が手を横へ振ると、魔獣の身体は風に吹かれたように飛び、岩場の向こうへ落ちた。
残った魔獣たちが足を止める。
譲がそちらを見ると、群れは一歩、また一歩と後退した。やがて一匹が逃げ出し、それを追うように残りも森の奥へ消えていった。
岩場に静けさが戻る。
鬼は棍棒を下ろすことさえ忘れていた。悪魔は自分の周囲で燃え続ける炎を見つめ、黒い外套の魔族だけが譲から目を離さなかった。
「……お前」
「なに?」
「本当に、自分が何者なのか知らないのか」
「うん」
譲は少し考えた。
「でも、たぶん、強いんだと思う」
初めて、自分からそんなことを言った。
三人の顔が引きつる。
譲はその反応を見て、また首を傾げた。
「違う?」
誰も答えなかった。
譲は気にせず、先ほどの白い花へ目を向ける。
「じゃあ、食べられるものを探さないと」
「……お前、帰るのか」
「うん。洞窟に」
「洞窟?」
「少し離れたところにあるんだ」
そう言って、譲は歩き出した。
背中には三人の視線が刺さっている。それでも振り返らなかった。
帰る場所と呼べるほど大したものではない。石を二つ並べ、採ってきた実を置き、水を汲む場所を決めただけの小さな洞窟だった。それでも、そこへ戻ると少し落ち着いた。
譲は歩きながら、さっき出会った魔族たちのことを思い返していた。
自分を見て怖がっていた。
人間たちと同じだった。
そのことが頭に残ったまま、譲は洞窟へ戻った。
いつものように入口へ石を二つ並べると、青白い光が灯り、譲の影が岩壁へ長く伸びた。彼はその影を少し眺めてから、拾ってきた実を一つ口へ入れる。
甘い。
今日も食べるものがあり、眠る場所もある。一人で困ることはない。
譲はもう一つ実を手に取った。
口へ運ぼうとして、なぜか止めた。
しばらく手の中で実を転がす。誰かに渡すわけでもなければ、誰かと分けるわけでもない。なぜ手を止めたのか、自分でも分からなかった。
「……変なの」
小さく呟いて、その実も口へ入れた。
洞窟の外では、魔界のどこかで獣が鳴いていた。譲はその声を聞きながら目を閉じる。
すると、遠い人間界で聞いていた音がふと蘇った。街のざわめき、誰かの話し声、食器が触れ合う音、そして誰かが笑う声。
顔は思い出せない。
声も、もう分からない。
それでも、そうした音のある場所を自分は知っているような気がした。
譲は目を開けた。
洞窟には自分の呼吸しかない。
「……静かだな」
しばらく青白い光に照らされた岩壁を眺めてから、譲はもう一度目を閉じた。
魔界のどこかでは獣が生き、森では何かが動いている。それでも、この洞窟の中には自分しかいなかった。
譲は何も考えようとせず、その静けさの中で眠りについた。




