第14話「スラムの少年」
第百八世界の王都には、白い城があった。
朝日を弾く城壁の下、大通りでは荷車が石畳を鳴らし、商人の声が飛び交う。店先には焼きたてのパンや肉料理が並び、親に手を引かれた子供が、その匂いに顔を上げていた。
城から離れ、細い路地をいくつも曲がると、街の音は遠くなる。王都の外れに広がるスラムには、壁の崩れた家と屋根の抜けた建物が肩を寄せていた。雨の日は泥水が道を埋め、夜には隙間だらけの壁から冷気が忍び込む。
そこに、五歳の譲はいた。
家と呼べる場所はない。夜ごと屋根の残った建物を探し、雨漏りの少ない隅で身体を丸める。同じ場所で続けて眠れるとも限らなかった。先に誰かが使っていれば別の建物を探し、雨が強ければ、朝まで濡れない場所を見つけるだけで日が暮れることもある。
水を飲める場所は覚えていた。市場の裏には朝になると水桶が置かれ、古い井戸は昼を過ぎれば人が減る。食べ物を捨てる店も、近づけば怒鳴る店も知っていた。誰かに教わったのではない。空腹になり、追い払われ、それでも次の日を迎えるうちに覚えた。
その朝も、譲は崩れかけた部屋の冷たい床で目を覚ました。起こす声も、毛布を掛け直す手もなかった。
腹が鳴った。
服の上から押さえると、肋骨の形が指に触れた。昨日何を食べたか思い出そうとしたが、空腹に耐えた日ばかりが重なって、区別がつかない。
「……おなか、すいた」
返事の代わりに、破れた窓から風が吹き込んだ。
譲は立ち上がり、大通りへ向かった。人の流れの端を歩きながら、落ちているものと店先の食べ物へ目を配る。荷車のそばに落ちた野菜の葉を拾おうとしたが、泥に踏まれて黒く潰れていた。別の店の裏も覗いたものの、食べられそうなものは残っていない。
通りの向こうで、小さな子供が母親の手を引いていた。何かをねだったのか、母親がしゃがんで子供の口元を拭き、そのまま髪を撫でる。子供は笑って母親の服を掴んだ。
譲は足を止めた。
知らない親子だった。それなのに、頭の奥へ何かが触れた気がした。自分もあんなふうに髪へ触れられたことがあったような、誰かの服を掴んで歩いたことがあったような気がする。
思い出そうとすると何も見えなくなった。
譲は親子が人混みへ消えるまで見送り、また食べ物を探して歩いた。やがて温かな匂いに引かれ、足を止めた。
小さな店に、きつね色のパンが並んでいる。店主は客と笑い合い、硬貨を受け取ると、次の客へパンを渡した。
譲はパンを見た。店主の手を見て、またパンへ目を戻す。
金はない。けれど、空っぽの腹は待ってくれなかった。
店主が奥を振り返った瞬間、譲はパンを一つ掴んだ。掌にまだ熱がある。胸が強く鳴り、見つかったか確かめるより先に足が走り出した。
路地へ飛び込み、角を二つ曲がり、身体が入るだけの隙間へ滑り込む。追う声が聞こえなくなっても、しばらく息を殺した。
手の中のパンは、少し潰れていた。
「……いただきます」
表面はもう固くなりかけていた。それでも噛むたびに香ばしさが広がり、空腹で縮んだ腹へ落ちていく。最後の欠片を舐め取ると、譲はようやく壁にもたれた。
今日は食べられた。
さっき見た親子の姿が浮かんだ。子供の口元を拭き、髪を撫でていた手。その温かさを知らないはずなのに、胸の奥には知っているという感覚だけがあった。
ひとつの言葉が浮かんだ。
ママ。
顔は見えない。声も、服も、目の色も思い出せない。それなのに、その言葉を胸の中で呼ぶと、頭を撫でられたような温もりだけが残った。
譲は自分の小さな手を見つめる。誰かの手が重なっていた気がする。掴もうとすると、記憶は水面の影のように崩れた。
「……ママ」
口にした途端、胸の奥が痛んだ。
「会いたいな」
誰に会いたいのかも分からないまま、譲は呟いた。
昼を過ぎても、譲は大通りと路地を行き来した。腹が満ちているうちに明日の分も見つけたかったが、拾えるものはなかった。
市場の端で荷物を運んでいた男が、譲を見るなり手を振った。
「そこにいると邪魔だ。向こうへ行け」
譲は何も言わずに離れた。少し先では、店じまいの準備をする老婆が傷んだ野菜を籠から取り出していた。譲が見ていることに気づくと、老婆は一度だけ手を止めたが、結局その野菜を箱の奥へ放り込んだ。
譲は欲しいとは言わなかった。もらえると言われていないものへ手を伸ばせば、また追われる。それくらいは知っていた。
夕方、路地の奥で子供たちが食べ物を奪い合っていた。一人が泣き、別の子が怒鳴る。大人たちは目を向けても足を緩めない。
譲も立ち止まった。泣いている子の手には、引き裂かれた食べ物の袋だけが残っている。
助け方を知らなかった。声を掛ければ、自分も奪い合いに巻き込まれるかもしれない。譲は指を握り込み、やがて視線を落として、その場を離れた。
朝のパンはとうに腹から消え、歩くたび胃が軋んだ。明日の食べ物を考えても、答えは出ない。
夜、譲は朝と同じ建物へ戻った。入口には誰もいなかった。昨日は別の男が寝ていた隅も空いている。今夜はここで眠れる。
壁際に身体を丸めると、床の冷たさが薄い服を通して背へ染みた。王都の中心にはまだ明かりが灯り、遠くで扉の閉まる音や、誰かを呼ぶ声がする。
近くの家から食器の触れ合う音が聞こえた。誰かが子供の名前を呼び、しばらくして窓の明かりが一つ消えた。
譲には、帰るよう呼んでくれる人はいない。
譲は胸元を握った。
「……ママに、会いたい」
暗い部屋に返事はない。
小さな手の内側には、誰のものか思い出せない温かさだけが、消えずに残っていた。




