第15話「生贄」
翌朝、譲は腹の痛みで目を覚ました。
崩れた屋根の隙間から差す光を見上げ、昨日のパンを思い出す。ポケットには欠片ひとつ残っていない。
「……どうしよう」
考えていても腹は満たされない。譲は立ち上がり、大通りへ向かった。
人波の中に、質のよい服を着た男がいた。数人の従者を連れ、腰の革袋からは歩くたびに硬貨の音がする。
あれがあれば、パンが買える。
譲は男の後ろにつき、少しずつ距離を詰めた。従者との話に気を取られた横顔を確かめ、革袋へ手を伸ばす。
指が触れる前に、手首を掴まれた。
「何をしている?」
低い声が頭の上から響いた。譲は腕を引いたが、大人の手はびくともしない。
「盗もうとしたのか」
「……ごめんなさい」
「何を?」
「お金」
「何のために」
譲は俯いた。
「……パン」
男は怒鳴らなかった。古びた服、汚れた顔、細い腕を順に眺める。その冷静な目の動きが、叱られるよりも怖かった。
従者が尋ねた。
「この辺りの子供でしょうか」
「見覚えはないな。家族は?」
「……いない」
「父親は」
譲は首を振った。
「母親は?」
「ママは……知らない」
男と従者が顔を見合わせた。
「身寄りはないようですね」
「ああ」
「なら、問題ありません」
何が問題ないのか、譲には分からない。
男は譲の手首を掴んだまま、別の従者へ目を向けた。
「洞窟の準備は?」
「整っています。ただ、生贄がまだです」
知らない言葉だけが耳に残った。
「……いけ、にえ?」
誰も答えない。
「今回の封印には一人必要です」
男は譲を見下ろした。怒りも憎しみもない目だった。
「この子でいい」
「はい」
あまりに簡単に決まり、譲は自分のことではないように瞬いた。
「……ぼく、何をするの?」
「洞窟へ行ってもらいます」
「行くだけ?」
従者は一拍置いた。
「戻る必要はありません」
譲の喉が鳴った。いつも食べ物を探し、眠る場所へ戻ってきた。その『戻る』がなくなる。
「……帰って、こないの?」
沈黙が答えだった。
「いやだ。ぼく、帰る」
譲は手首を捩った。
「もう盗まない。お金も、パンも取らないから……帰して」
初めて大人へ縋った言葉は、男の耳に届かなかった。
「連れていけ」
従者が譲の腕を引く。
「いや! やだ、帰る!」
靴が石畳を擦った。小さな身体がどれほど暴れても、大人の歩みは止まらなかった。
連れていかれたのは、街外れの古い建物だった。譲を中へ押し込み、扉が閉まる。
「ここで待っていろ」
「いつまで?」
外から錠の下りる音がした。
譲が扉へ駆け寄ると、遠ざかる足音に混じって大人たちの声が聞こえた。
「明朝、山へ向かう」
「封印は持つでしょうか」
「今のところはな」
「なら、問題ありません」
また同じ言葉だった。
自分がいなくなっても、問題ない。探しに来る人も、怒って止める人もいない。
扉に置いた手が、ずるずると下がった。
「……ぼく、死ぬの?」
返事はなかった。
夜になっても眠れず、譲は膝を抱えた。目を閉じ、顔のない温もりを探す。
「……ママ。助けて」
それは、思い出せない母へ向けた、初めての願いだった。
翌朝、扉が開いた。
大人たちに起こされ、冷たい山道を歩かされる。譲は何度も振り返った。誰かが追ってきて、「もういい」と言ってくれる気がした。
誰も来なかった。
山の奥に、黒い口を開けた洞窟が見えた。譲の足が止まる。
「……ここ?」
背中を押され、一歩よろめいた。
「いや……待って。ぼく、悪いことしないから。ちゃんとするから……」
大人たちは表情を変えない。一人が譲のポケットへ何かを入れ、そのまま洞窟の中へ押し込んだ。
岩肌に手をついた背後で、重い音がした。
入口が閉じ始めている。
「待って!」
譲は光へ駆け戻った。
「待って! ぼく、ここにいたくない!」
差し込む光が細くなる。伸ばした指の先で、最後の白さが消えた。
「お願い……!」
声だけが岩に跳ね返った。
譲は閉ざされた入口へ両手を当てた。冷たい岩は動かない。やがて指先が震え、身体を抱くように腕を回す。
「……ママ」
暗闇の中で、もう一度呼んだ。
「ぼく、帰りたい……」
その声を聞き入れてくれる者は、誰もいなかった。




