↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神々に願った、たった一つの愛  作者: 狹霧
第3章 「大魔王の誕生」
PR
20/83

第14話「スラムの少年」

第百八世界の王都には、白い城があった。

朝日を弾く城壁の下、大通りでは荷車が石畳を鳴らし、商人の声が飛び交う。店先には焼きたてのパンや肉料理が並び、親に手を引かれた子供が、その匂いに顔を上げていた。

城から離れ、細い路地をいくつも曲がると、街の音は遠くなる。王都の外れに広がるスラムには、壁の崩れた家と屋根の抜けた建物が肩を寄せていた。雨の日は泥水が道を埋め、夜には隙間だらけの壁から冷気が忍び込む。

そこに、五歳の譲はいた。

家と呼べる場所はない。夜ごと屋根の残った建物を探し、雨漏りの少ない隅で身体を丸める。同じ場所で続けて眠れるとも限らなかった。先に誰かが使っていれば別の建物を探し、雨が強ければ、朝まで濡れない場所を見つけるだけで日が暮れることもある。

水を飲める場所は覚えていた。市場の裏には朝になると水桶が置かれ、古い井戸は昼を過ぎれば人が減る。食べ物を捨てる店も、近づけば怒鳴る店も知っていた。誰かに教わったのではない。空腹になり、追い払われ、それでも次の日を迎えるうちに覚えた。

その朝も、譲は崩れかけた部屋の冷たい床で目を覚ました。起こす声も、毛布を掛け直す手もなかった。

腹が鳴った。

服の上から押さえると、肋骨の形が指に触れた。昨日何を食べたか思い出そうとしたが、空腹に耐えた日ばかりが重なって、区別がつかない。

「……おなか、すいた」

返事の代わりに、破れた窓から風が吹き込んだ。

譲は立ち上がり、大通りへ向かった。人の流れの端を歩きながら、落ちているものと店先の食べ物へ目を配る。荷車のそばに落ちた野菜の葉を拾おうとしたが、泥に踏まれて黒く潰れていた。別の店の裏も覗いたものの、食べられそうなものは残っていない。

通りの向こうで、小さな子供が母親の手を引いていた。何かをねだったのか、母親がしゃがんで子供の口元を拭き、そのまま髪を撫でる。子供は笑って母親の服を掴んだ。

譲は足を止めた。

知らない親子だった。それなのに、頭の奥へ何かが触れた気がした。自分もあんなふうに髪へ触れられたことがあったような、誰かの服を掴んで歩いたことがあったような気がする。

思い出そうとすると何も見えなくなった。

譲は親子が人混みへ消えるまで見送り、また食べ物を探して歩いた。やがて温かな匂いに引かれ、足を止めた。

小さな店に、きつね色のパンが並んでいる。店主は客と笑い合い、硬貨を受け取ると、次の客へパンを渡した。

譲はパンを見た。店主の手を見て、またパンへ目を戻す。

金はない。けれど、空っぽの腹は待ってくれなかった。

店主が奥を振り返った瞬間、譲はパンを一つ掴んだ。掌にまだ熱がある。胸が強く鳴り、見つかったか確かめるより先に足が走り出した。

路地へ飛び込み、角を二つ曲がり、身体が入るだけの隙間へ滑り込む。追う声が聞こえなくなっても、しばらく息を殺した。

手の中のパンは、少し潰れていた。

「……いただきます」

表面はもう固くなりかけていた。それでも噛むたびに香ばしさが広がり、空腹で縮んだ腹へ落ちていく。最後の欠片を舐め取ると、譲はようやく壁にもたれた。

今日は食べられた。

さっき見た親子の姿が浮かんだ。子供の口元を拭き、髪を撫でていた手。その温かさを知らないはずなのに、胸の奥には知っているという感覚だけがあった。

ひとつの言葉が浮かんだ。

ママ。

顔は見えない。声も、服も、目の色も思い出せない。それなのに、その言葉を胸の中で呼ぶと、頭を撫でられたような温もりだけが残った。

譲は自分の小さな手を見つめる。誰かの手が重なっていた気がする。掴もうとすると、記憶は水面の影のように崩れた。

「……ママ」

口にした途端、胸の奥が痛んだ。

「会いたいな」

誰に会いたいのかも分からないまま、譲は呟いた。


昼を過ぎても、譲は大通りと路地を行き来した。腹が満ちているうちに明日の分も見つけたかったが、拾えるものはなかった。

市場の端で荷物を運んでいた男が、譲を見るなり手を振った。

「そこにいると邪魔だ。向こうへ行け」

譲は何も言わずに離れた。少し先では、店じまいの準備をする老婆が傷んだ野菜を籠から取り出していた。譲が見ていることに気づくと、老婆は一度だけ手を止めたが、結局その野菜を箱の奥へ放り込んだ。

譲は欲しいとは言わなかった。もらえると言われていないものへ手を伸ばせば、また追われる。それくらいは知っていた。


夕方、路地の奥で子供たちが食べ物を奪い合っていた。一人が泣き、別の子が怒鳴る。大人たちは目を向けても足を緩めない。

譲も立ち止まった。泣いている子の手には、引き裂かれた食べ物の袋だけが残っている。

助け方を知らなかった。声を掛ければ、自分も奪い合いに巻き込まれるかもしれない。譲は指を握り込み、やがて視線を落として、その場を離れた。

朝のパンはとうに腹から消え、歩くたび胃が軋んだ。明日の食べ物を考えても、答えは出ない。


夜、譲は朝と同じ建物へ戻った。入口には誰もいなかった。昨日は別の男が寝ていた隅も空いている。今夜はここで眠れる。

壁際に身体を丸めると、床の冷たさが薄い服を通して背へ染みた。王都の中心にはまだ明かりが灯り、遠くで扉の閉まる音や、誰かを呼ぶ声がする。

近くの家から食器の触れ合う音が聞こえた。誰かが子供の名前を呼び、しばらくして窓の明かりが一つ消えた。

譲には、帰るよう呼んでくれる人はいない。

譲は胸元を握った。

「……ママに、会いたい」

暗い部屋に返事はない。

小さな手の内側には、誰のものか思い出せない温かさだけが、消えずに残っていた。

挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。