外伝1 第6話「帰る場所」
かすみがいなくなってから、三か月が過ぎた。
最初の一週間は、駅までの道を毎日歩いた。コンビニの店員に写真を見せ、通学路で聞き込みをする警察官の後ろをついて回った。川沿いも、学校の裏も、娘が友達と立ち寄りそうな店も探した。
友達は何度も家へ来た。「また明日」と別れたとき、いつもと変わった様子はなかったという。同じ話を聞くたび、母親はその最後の朝を思い返した。
時間が経つにつれ、訪ねてくる人は減った。玄関に置いていた捜索用の写真だけが、少しずつ角を傷めていった。
母親は朝になると、娘の部屋の前で足を止めるようになっていた。最初は無意識だった。洗濯物を持って廊下を歩いていると、娘の部屋の扉へ手を伸ばしかける。
けれど、その先にいるはずの人がいないことに気づいて手を下ろす。最近では、それが朝の決まった動作になっていた。
部屋の中には、かすみが突然いなくなったことを思わせるものが何もない。机の上には教科書が開いたまま置かれ、ノートには途中まで書かれた文字が残っている。読みかけの本には栞が挟まり、クローゼットには季節の服が並んでいた。
母親は何度も片づけようとした。制服くらいは畳んでおこう、机の上だけでも整理しておこう。そう考えて部屋へ入るのに、結局何にも触れないまま出てくる。服をしまい、教科書を閉じてしまえば、そこに残っている娘の時間まで片づけてしまうような気がした。
警察から電話が来るたび、母親はすぐに出た。最初の頃は電話が鳴るだけで心臓が痛くなるほど期待し、見つかったのかもしれない、誰かが娘を見つけてくれたのかもしれないと思った。けれど、何度聞いても新しい手掛かりはなかった。
捜索は続いている。確認できたことは少ない。何か分かれば連絡する。
同じような言葉を聞いて受話器を置くたび、家の中が急に広くなったように感じた。
三か月という時間が長いのか短いのか、母親には分からなかった。ただ、朝になれば娘が帰ってくるのではないかという期待だけは、少しも消えてくれない。
玄関の鍵が回る音を聞けば顔を上げ、近所で似た声を聞けば振り向いた。買い物から帰ってきたとき、玄関に並ぶ靴を確かめる癖もなくならなかった。
ある夕方、母親は娘の部屋で写真を見つけた。
机の引き出しの奥に入っていた、何年も前の写真だった。まだ小さかったかすみが母親の隣で笑っている。二人で出かけた日に撮ったものらしく、写真の端には当時の母親が使っていた鞄まで写り込んでいた。
母親は写真を指でなぞった。
この頃は、娘が大きくなって家を出ていく日のことを考えていた。高校を卒業して大学へ行くかもしれない。いつか恋人を連れてくるかもしれない。結婚して自分の家を持つ日も来るのだろうと思っていた。
寂しくなるだろうけれど、それは娘が自分の人生を歩いていくということなのだから、笑って送り出そう。そんなことを考えていた。
こんな形で、娘がいなくなるとは思わなかった。
母親は写真を伏せた。
「かすみ……」
名前を呼ぶと、喉の奥が詰まった。
どこにいるのだろう。怪我をしていないだろうか。ちゃんと食べているだろうか。誰かそばにいてくれる人はいるのだろうか。聞きたいことはいくらでもあったのに、答えてくれる相手はいない。
母親は写真を握ったまま、しばらく動かなかった。
ふと、娘がいなくなった日の朝を思い出した。
いつものように送り出し、いつものように「いってらっしゃい」と言った。それだけだった。
あの日の自分に何か特別なことができたのではないかと、何度も考えた。もっと話しておけばよかった。もっと顔を見ておけばよかった。学校へ行く娘の背中に、もう一度声をかければよかった。何度考え直しても朝の記憶は変わらず、あの日へ戻ることもできない。
戻れないことが、今は何より苦しかった。
夜になっても、母親は娘の部屋から出られずにいた。窓の外はすでに暗く、机の上の写真立てには、今のかすみよりずっと幼い頃の写真が入っている。母親は椅子に座ったまま、それを眺めていた。
「ご飯、できたよ」
口にしてから、自分で気づいた。
以前なら少し遅れて「今行く」と声が返ってきた。その記憶があまりにも自然に浮かんだので、母親は返事のない部屋で顔を伏せた。
食卓には、二人分の食器を出していた。
一人分に減らすことができなかった。最初の頃は、帰ってくるかもしれないからと思っていた。三か月経った今も箸を減らすことができず、娘の席には何もないまま、椅子だけが一脚置かれている。
「……早く帰ってきて」
誰に聞かせるでもなく呟いて、母親は目を閉じた。
その頃、遠い世界では、かすみが窓辺に座っていた。
三か月のあいだに、こちらの言葉を読む速さは少し上がった。城の書庫では毎日のように同じ机を使い、司書も、かすみが求める本を何も言わず積んでくれるようになった。
四人はそれぞれの仕事へ戻ったあとも、ときどき顔を見せた。エルフは各地で見つけた古い話を持ち帰った。ある日は、雨を通さない樹脂を染み込ませ、中の物の時間を遅らせる術式を組み込んだ小さな革袋を机に置き、「故郷の品に」とだけ言った。
ドワーフは読めない文字を写してくる。鬼人は書庫へ入るたび退屈そうな顔をしながら、帰還の手掛かりが見つかったかだけは必ず尋ねた。竜は窓の外に座り、日が暮れるまで空を眺めていることがあった。
一人ではない。それでも、ここは帰りたかった家ではなかった。
聖域で古文書を調べ、近隣の街や古い神殿も訪ねた。それでも帰還の術は見つかっていない。
机の上には、電源を切ったスマートフォンがある。写真を見たい夜だけ起動し、すぐに消してきた。残量はもうほとんどない。
こちらの世界へ来てから、何度も夜空を見た。日本にいた頃なら、空を見上げることなどほとんどなかった。学校から帰れば家があり、家を出れば見慣れた道があり、その先にはいつもの街があった。山も川も、そこにあるのが当たり前だった。
失ってから、その景色がどれほど自分の中に残っていたのかを知った。
かすみは机の上に置いたスマートフォンを手に取り、電源を入れた。画面には母親と一緒に撮った写真が映っている。指で送れば友達と撮った写真が現れ、その次には学校の帰り道で撮った川、何気なく撮った山が出てくる。撮ったときには、こんな写真をいつか懐かしく眺める日が来るなど考えもしなかった。
一枚ずつ見ているうちに、いつもの思いが胸に戻ってきた。
帰りたい。
その気持ちは、何をしても消えなかった。
人を助けられたときは嬉しかった。自分の力を必要としてくれる人がいることも分かった。旅の途中で出会った四人と一緒に過ごす時間も、いつの間にか大切なものになっている。
それでも母親に会いたかったし、友達にも会いたかった。家に帰りたかった。
どれか一つを大切にすれば、もう一つが消えてしまうようなものではなかった。
かすみはスマートフォンを胸元へ引き寄せた。
「お母さん、今どうしてるかな……」
もちろん、分からない。電話をかけても届かず、メッセージを送っても返事はない。
それでも画面の向こうに母親がいるような気がして、しばらく写真を閉じることができなかった。やがてスマートフォンの画面が消えた。
かすみはスマートフォンを抱きしめた。
涙が止まらなかった。
やがて、窓から入ってきた夜風に気づき、顔を上げる。
そこには知らない星が見えた。
日本で見ていた夜空を思い出すと、また帰りたくなった。目に溜まった涙を拭い、かすみは机の上に置いていた古い文献へ手を伸ばした。
まだ探していない場所がある。まだ聞いていない話もある。異世界から来た自分が日本へ戻る方法を、どこかで誰かが知っているかもしれない。
だから、明日も探す。
それがいつになるのかは分からない。それでも、帰る方法を探すことをやめるつもりはなかった。
同じ夜、日本では母親が眠れずにいた。
娘の部屋の明かりは、今夜も消えていない。
遠い世界では、かすみが古い文献をめくっていた。ページを押さえていた指が止まり、ふと顔を上げる。
「……お母さん」
机の上には、まだ読み終えていない古文書が積まれていた。
かすみは涙を拭い、そのうちの一冊を開いた。ページを押さえる手のそばには、エルフからもらった革袋に収めた、電源の切れたスマートフォンがある。
誰もいない部屋で、もう一度母親を呼んだ。
「お母さん……」
日本では、母親が娘の部屋にいた。
手には、幼い頃のかすみと一緒に撮った写真が残っている。
「かすみ……」
遠く離れた二つの部屋で、母と娘は互いに呼びあっていた。




