第24話「魔界」
譲は、自分が落ちた場所よりも、その周囲の静けさを先に意識した。
風がない。鳥も鳴いていない。虫の羽音さえ聞こえなかった。ただ遠くのどこかで、低い音だけが一定の間隔で響いている。地面の底から伝わってくるような、巨大な生き物が眠りながら息をしているような音だった。
ゆっくりと目を開けると、薄暗い空が見えた。夜ではないらしい。雲はなく、星も見えないのに、空そのものが暗い。紫とも灰色ともつかない光が地平線のあたりに滲み、その上は深い色に沈んでいた。
譲は起き上がり、自分の身体を確かめた。手足を動かし、魔力を巡らせてみる。どこにも異常はない。それどころか、人間界にいたときよりも魔力が軽く、身体へ馴染んでいるように感じられた。
確信はなかった。けれど、そう考えると目の前の景色にも納得がいった。
黒い岩山がいくつも連なり、山肌には木々がほとんど生えていない。代わりに細い亀裂のようなものが無数に走り、その向こうには森が広がっていた。木々はどれも異様に高く、風もないのに葉がかすかに動いている。揺れているというより、何かを探しているようにも見えた。
譲は森へ向かった。
足元の土は湿っていて、踏みしめるたびに黒い水が靴底へ滲んだ。草の葉には夜露のようなものがまとわりついている。少し進んだところで細い川を見つけたが、水は透明ではなく、底が見えないほど暗い色をしていた。
譲はしゃがみ込み、魔力を調べてみた。毒ではないらしい。
手ですくって飲んでみる。冷たい。味はほとんどなかった。
もう一度水をすくおうとしたとき、川の向こうで何かが動いた。
黒い木々の間から、二つの眼がこちらを見ている。
譲は目を細めた。狼に似た獣だった。身体はひどく細く、毛皮の剥がれた部分から黒い皮膚が覗いている。こちらへ近づくでもなく、逃げるでもなく、ただじっと譲を見ていた。
「……なに?」
譲が一歩近づくと、獣は同じだけ後ろへ下がった。もう一歩進めば、また下がる。襲ってくる様子はなく、むしろ怯えているらしい。
「そんなに警戒しなくてもいいのに」
そこまで言って、譲は口を閉じた。この言葉を、前にも言った気がする。
いつだったのかは分からない。
そのとき、誰かが笑ったような気がした。顔は浮かばず、声もはっきりしない。ただ、頭のどこかに残っている柔らかな音だけが、一瞬だけ蘇った。
譲は獣を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……誰だっけ」
考えても答えは出てこない。気づいたときには、獣も木々の間から姿を消していた。
譲は川へ戻り、暗い水面へ目を落とした。映った自分の顔は、波紋が収まってもぼんやりしている。その顔を見ているうちに、今度は別の光景が一瞬だけ浮かんだ。
もっと小さかった頃の自分が、誰かの手を握っている。
手のひらが温かい。細い指が、自分の小さな手を包むように握ってくれている。何を話していたのかは思い出せない。ただ、その手を離したくなかったことだけは分かった。
水面が揺れると、光景も消えた。
譲は自分の手を見た。
「……まあ、いいか」
それ以上は追わなかった。
森へ戻ると、木の根元に赤い実が生っていた。魔力を調べ、食べられることを確かめてから一つ口に入れる。甘かった。後味に少し苦みが残ったものの、食べられないほどではない。
譲はいくつか摘み、手の中へ収めた。
そのとき、森の奥から何かを引きずるような音がした。
ずる、ずる、と湿った地面を擦る音が一定の間隔で近づいてくる。譲は足を止め、森の奥へ意識を向けた。音だけでは大きさまでは分からないが、そこから伝わってくる魔力は大きい。かなり大きい。
木の陰から覗くと、黒い影が木々の間をゆっくり通り過ぎていった。四本の脚を持ち、長い尾を地面へ引きずっている。頭部には角のようなものが何本も突き出ていた。
その生き物が近くを通り過ぎた途端、周囲の葉が一斉に閉じた。
森が暗くなる。
譲は瞬きをした。生き物の気配が遠ざかるまで待っていると、閉じていた葉が何事もなかったように開き、再び薄暗い光が差し込んだ。
「……面白いな」
人間界とは、生き物も大地も違っていた。何が危険で、何が食べられるのかも、まだほとんど知らない。
怖いとは思わなかった。人間界とは何もかもが違う。生き物も、空気も、大地も違い、何が当たり前なのかさえ分からない。
そして、ここにいるもののほとんどは、自分を知らなかった。
人間界では、譲が姿を見せるだけで周囲の空気が変わった。視線を向けられ、距離を取られ、近くでは声を潜められる。姿を見ただけで逃げていく者さえいた。
大魔王。
そう呼ばれたこともある。
その言葉を思い出すと、譲はほんの少し笑った。ずいぶん大袈裟な呼び方だと思う。自分は、そこにいただけなのに。
森の外れまで歩いたところで、洞窟を見つけた。入口は狭かったが、中へ入ってみると思ったより深く、奥から冷たい風が流れてくる。天井には淡く光る鉱石が埋まっていて、外の光が届かなくなっても完全な暗闇にはならなかった。
譲は床に落ちていた石を拾った。魔力を流してみると、表面に青白い光が走る。
「これも使えそう」
二つ拾ったところで、なぜか三つ目へ手を伸ばした。
指先が石に触れる寸前で止まる。
何をしようとしたのか、自分でも分からなかった。しばらくその手を見つめていると、指先に別の感触が蘇った。
誰かの指だった。
小さな自分の指を、一本ずつ包むように握る手。その手に触れている間は、何も怖くなかった。
譲は手を引いた。
記憶は、それ以上続かなかった。
「……二つでいいか」
拾った石を洞窟の入口へ並べ、持ってきた赤い実を置いた。川までの道を確かめ、横になれる場所から尖った石を取り除く。水を汲む場所も、眠る場所も自分で決めた。誰かに相談する必要も、許可を取る必要もない。たったそれだけのことが、不思議なくらい簡単だった。
譲は洞窟の入口へ腰を下ろし、赤い実を一つ口へ入れた。
遠くで、また低い音が鳴った。今度は先ほどより近い。
顔を上げると、森の奥は暗く、何かが潜んでいるようにも見えた。それでも立ち上がることはなく、譲はそのまま外を眺めていた。
誰もいない。
ここには、自分を知る者もいない。
そのことに安心したはずなのに、なぜか視線が下がった。胸の内に小さな違和感が残っている。考えてみても、何を気にしているのか自分でも分からなかった。
「一人で生きられるから、いいか」
独り言は洞窟の奥へ吸い込まれ、返事はなかった。
しばらくして、森の向こうから獣の遠吠えが響いた。一つ聞こえ、間を置いてもう一つ。それきり、再び何も聞こえなくなる。
譲は横になった。
目を閉じると、今度は人間界の音が浮かんできた。街のざわめき、遠くから聞こえる話し声、食器の触れ合う音、誰かが笑う声。どれも誰のものなのかは分からない。それでも、そんな音の中にいるときは、一人ではないような気がした。
その感覚を追うように、別の記憶が重なった。
柔らかな声と、頭を撫でる手。
眠る前に聞いた、短い言葉。
「おやすみ」
誰の声だったのかは思い出せない。
それでも、その声を聞いたときの安心だけは残っていた。
譲は目を開けた。
洞窟は静かだった。人の話し声も、食器の音も、誰かが笑う声もない。聞こえてくるのは自分の呼吸だけで、それが妙に大きく感じられた。
「……静かだな」
しばらく天井の淡い光を見つめてから、譲はもう一度目を閉じた。
今度は何も思い出そうとしなかった。
静かな洞窟の中で、自分の呼吸を聞いていた。




