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神々に願った、たった一つの愛  作者: 狹霧
第5章 「大魔王、魔界に落ちる」
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第25話「一人で生きる」

魔界で暮らし始めてから、どれほど経ったのか、譲にはもう分からなくなっていた。

この世界には、人間界のように時間をきちんと区切るものがない。空は明るくなったり暗くなったりするものの、朝と夜の境目は曖昧で、森の木々も光の具合とは関係なく葉を閉じたり開いたりする。譲は眠くなれば眠り、腹が減れば食べ、気が向けば洞窟の外へ出た。それで困ることはなかった。

むしろ、一人でいるほうが都合のいいことも多かった。

森で食べられる実や飲める水、近づかないほうがいい場所も少しずつ分かってきた。

最初はいちいち魔力を調べていた植物も、今では見た目や匂いからおおよその判断がつく。洞窟の近くを流れる川は増水すると流れが変わり、空が暗くなる頃には森の奥から大きな獣が出てくることも覚えた。

誰かと一緒なら、こんなふうには覚えなかったかもしれない。歩く速度を合わせたり、相手が疲れたら回復するのを待ったり、危険な場所を説明したりする必要がある。譲には、そういうものがなかった。

気になるものがあれば立ち止まり、分からなければ近づいて確かめればいい。自分のことだけを考えていれば、それで済んだ。


その日も、譲はいつもの川を離れ、まだ足を踏み入れたことのない森の奥へ進んでいた。

しばらくすると、木々の向こうから声が聞こえてきた。低い声と甲高い声が混じっている。人間の話し声に似ているものの、言葉の響きが少し違う。譲は足を止め、木の間からそっと覗いた。

開けた岩場に三人いた。

一人は人間によく似た姿をしており、黒い外套をまとい、額から二本の角が伸びている。その隣には輪郭そのものが炎のように揺らめく悪魔が立ち、さらに後ろには狒狒ほどもある巨体の鬼がいた。赤黒い肌に太い角を持ち、両手には大きな棍棒を握っている。

三人が話しているところへ、譲の踏んだ枝が乾いた音を立てた。

三人が一斉に振り向き、会話が止まる。

悪魔の目が細くなった。

「……人間?」

鬼が鼻を鳴らした。

「違う。人間の匂いじゃねえ」

譲は木の陰から出た。

「こんにちは」

三人は答えなかった。

譲は少し困ったように首を傾げる。

「ここ、魔界だよね?」

黒い外套の魔族が警戒を解かないまま尋ねた。

「お前は何者だ」

「譲」

「種族は?」

「分からない」

「……分からない?」

「うん」

鬼の眉間に皺が寄った。

「自分の種族も知らねえのか」

「知らないんだ」

譲は嘘をついているわけではなかった。自分が何者なのかと問われても、答えようがない。人間ではないらしいことは分かっている。けれど、自分を何と呼べばいいのかは知らなかった。

黒い外套の魔族が譲をじっと見つめる。

「では、なぜここにいる?」

「人間たちに飛ばされたから」

「人間に?」

「うん。村に入ったら、地面が光って、そのまま落ちてきた」

「……何のために?」

「たぶん、ぼくをここへ送るため」

あまりにも素直な答えに、三人は顔を見合わせた。

悪魔が先に口を開く。

「お前は、人間界から来たのか」

「そうだよ」

「ならば、なぜそんなに平然としていられる?」

「平然としてる?」

譲は自分の顔に触れた。

「そう見える?」

「見える」

「そうなんだ」

譲はそれ以上気にせず、岩場の端へ視線を向けた。そこには白い花が咲いている。

「これ、食べられるかな」

「食うな!」

三人の声が重なった。

譲の手が止まる。

「え?」

悪魔が頭を抱えた。

「それは猛毒だ」

「そうなんだ」

「少しは警戒しろ!」

「してるよ」

「どこがだ!」

鬼が怒鳴る。

譲は白い花から手を離し、少し考えてから答えた。

「食べる前に聞いたから、ちゃんと警戒したでしょ」

鬼は何も言えなくなった。その顔がおかしくて、譲は小さく笑った。

次の瞬間、悪魔の身体から炎が噴き出した。

譲を取り囲むように、いくつもの火球が浮かび上がる。熱気が一気に膨れ、岩場の草が乾いた音を立てて燃え始めた。

「動くな」

悪魔の声が低くなる。

「お前が何者なのか分からない以上、こちらも不用意に近づくわけにはいかない」

「それなら、どうして魔法を出したの?」

「抵抗する気がないか確かめる」

「なるほど」

譲は火球を見上げた。人間界で見る炎とは少し違う。魔力が濃く、炎そのものが生き物のように揺れている。

「きれいだね」

悪魔の表情が引きつった。

「……そういう問題ではない」

火球が一斉に譲へ向かった。

轟音が岩場を揺らし、炎と煙が譲の姿を覆い隠す。鬼は棍棒を構えたまま煙の向こうを睨み、悪魔も魔力を解かずに次の術式を組もうとしていた。

やがて、煙の中から足音が聞こえた。

一歩、そしてもう一歩。

譲が姿を現した。服の袖に煤がついているだけで、身体には傷一つない。

「熱かった」

悪魔の顔から血の気が引いた。

「……無傷?」

「そうみたい」

譲は袖についた煤を払った。

悪魔が言葉を失う。その横で、鬼が棍棒を振り上げた。

「なら、俺の番だ!」

巨体が跳び、踏み切った地面が砕けた。振り下ろされた棍棒が譲の頭上へまっすぐ落ちてくる。

譲は避けなかった。

片手を上げる。

棍棒の先端が手のひらに触れたところで止まった。

鬼の腕が震える。

「……な?」

譲は不思議そうに棍棒を見た。

「重いね」

「お、お前……」

鬼は両手で棍棒を握り直した。全身の力を込めると足元の岩が沈み、棍棒が軋む。それでも譲の腕は微動だにしない。

鬼の額に汗が浮かんだ。

「なんで……動かねえ」

「動かしたいの?」

「当たり前だ!」

「じゃあ、離すね」

譲が手を離すと、鬼は自分の勢いで後ろへ飛び、数メートル転がって岩へ背中をぶつけた。

「痛ぇ……」

「大丈夫?」

鬼は答えなかった。

譲は本当に心配そうに鬼を見ていた。

その顔を見て、悪魔は気づいた。目の前にいる存在は、自分たちを圧倒している。その事実を、本人だけが理解していない。

それが一番恐ろしかった。

「お前……」

悪魔の声が震える。

「何なんだ」

譲は答えられなかった。

答えを知らない。

そのとき、森の奥から大量の魔力が押し寄せてきた。

三人が一斉に振り返る。木々の間を黒い影が走っていた。一匹ではない。十匹近い魔獣が群れになり、岩場へ向かってくる。

「まずい」

黒い外套の魔族が剣を抜いた。

「囲まれるぞ」

鬼も立ち上がって棍棒を構え、悪魔が再び炎を広げる。譲だけが、近づいてくる魔獣の群れを眺めていた。

怖いとは思わなかった。

ただ、あの獣たちは腹を空かせているように見えた。

先頭の一匹が飛びかかる。

譲は手を伸ばした。

魔獣の身体が空中で止まり、四本の脚が宙を掻いた。

譲はその鼻先へ顔を近づける。

「お腹空いてるの?」

魔獣が唸った。

「そっか」

譲が手を横へ振ると、魔獣の身体は風に吹かれたように飛び、岩場の向こうへ落ちた。

残った魔獣たちが足を止める。

譲がそちらを見ると、群れは一歩、また一歩と後退した。やがて一匹が逃げ出し、それを追うように残りも森の奥へ消えていった。

岩場に静けさが戻る。

鬼は棍棒を下ろすことさえ忘れていた。悪魔は自分の周囲で燃え続ける炎を見つめ、黒い外套の魔族だけが譲から目を離さなかった。

「……お前」

「なに?」

「本当に、自分が何者なのか知らないのか」

「うん」

譲は少し考えた。

「でも、たぶん、強いんだと思う」

初めて、自分からそんなことを言った。

三人の顔が引きつる。

譲はその反応を見て、また首を傾げた。

「違う?」

誰も答えなかった。

譲は気にせず、先ほどの白い花へ目を向ける。

「じゃあ、食べられるものを探さないと」

「……お前、帰るのか」

「うん。洞窟に」

「洞窟?」

「少し離れたところにあるんだ」

そう言って、譲は歩き出した。

背中には三人の視線が刺さっている。それでも振り返らなかった。

帰る場所と呼べるほど大したものではない。石を二つ並べ、採ってきた実を置き、水を汲む場所を決めただけの小さな洞窟だった。それでも、そこへ戻ると少し落ち着いた。

譲は歩きながら、さっき出会った魔族たちのことを思い返していた。

自分を見て怖がっていた。

人間たちと同じだった。

そのことが頭に残ったまま、譲は洞窟へ戻った。


いつものように入口へ石を二つ並べると、青白い光が灯り、譲の影が岩壁へ長く伸びた。彼はその影を少し眺めてから、拾ってきた実を一つ口へ入れる。

甘い。

今日も食べるものがあり、眠る場所もある。一人で困ることはない。

譲はもう一つ実を手に取った。

口へ運ぼうとして、なぜか止めた。

しばらく手の中で実を転がす。誰かに渡すわけでもなければ、誰かと分けるわけでもない。なぜ手を止めたのか、自分でも分からなかった。

「……変なの」

小さく呟いて、その実も口へ入れた。

洞窟の外では、魔界のどこかで獣が鳴いていた。譲はその声を聞きながら目を閉じる。

すると、遠い人間界で聞いていた音がふと蘇った。街のざわめき、誰かの話し声、食器が触れ合う音、そして誰かが笑う声。

顔は思い出せない。

声も、もう分からない。

それでも、そうした音のある場所を自分は知っているような気がした。

譲は目を開けた。

洞窟には自分の呼吸しかない。

「……静かだな」

しばらく青白い光に照らされた岩壁を眺めてから、譲はもう一度目を閉じた。

魔界のどこかでは獣が生き、森では何かが動いている。それでも、この洞窟の中には自分しかいなかった。

譲は何も考えようとせず、その静けさの中で眠りについた。

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