第21話「止まった時間」
翌朝、譲はいつもと変わらない時間に目を覚ました。
薄暗い遺跡の中で身体を起こし、昨夜飲んだ透明な液体のことを思い出す。胸に手を当て、指を動かし、立ち上がってみたが、痛みも苦しさもなかった。手足にも変わったところはなく、身体は昨夜までと同じように動いた。
譲は荷物をまとめ、遺跡を出た。
朝の光が森の中へ差し込み、木々の間に細長い影を落としていた。少し歩いたところで振り返ると、古い石壁が蔦や木々の向こうに見えている。
もう、ここへ戻ってくることはないだろう。
そう思い、譲は森の奥へ歩き出した。
それからも、一人の旅は続いた。森を抜け、山を越え、人の少ない場所を選んで夜を過ごす。遠くに人の姿を見かけることはあっても、自分から近づくことはなかった。追われる暮らしを続けるうちに、人のいる場所を避けて歩くことは、もう考えなくてもできるようになっていた。
冬の雪が消えた森には新しい緑が生まれ、やがて夏になる。暑さが去れば葉は赤や黄色に染まり、落ちた葉の上へまた雪が積もる。譲は、その景色の中を歩き続けた。
ある日の昼、喉が渇いて水場へ立ち寄った。膝をつき、水を汲もうとしたとき、何気なく水面を覗き込む。
静かな水の中に、少年の顔が映っていた。
十歳ほどの顔だった。
譲は少しだけ首を傾げた。何かがおかしいような気がしたものの、そのときは深く考えなかった。旅を続けていれば服も傷み、髪も伸びる。身体が疲れていることはあっても、自分の顔がどう変わったかなど気にしたことはなかった。
水を汲み終えると、譲はまた歩き出した。
それから、さらに年月が過ぎた。
ある町の外を歩いていたとき、譲は一人の青年を見かけた。
どこかで見たことがある。
そう思って足を止めると、青年も譲に気づいた。しかし特に何かを言うこともなく、そのまま通り過ぎていく。
譲は遠ざかる背中を目で追った。
どこで見たのだろう。
しばらく考えて、ようやく思い出した。
昔、この町で見かけた子供だった。
あの頃は、自分とそれほど変わらない背丈だったはずだ。それが今では譲よりずっと背が高く、肩も広くなっている。子供だった頃とは歩き方まで違っていた。
譲は自分の手へ目を落とした。
小さな手だった。
五年前から、ほとんど変わっていない。
もっと前も同じだったような気がする。
譲はもう一度、遠ざかっていく青年を見た。
人は変わる。
自分が知っている間に、子供は背が伸び、大人になる。それは誰に教えられなくても分かる、当たり前のことだった。
その当たり前の中に、自分だけがいなかった。
譲は近くの水場へ向かい、水面を覗き込んだ。
そこに映っているのは、やはり十歳ほどの少年だった。頬も、目も、鼻も、口元も、昔とほとんど変わっていない。
「……僕だけ、変わってない」
呟くと、水面に小さな波紋が広がり、少年の顔が揺れた。
なぜなのかは分からない。病気なのかもしれないし、自分の身体が普通ではないせいかもしれない。いくつか考えてみても、それ以上の答えは出なかった。
譲は水を汲み、立ち上がった。
そして、また歩き始めた。
その後も時間は流れた。
旅の途中で何度か見かけた老人が、次に同じ場所を通ったときにはいなくなっていた。その人が暮らしていた家には別の人間が住み、以前は小さな子供だった者が大人になっている。さらに年月が経てば、その大人のそばにも子供がいた。
譲が同じ場所を訪れるたび、人は少しずつ入れ替わっていった。
最初のうちは、変わった姿を見ても顔を見れば分かった。
あの人だ。昔、会ったことがある。
そう思えた。
ところが年月が重なるにつれ、それも難しくなった。記憶の中では子供だった人間が大人になり、その顔に皺が増え、やがて老人になっていく。久しぶりに訪れれば、その姿さえなくなっている。
一人の人間が子供から老人になるまでの時間を、譲は自分の一度の人生の中で眺めていた。
その間も、自分は変わらなかった。
声も、顔も、身体も、十歳ほどの少年のままだった。
ある夕方、譲は遠くから一つの町を眺めていた。
以前ここを訪れた頃より、町はずっと大きくなっている。見覚えのない建物が並び、かつて歩いた道のいくつかはなくなっていた。遠くから眺めているだけでは、知らない場所のように見える。
それでも、確かにここを歩いたことがあった。
いつだったのかは、もう思い出せない。
譲は町へ入らず、そのまま背を向けた。
自分が変わらないことにも、いつしか慣れていた。理由はいまだに分からない。けれど、理由の分からないことは譲にとって珍しくなかった。
どうして自分の身体にはこれほど強い力があるのか。なぜ人にはできないことが、自分にはできてしまうのか。そもそも自分が何者なのか。
どれも分からないまま、ここまで生きてきた。
だから、自分だけが大人にならないことも、いつしか同じように受け入れていた。
分からないなら、それでいい。
歩ける。食べられる。眠れる。
それなら、生きていける。
譲はまた歩いた。
季節が巡り、森の木々が育ち、古い道が消えて新しい道が生まれる。町の姿も変わり、そこで暮らす人々も生まれ、成長し、老いていった。久しぶりに訪れた場所で知っている顔を探しても、もう一人も見つからないことさえあった。
それでも譲の身体だけは、十歳の頃から変わらなかった。
その原因を、譲は知らない。
遥かな昔に作られ、長い年月の中で忘れ去られていた古代の秘薬が、すでに自分の身体へ溶け込んでいることも、その力によって成長も老いも止まっていることも知らなかった。
世界では、譲の知らないところでも同じように時間が流れていた。
人が生まれ、歳を重ね、やがていなくなる。森の姿が変わり、町が広がり、かつてあった道さえ消えていく。
その流れの中を、譲は変わらない身体で歩き続けていた。




