第17話「八十の力」
どれほど時間が経ったのか、譲には分からなかった。
暗闇の中で倒れたまま、身体の内側を何かが流れ続けている。目を開けても何も見えず、耳を澄ましても聞こえるのは自分の荒い呼吸だけだった。洞窟の中は何も変わっていないのに、身体の中だけが絶えず騒ぎ、少しも休ませてくれなかった。
熱が走ったかと思えば、次の瞬間には凍えるような冷たさが広がる。それが消えると、今度は身体の奥を鋭い何かで突き刺されたような痛みが走った。どれも譲が知っている痛みではない。それぞれ違うはずなのに次々と重なり、長く続くうちに、何が熱くて何が冷たいのか、自分がいま何に苦しんでいるのかさえ分からなくなっていった。
譲は床に手をつき、指先に力を入れようとした。けれど、思うように動かない。身体の中へ詰め込まれた何かが、小さな身体を内側から押し広げようとしているようだった。
もう入らない。息を吸うたび胸が痛む。指を曲げようとしても、痺れた手は動かない。逃げる相手が目の前にいるなら、背を向けることもできた。いま身体を満たしているものからは、自分の身体を捨てないかぎり逃げられない。
身体がそう訴えているような気がした。それでも、何かは入り続けた。
息を吸おうとしても胸がうまく膨らまない。苦しさに口を開くと、冷たい空気がわずかに喉を通る。その直後には、また別の感覚が身体の奥へ流れ込み、譲は声にならない声を漏らした。
「……っ、う……」
涙が頬を伝った。
何が起きているのか分からないことが、何より怖かった。目の前に敵がいるわけではない。殴れば止まるものでも、走れば遠ざかるものでもない。逃げようとしても、それはすでに自分の身体の中にあり、どこへ行けば逃げられるのかさえ分からなかった。
譲は胸元を掴んだ。
この身体は、自分のものだったはずだ。
昨日までなら、腹が減れば痛み、寒ければ震え、眠くなれば目を閉じる。それだけの身体だった。小さくて、痩せていて、走ればすぐに息が切れる。それでも自分の身体だった。
今はそこへ自分の知らないものが次々と入り込み、内側から別の何かにされていくような気がした。
「……いやだ……」
苦しさが限界へ達したとき、身体のどこかが変わった。
壊れる寸前で、小さな身体はもう一度だけ耐えられる形へ変わった。
力に合わせて身体が変わる。変わった身体へ、さらに力が入る。熱に焼かれれば熱を抱え、毒に侵されれば毒を力へ混ぜ、呪いに触れればその仕組みを内側へ取り込んだ。
内側だけが、八十体分の力を収める器へ作り替えられていった。
声が震えた。
何かは止まらなかった。
身体がもう耐えられないほど苦しくなったとき、奇妙なことが起きた。ほんの少しだけ、苦しさが薄れた。
譲自身は、その変化に気づいていなかった。ただ、さっきまでなら耐えられなかったはずの感覚が、わずかに遠くなったように思えた。
また何かが流れ込んでくる。身体の中が満たされ、再び苦しさが限界へ近づいていく。それでも今度は、先ほどよりほんの少し長く耐えることができた。そして、もう無理だと思ったところで、また限界が遠ざかった。
一度なら偶然だったのかもしれない。
けれど、同じことが何度も繰り返された。
苦しくなるたび、譲の身体はほんの少しずつ耐えられるようになっていく。新しい痛みが訪れるたび、身体はそれに押し潰されるのではなく、押し潰されそうになったところで、わずかに形を変えていた。
譲には、それが何を意味するのか分からなかった。
ただ、苦しくても死ななかった。
何度目かの波が過ぎた頃、譲は一度、意識を失った。
それでも身体の中で起きていることは止まらなかった。
どれほど経ったのか分からないまま、譲は再び目を開けた。眠っていたのか、気を失っていたのか、それすら分からない。身体を起こそうとした途端にまた痛みが押し寄せ、譲は床に手をついたまま歯を食いしばった。
「……まだ……」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。ただ、ここで終わりたくなかった。
死にたくない。
帰りたい。
そして、もう一度だけ、あの温かさに触れたかった。
「……ママ……」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが大きく脈打った。また新しい何かが身体へ流れ込み、譲は床に爪を立てた。指先が痛んでも構わなかった。何かに掴まっていなければ、そのまま自分までなくなってしまいそうだった。
熱さも、冷たさも、痛みも、どれだけ繰り返したのか分からない。途中で何度意識が遠くなったのかも、譲には数えられなかった。
やがて、最後の何かが身体へ流れ込んだ。
それまで内側から押し続けていた圧力が、少しずつ弱くなっていく。熱が引き、冷たさも消え、指先まで走っていた痺れもなくなった。次に何が来るのかと身体を固くして待っていた譲は、それでもしばらく動くことができなかった。
何も来なかった。
聞こえるのは、自分の呼吸だけだった。
譲は床に伏せたまま、恐る恐る息を吸った。冷たい空気が喉を通り、胸の中へ入っていく。さっきまでのような痛みはない。そのまま吐いて、もう一度吸ってみる。それでも苦しくならなかった。
指を動かしてみた。
ちゃんと動いた。
譲は床へ手をつき、ゆっくり身体を起こした。途中でまた痛みが来るのではないかと思ったが、何も起こらない。そのまま足に力を入れると、身体は思っていたより簡単に持ち上がった。
立つことができた。
古びた服も、細い腕も、小さな手も、見えるところは昨日までと何も変わっていなかった。あれほど身体の中へ何かが入り続けていたのに、自分の腕は太くなっていないし、身体が大きくなったわけでもない。
譲は胸へ手を当てた。
身体の内側だけが、妙に静かだった。
それだけではない。さっきまで床から起き上がることさえできなかったのに、今は身体が不思議なくらい軽かった。
譲は確かめるように一歩進んだ。足は何の苦しさもなく持ち上がり、地面へ着く。もう一歩歩いてみても息は乱れず、痛みも戻ってこなかった。
「……なんで?」
誰に尋ねたわけでもない。洞窟の中には、答えてくれる者などいなかった。
譲は周囲を見回した。
そこで初めて、少し離れた場所に転がっている小さな壺に気づいた。
さっきまで、この洞窟では自分の手さえ輪郭しか見えなかった。それなのに今は、暗闇の中にある壺の形がはっきり分かった。
譲はしばらくそれを見てから、ゆっくり近づいた。
怖くないわけではなかった。あれを開けてから身体がおかしくなったことだけは覚えている。それでも、もう何も出てくる気配はない。
譲は壺を拾い上げた。
蓋は外れたままだった。
中を覗いてみる。
何も入っていない。
壺を傾けてみても、底には何も残っていなかった。
譲は壺の表面へ目を移した。そこには、いくつもの複雑な術式が刻まれている。
見たことのないものだった。
誰かに教わった覚えもない。
それなのに、刻まれた線を目で追っているうちに、そこに何が書かれているのかが自然と頭の中へ入ってきた。何を封じるためのものなのか。どこへ力を集め、どのように閉じ込めるのか。一つの線を見れば次の線の意味が分かり、それらがどうつながっているのかまで、考えるより先に理解できた。
譲は壺を見つめた。
知らないはずなのに、分かる。
「……?」
首を傾げても、その理由は出てこなかった。
壺の中に何が入っていたのかも分からない。なぜ見たこともないものが分かるのかも知らない。譲が覚えているのは、蓋を開けたあと身体がおかしくなり、熱くなって、寒くなって、痛くなったことだけだった。
それ以上考えようとしても、五歳の譲にはどうすればいいのか分からなかった。
そのとき、腹が鳴った。
譲は自分の腹を押さえた。
あれだけ苦しんだあとでも、腹が減っていることだけは昨日までと変わらなかった。喉も渇いている。ここには食べ物も水もない。
譲は壺をその場へ置いた。
今は、ここから出たかった。
来た道の入口は岩で閉ざされている。別の場所から、かすかな空気が流れていた。
足元の石が暗闇の中でも見える。大きな段差へ足を掛けると、身体は驚くほど軽く持ち上がった。疲れも、息切れもない。
身体が数歩分先まで飛び、譲は慌てて両手を広げた。壁へぶつかる直前に足が床を捉え、そのまま立ち止まる。
壁を探しながら、暗い洞窟を歩き始める。閉じ込められたときには、一歩進むだけでも石につまずき、何度も膝や手を打った道だった。今は暗闇の中でも周囲の形が分かり、足元の石も見える。身体も軽く、歩き続けてもほとんど疲れなかった。
何度か石に足を取られた。それでも身体は自然に踏みとどまり、転ぶことはなかった。
譲は歩き続けた。
どこまで行けば外へ出られるのかは分からない。それでも、来たときのように立ち止まることはなかった。
やがて、暗闇の向こうに小さな光が見えた。
譲は足を止めた。
しばらく、その光を見つめる。
「……そと?」
譲は光へ向かって歩き始めた。
近づくほど光は大きくなり、やがて洞窟の岩肌まで照らし始めた。譲は少しずつ足を速めた。冷たい空気が流れてくる。洞窟の中にこもっていた空気とは違う匂いがした。
最後の岩を越えると、目の前が急に明るくなった。
譲は思わず目を細めた。
冷たい風が頬を撫でる。
外だった。
しばらく光に目を慣らしてから、譲はゆっくり顔を上げた。
青い空が広がっていた。
閉じ込められる前にも見ていたはずの空だった。それでも、何も見えない洞窟の中でいつ終わるか分からない苦しさに耐えたあとでは、その青さをしばらく眺めていたくなった。
胸の奥に残っていた怖さが、少しずつ薄れていく。
何が起きたのか分からない。壺に何が入っていたのかも、なぜ自分が無事なのかも分からなかった。
それでも、自分はここに立っている。
譲は一度、自分の手を見た。
小さな手だった。
洞窟へ入る前と同じように見える。
身体も、洞窟へ押し込まれた五歳の少年にしか見えない。
その内側には、世界を壊し得る八十体分の力と知恵が収まっていた。
けれど、譲はその事実を知らなかった。自分が何を得たのかも、それによって何ができるようになったのかも知らない。
譲に分かるのは、自分がまだ生きていることだけだった。
そして、帰りたかった。
どこへ戻ればいいのかさえ曖昧なまま、それでも山を下りたかった。
腹も減っている。
できることなら、もう一度パンを食べたかった。
譲は青い空から目を下ろし、山の麓へ続く道を見た。
それから、小さな足で山を下り始めた。




