第16話「小さな壺」
譲は閉ざされた入口の前に座り込み、しばらく動けずにいた。
「……ママ」
呼んだ声が、暗闇の奥から小さく返ってくる。自分の声だと分かっていても、譲は息を止めた。
洞窟へ入れられる前、男たちがポケットへ何かを押し込んだことを思い出す。手を入れると硬貨が数枚あった。パンを買える金だったが、ここには店も、食べ物を売る人もいない。
譲は小さな手を前へ伸ばした。何かが触れると思ったわけではない。ただ、何も見えないことが怖かった。しばらく手を動かしていると、指先に冷たい岩が触れた。そこに壁があると分かり、譲は手をつけたまま、ゆっくり歩き始めた。
入口へ戻っても、もう外には出られない。ここに座り続けるより、どこかへ行ったほうがいい。もしかしたら、別の出口があるかもしれない。そう考えて足を動かした。そうしなければ、怖くて何もできそうになかった。
暗闇の中では何度も石につまずいた。膝を打ち、手のひらを擦っても、そのたびに立ち上がって歩いた。時間の感覚もなくなり、どれくらい進んだのか分からなくなった頃、足先に何かが当たった。
譲はしゃがみ込み、手でその周りを探った。木のような感触がある。古い道具だった。その近くには浅い器や、崩れた木箱のようなものも落ちている。長い間誰にも触れられていなかったのだろう。どれも埃をかぶり、岩肌と同じような色になっていた。
譲は一つの器を手に取った。
何も入っていない。
次の器も空だった。
別の器へ手を入れると、乾いた虫が指に触れた。譲は慌てて手を引き、服で何度も拭った。
もう一度辺りを探ると、指先に丸いものが触れた。
両手で持ち上げてみると、それは大人なら片手でも持てるほどの小さな壺だった。表面には汚れがこびりつき、ところどころ黒く変色している。かなり古いものらしかったが、蓋だけは残っていた。
譲は壺を持ったまま、少し考えた。
「……食べもの、入ってるかな」
腹が減っていた。
それ以外のことは考えなかった。
壺を軽く振ってみる。音はしない。もう一度振っても、やはり何も聞こえなかった。それでも、もしかしたら何か入っているかもしれないと思った。
譲は蓋に指をかけた。
固い。
両手で力を込める。
「……んっ」
動かない。
もう一度力を入れると、古い蓋がかすかに軋んだ。譲は指をかけ直し、夢中になってさらに力を込めた。
蓋が外れた。
その瞬間、何かが動いた。
風ではなかった。洞窟の空気そのものが一瞬だけ沈んだように感じられ、譲は息を止めた。
壺の中には何も見えない。それでも、そこから何かが溢れている。姿は見えないのに、近づいてくるものがあると分かった。
譲は壺を落とした。小さな音を立てて、壺が地面を転がる。
逃げようとした、その瞬間だった。
身体の内側が熱くなった。
「……え?」
胸の奥に、熱いものを押し込まれたような感覚が走った。譲が胸を押さえた次の瞬間、その熱は全身へ広がっていく。
「熱い……!」
熱が腹へ落ち、背中を這い、頭の奥まで満たしていく。自分の身体の中に逃げ場がない。
身体の中を何かが走っていた。血とも息とも違う。今まで自分の中にはなかったものが、無理やり入り込んでくる。
譲は壁に手をついたが、立っていられなかった。膝から力が抜け、そのまま身体が崩れる。
「や……」
声が震えた。
「やめて……」
肩が跳ね、背中が床へ打ちつけられる。舌を噛みそうになり、譲は口を強く閉じた。
肺を潰す重さ。皮膚の下を這う鋭さ。血の流れを逆向きにされるような吐き気。目を閉じても視界の奥で白い光が弾けた。
怒鳴る声も、譲を憎む感情もない。ただ形の違う力だけが、空いた器へ流れ込むように、小さな身体の中へ押し寄せてきた。
床を掴む。爪の間へ砂が入り、指先の皮が裂ける。その痛みだけが、自分の身体に以前からあったもののように思えた。
けれど、止まらない。
さっきまでの熱が消えたと思った途端、今度は冷たさが押し寄せた。骨の内側まで凍りつくような冷気が一瞬で身体を覆い、譲は歯を食いしばった。
「さむ……」
言い終える前に、身体の奥で何かが弾けた。
今度は痺れだった。指先から肩へ、背中から胸へ、見えないものが身体の中を駆け抜けていく。
一つではなかった。
熱いもの、冷たいもの、重いもの、鋭いもの。
触れたことのない感覚が次々と流れ込み、身体の中で重なっていく。譲には、それが何なのか分からなかった。ただ、自分の身体が少しずつ自分のものではなくなっていくような気がした。
「いや……」
暗闇の中から逃げ出すことはできない。
どこへ逃げればいいのかも分からない。
「……ぼく……」
息が続かなかった。
「……死にたく、ない……」
涙が頬を伝った。その涙さえ、身体の内側から押し寄せる熱に消えてしまいそうだった。
譲は目を閉じた。
暗闇の中で、何かを思い浮かべようとした。
母親の顔は思い出せない。
声も思い出せない。
それでも、温かさだけは残っていた。小さな身体を包んでくれたような、誰かの温かさ。
譲はそれを探すように、自分の胸を両手で押さえた。
「……ママ」
呟いた声が震える。
「……会いたい……」
その言葉を口にした直後、身体がまた大きく震えた。新たな何かが流れ込み、譲は歯を食いしばった。
熱さも、冷たさも、痛みも、いつから始まったのか分からなかった。何度繰り返したのかも、もう数えられない。
それでも、自分はまだ生きている。
「……死にたく、ない……」
譲は何度も呟いた。
それは願いというより、消えそうになる自分の身体へしがみつくための言葉だった。
やがて意識が遠くなっていった。それでも最後まで何かが身体の中へ入り続けていた。譲には、それが何なのか分からない。
分からないまま、小さな身体は暗い洞窟の床へ崩れ落ちた。
そのそばには、蓋の外れた小さな壺が転がっている。
ただ、かすかな呼吸だけが、暗い洞窟の中で続いていた。




