第18話「何も望まない少年」
山を下りて王都へ戻る頃には、譲の腹はまた空いていた。
洞窟の中で何が起きたのか考えようとしても、うまくまとまらない。身体の中へ何かが入ってきたことは覚えている。何度も苦しくなり、もう駄目だと思ったことも覚えている。それなのに、どうして最後には何事もなかったように立ち上がれたのか、それだけは分からなかった。
腹が減っている。
今の譲には、そのことのほうがはっきりしていた。
王都の姿が見えてくると、少しだけ歩く速度を上げた。山の中より、人のいる場所のほうが安心する。帰る家があるわけではない。
それでも見慣れた道があり、知っている店があるだけで、知らない場所に一人でいるよりはよかった。
大通りに入ると、以前と変わらない匂いがした。
パンだった。
譲は店先に並んだパンを見つめ、それから服のポケットに手を入れた。指先に硬いものが触れる。洞窟へ入れられる前に大人が押し込んだ硬貨が、数枚残っていた。
これなら、一つ買える。
譲は店の前へ行き、小さな手に金を乗せた。
「……これ、ください」
店主は譲を見て、一瞬だけ不思議そうな顔をした。それでも何も言わず、代わりにパンを一つ渡してくれた。
「ありがとう」
受け取ったパンを両手で持ち、譲は少し離れた場所へ移った。
昨日までは、見つからないように盗んでいた。
今日は、自分のお金で買った。
なんとなく嬉しかった。
「……いただきます」
一口食べると、まだ温かかった。
譲はゆっくり噛んだ。腹の奥へ食べ物が落ちていく感覚を確かめるように、一口ずつ最後まで大切に食べた。
食べ終わって立ち上がったとき、譲は自分の身体がほとんど疲れていないことに気づいた。山を下り、ここまで歩いてきたはずなのに、足も痛くない。昨日までなら、これだけ歩けば途中で何度も休みたくなっていたはずだった。
譲は自分の足を見下ろした。
「……変なの」
足を動かして確かめる。身体は軽いが、どこまで動くのか分からない。洞窟の中で地面を蹴ったときの感覚を思い出し、譲は人にぶつからないよう道の端を歩いた。
それ以上は考えなかった。
そのまま歩いていると、後ろから声を掛けられた。
「おい、そこのガキ」
振り返ると、数人の男がいた。どれも譲の知らない顔だった。
「ちょっと金を貸せよ」
「……ないよ」
「嘘つけ」
男の一人が近づいてきたので、譲は一歩下がった。
「ないから、行って」
「生意気なガキだな」
男が腕を伸ばした。
譲は避けようとした。その手が肩へ触れる直前、反射的に腕を振った。
次の瞬間、男の身体が大きく宙へ浮いた。
譲は目を見開いた。
男は数メートル先の地面へ落ち、そのまま転がった。譲は何が起きたのか分からず、しばらくその姿を見ていた。
自分は、手を振っただけだった。
残った男たちも動かなかった。
譲は自分の手を見る。
いつもと変わらない、小さな手だった。
「……だいじょうぶ?」
倒れている男へ声を掛けたが、返事はなかった。やがて男は呻きながら身体を起こした。仲間に腕を取られると、譲から目を離さないまま後ずさる。
やがて残った男たちは、仲間を支えながら逃げていった。譲はその後ろ姿を見送った。怒っているわけではなかった。自分が何をしたのか分からないことのほうが怖かった。
誰も追ってこないと分かると、譲はまた歩き始めた。
その日の午後から、街の中では小さな噂が広がった。
子供が大人を吹き飛ばしたらしい。剣を抜く隙すらなかった。あれは普通の子供ではない。魔物なのではないか。
譲は、そんな話が広がっていることを知らなかった。
ただ、いつもなら何も気にせずすれ違っていた人々が、少し距離を取るようになったことには気づいた。店へ近づけば客が入口から離れ、店員が一瞬だけ身構える。道を歩けば子供が親の後ろへ隠れた。
譲は何度も後ろを振り返った。
自分の後ろに、何かいるのかと思った。
何もいない。
「……なんで?」
答える人はいなかった。
理由が分からないまま、譲は歩いた。
夕方、街の外れへ向かう道で、また数人の男に囲まれた。今度の男たちは、最初から武器を持っている。
「その荷物を置け」
譲は自分の持ち物を見た。大したものはない。
「……これ?」
「そうだ」
「いやだ」
自分を洞窟へ入れた者を探したいとも、街の人々を従わせたいとも思わない。
できるなら、痛いことも怖いことも起きないでほしい。
譲は首を振った。
男が剣を抜く。壺の術式と同じように、刃へ込められた魔力の流れが分かる。どこを折れば使えなくなるかも、触れなくても理解できた。
怖くなって後ろへ下がったが、逃げるより先に男が踏み込んできた。
身体が勝手に動いた。
譲は迫ってきた剣を避け、そのまま男の腕を掴んだ。
軽かった。
そのことに、譲自身が驚いた。
ほんの少し手を動かしただけだった。それなのに男の身体は大きく振り回され、地面へ叩きつけられた。
別の男が襲ってくる。
譲は身体を横へずらした。
その男も勢いのまま転んだ。
残った者たちは、それ以上動かなかった。
譲は男たちを見た。誰も立ち上がってこない。どうすればいいのか少し考えてから、譲は言った。
「……もう、襲わないでね」
男たちは逃げていった。
譲はその場に残り、もう一度自分の手を見つめた。
やはり、何も変わっていない。
小さな手と、細い腕。どこから見ても五歳の子供の身体だった。それなのに、大人の身体を簡単に吹き飛ばし、剣を持った男まで投げることができた。
「……ぼく、どうしたんだろう」
答えはなかった。
夜になると、譲はスラムへ戻った。
壊れかけた建物の隅に座り、膝を抱える。昼間のことを思い返すと、二度も人を吹き飛ばしたことだけは覚えている。それがどうしてできたのかは、やはり分からなかった。
身体が変になったのかもしれない。病気なのかもしれない。それとも、あの洞窟で何かされたのかもしれない。
しばらく考えてみても、答えは出なかった。
譲は考えるのをやめた。
それよりも、明日のことを考えた。
パンを買えるだけのお金は、もう少ししか残っていない。明日も何か食べられるだろうか。雨が降ったら、どこで眠ろう。寒くなれば、もっと風の入らない場所を探さなければならない。
考えているうちに、いつもの言葉が浮かんだ。
ママ。
譲は目を閉じた。
顔は思い出せない。声も思い出せない。それでも、誰かに包まれていたような温かさだけは、まだ胸のどこかに残っている。
もし会えたら、何を言おう。
譲は少し考えた。
何か欲しいものをお願いするのだろうか。
パンが食べたい。
眠る場所がほしい。
それから、抱きしめてもらえたら嬉しい。
思いつくのは、それくらいだった。
譲は自分の手を見た。
今日、その手は大人を簡単に吹き飛ばした。
それでも、腹が減らなくなったわけではない。夜になれば眠る場所が必要で、寒ければ身体を丸めるしかない。誰かに抱きしめてもらいたいという気持ちも、何一つ変わっていなかった。
譲は服の胸元を握った。
「……ママ」
遠く離れた場所では、大人を吹き飛ばした少年の噂が、すでに討伐すべき怪物の話へ変わり始めていた。
譲はそのことを知らない。胸元を握ったまま、壊れた屋根の下で座っていた。
小さく呼んでも、返事はなかった。
譲は片腕で膝を抱え、目を閉じた。
明日も生きられれば、それでいい。
明日もパンが食べられれば、それでいい。
いつか、ママに会えれば、それでいい。
譲が望めるのは、それくらいだった。
身体の奥にどれほど大きな力が宿っているのか、譲は知らない。その力で何ができるのかも知らなければ、それを使って何かを手に入れようとも思わなかった。
今日と同じように明日を迎えたい。
パンを食べて、眠る場所を見つけて、生きていたい。
そして、いつかママに会いたい。
誰の手だったのか、いつ触れたのか分からない温かさが、まだそこにある。
譲は胸元を握ったまま、静かに眠りへ落ちていった。




