第23話「罠」
村に入ったとき、譲はまず静かだと思った。
静かな村というものは珍しくない。昼間でも人の姿が見えない集落はあるし、山間の小さな村なら、家族の多くが畑へ出ていて道だけが妙に空いていることもある。それだけなら、気に留めるほどのことではなかった。
ただ、犬がいなかった。
人の気配が薄い場所でも、犬だけは妙に正直だった。知らない者が近づけば吠えるし、危険を感じれば遠くからでも鳴き声を上げる。それなのに、この村では一匹も鳴かなかった。
譲は足を止め、細い道の両側に並ぶ家々を眺めた。戸は閉まっているものもあれば、半分だけ開いているものもある。軒先には洗濯物が干されたままで、畑には収穫されていない野菜が残っていた。風が吹くたびに乾いた葉が擦れ合い、その音だけが人のいない道を渡っていく。
人はいないのに、生活の痕跡だけが妙に新しかった。
「……変なの」
独り言のように呟いて、譲は歩き出した。一軒の家の前で足を止める。扉は開いていた。
中を覗くと、卓の上に食事が置かれている。湯気はもう消えていたが、食器の縁についた汁の跡はまだ乾いていない。
「食べかけだ」
椅子は二脚あり、そのうちの一脚が倒れていた。譲は少しだけ首を傾げる。争った跡はない。血もなく、家具も壊れていない。誰かが慌てて立ち上がったように椅子だけが倒れ、食事まで途中で残されているのに、そこにいたはずの人間の姿だけがなかった。
まるで、村そのものから人間だけを抜き取ったようだった。
普通なら、ここで警戒するのだろう。譲も何も感じていないわけではない。ただ、怖いという感覚が、彼にはあまりよく分からなかった。
家の中へ入り、倒れていた椅子を起こす。
「誰もいないなら、戻したほうがいいかな」
返事はない。譲は自分で起こした椅子をしばらく眺めてから、小さく笑った。
「……ぼく、何してるんだろ」
そのとき、遠くで金属の触れ合う音がした。
譲が顔を上げる。一度きりの小さな音だったが、聞き間違いではない。家を出て音のした方向へ歩いていくと、村の中央に小さな広場があり、その奥には古びた井戸があった。
井戸の周囲だけ、地面が不自然なほど新しかった。土が均されている。
譲はしゃがみ込み、地面をよく見た。土の下に細い線が走っている。指先で表面を払うと、隠されていた刻印の一部が現れ、触れたところで薄い光がほんの一瞬だけ瞬いた。
魔力を通すための刻印だった。
「結界か」
そう呟いた瞬間、背後から声が飛んだ。
「動くな!」
譲は振り返らなかった。声をかけられる前から、広場を囲む人の気配には気づいていた。屋根の上、家の陰、木の裏。十人ではきかない。弓を構える者、剣を抜いている者、術式へ魔力を送り続ける者。誰も譲から目を離さず、目が合いそうになると視線だけが揺れた。
譲は空を見上げた。
「こんなにいたんだ」
「大魔王!」
鋭い声が飛んだ。その呼び方に、譲の眉がわずかに動く。人間たちが自分をそう呼んでいることは知っていた。それでも譲自身は、その名前を自分のものだと思ったことがなかった。
「……ぼくのこと?」
「そうだ! そこから一歩も動くな!」
譲は改めて周囲を見回した。誰もいない道、開いたままの扉、食べかけの食事、倒れた椅子。それまで別々に見えていたものが、ようやく一つに繋がった。村人が突然消えたのではない。自分がここへ入ってくる前から、人間たちは隠れて待っていたのだ。
最初から、村全体が罠だった。
「よく考えたね」
譲がそう言うと、屋根の上にいた男が一瞬ひるんだ。
「何……?」
「ここまで準備するの、大変だったでしょう」
皮肉を言ったつもりはなかった。本当にそう思っただけだった。
周囲には恐怖に満ちた顔が並んでいる。誰も譲から目を離そうとはしないのに、正面から見続けることもできないらしく、ときおり視線が揺れる。弓を握る手には力が入り、剣を構えた男の肩も固くなっていた。
譲には、その方が不思議だった。
「そんなに怖い?」
問いかけに答える者はいなかった。
代わりに、一人の老人が前へ出た。身体は震えている。それでも逃げず、他の者たちより一歩だけ譲に近いところまで来た。
「我々は、お前を倒すつもりはない」
地面の奥でかすかな振動が走り、刻印の一部に光が巡り始めた。空気の震えに耐えきれず、弓を構えていた者が半歩退いた。
「……じゃあ、何をするの?」
老人は一瞬、言葉を詰まらせた。
「この村から、お前を追い出す。二度と戻ってこられない場所へな」
「そうなんだ」
譲は老人の足元へ視線を落とした。そこで、先ほど地面を調べたときには見えていなかったものに気づく。土の下を流れている魔力は一筋ではない。井戸の周囲から伸びた刻印は広場の外へ続き、家々の下にも道の下にも潜り込んでいた。目で追える部分はわずかでも、流れている魔力を辿れば、その先が分かる。
村全体に術式が敷かれていた。
「転移系……?」
老人の顔が強張った。
譲はもう一度足元へ目を向けた。刻印を流れる魔力は外へ広がるためのものではなく、何重にも巡りながら中央へ戻り、最後には一つの場所へ集まるように組まれている。その中心に立っているのは自分だった。
殺すための罠ではない。閉じ込めるためでもない。どこかへ飛ばすためのものだ。
「……これ、ぼくを飛ばすんだ」
地面が鳴った。低い音が足元から伝わり、広場の石や家々の壁をわずかに震わせる。地中に隠されていた刻印が次々と光を帯び、それまで別々に流れていた魔力が一つの術式として繋がっていった。
譲は反射的に自分の魔力を広げた。空気が震え、周囲の人間たちが息を呑む。
「今だ!」
その声を合図に、村中を巡っていた魔力が一斉に動いた。足元から光が立ち上がり、譲の身体を包み始める。
何をされようとしているのかは、もう分かっていた。ここから逃げるだけなら難しくない。光に包まれる前に空へ飛び上がることもできるし、足元の地面ごと術式を壊すこともできる。
それでも、譲は動かなかった。
目は自分を囲む人間ではなく、地面を走る光を追っていた。これだけの広さに刻印を作り、大勢で魔力を流し、自分一人を別の場所へ送ろうとしている。
長い間、人間たちは譲を追い、剣を向け、魔法まで放ってきた。それなのに今回は殺そうとせず、「二度と戻ってこられない場所」へ送ろうとしている。
その場所がどこなのか、少しだけ知りたかった。
「……なるほど」
光が身体を覆い、足元の術式が最後まで繋がっていく。
「そういうことか」
次の瞬間、視界が白く弾けた。
足の裏から地面の感触が消えた。広場が遠ざかり、井戸が小さくなり、その周囲に立っていた人間たちの姿も光の向こうへ沈んでいく。村へ入ったときに見た家々も、さっき自分で起こした椅子も、卓の上に残されていた食べかけの食事も、一瞬のうちに見えなくなった。
身体を支えるものがなくなり、譲は落ちていた。
猛烈な風が全身を包み、服を激しくはためかせる。転移すると分かってはいたが、どこへ出るのかまでは術式から読み取れなかった。空中で身体を捻って下を見ると、遥か下に知らない大地が広がっていた。
赤黒い岩が連なり、その間を埋めるように黒い森が広がっている。遠くでは何かが燃えているのか、太い煙が空へ昇っていた。その空も、譲が知っているものとは違う色をしている。
長い年月を歩き、いくつもの土地を見てきた。山も森も、国が変わるほど遠い場所も歩いた。それでも、こんな景色を見たことはなかった。
「……ここが、別の世界?」
大地が急速に近づいてくる。譲は落ちながら、着いたあとのことを考えた。水を探し、食べられるものを見つけ、眠れる場所を決める。誰にも教わらず、これまで何度も繰り返してきたことだった。
返事はなかった。
見覚えのある山もなければ、知っている森もない。遠くを見ても、人間の町らしいものさえ見つからなかった。自分がどれほど遠くへ飛ばされたのかも分からない。
さっきの老人が言っていた言葉を思い出す。
二度と戻ってこられない場所。
たぶん、ここがそうなのだろう。
譲は落ちながら少し考えた。どこなのか分からないなら、まず地面へ降りればいい。食べるものがあるか、水があるか、眠れる場所があるか。それから調べればいい。
そう考えると、不思議と慌てる気にはならなかった。
「まあ、いいか」
譲はわずかに笑い、空中で身体の向きを変えた。赤黒い大地が急速に近づいてくる。
知らない場所で、何がいるのかも分からない。それでも火は起こせる。食べるものを探すことも、眠る場所を見つけることもできる。誰かに教えてもらわなくても、そうやって今日まで生きてきた。
「ぼくは、一人でも生きられるし」
迫ってくる地面を見ながら、譲は身体を整えた。
次の瞬間、轟音とともに大地の底へ落ちた。




