外伝1 第5話「聖女の祈り」
地面の亀裂から、濁った魔力が噴き上がっていた。ドワーフはその前に膝をつき、亀裂の周囲を調べている。魔王が一歩動くたびに地面が揺れ、その振動に合わせるように、手元へ置いた小さな金属片が細かく震えた。
「……ここだ」
「何か分かった?」
かすみが駆け寄ると、ドワーフは地面へ指を当てた。
「魔王の力は、あの身体から直接出てるんじゃねえ。地面の下にある何かを通って流れ込んでる」
「地下に何かあるんですか?」
「ある。しかも相当でかい」
魔王が咆哮した。声というより、大地そのものが震えたような音だった。
少し離れた場所では鬼人が吹き飛ばされ、身体を転がしながら地面へ手をついていた。すぐに立ち上がると口元の血を拭い、再び魔王へ向かっていく。
「まだ動けるか!」
「この程度で倒れるかよ!」
鬼人は剣を握り直した。そこへエルフの矢が次々と飛び、魔王の足、腕、肩へ突き刺さっていく。動きを止めるほどの傷にはならなくても、ほんの一瞬だけ進む方向を変えることはできた。その隙を逃さず鬼人が剣を振り下ろし、同時に竜が正面から魔王へぶつかった。巨大な身体同士が衝突すると、森の木々が大きく揺れた。
「今のうちにやれ!」
ドワーフが叫ぶ。
「何をすればいい?」
「この魔力の流れを止める。だが、俺が地面をいじっている間、あいつをここから離すな!」
「分かった!」
かすみは魔王を見た。巨大な身体が竜を押し退けようとし、その横から鬼人が斬り込み、エルフの矢が顔の近くを掠めていく。三人が魔王をその場へ留めている間に、ドワーフは亀裂の周囲へ、筆頭魔導師から預かった封印具の金属杭を打ち込んでいった。一本打ち込むたび、地面の奥から嫌な音が響く。
「もう少し……」
ドワーフが額の汗を拭った瞬間、魔王の腕が竜を弾き飛ばした。竜の身体が地面へ叩きつけられ、魔王がドワーフのいる方へ向きを変える。
「危ない!」
かすみが叫ぶと、鬼人が間へ入った。巨大な拳と剣がぶつかり、その足が地面へ沈む。
「ぐっ……!」
魔王の力は重く、鬼人がそのまま押し切られそうになった。そのとき、一本の矢が魔王の目のあたりへ突き刺さった。
エルフの矢が刺さった隙に、鬼人は身体を捻って魔王の腕を横へ逸らす。その一瞬にドワーフが最後の杭を打ち込むと、地面が大きく揺れ、亀裂の奥から噴き上がっていた魔力が突然止まった。魔王の身体から地面へ伸びていたものも、次々と抜けていく。
「切れた!」
ドワーフが叫んだ。
けれど、魔王は倒れなかった。身体の内側に残った力だけで再び腕を振り上げる。
「まだ動くぞ!」
鬼人の声を聞きながら、竜が立ち上がった。
「当然だ。あれほどの力が一度に消えるわけではない」
エルフもすでに次の矢をつがえている。
「どうするの?」
「封じるしかない」
ドワーフは足元へ目を落とした。
「この状態なら、聖女の力を通せる。だが、魔王が動いている限り封印の陣を完成させられない」
かすみも地面を見ると、そこにはドワーフが刻んだ複雑な線が広がっていた。
「私が祈ればいいんですね」
「そうだ」
「どのくらい?」
「分からん。お前の力次第だ」
かすみは魔王へ目を向けた。あれを止めることは自分一人にはできない。それでも、ここには四人がいる。
「お願いします」
かすみは封印陣の中央へ歩いた。
魔王がこちらへ向きを変え、その腕で地面を抉る。
「来るぞ!」
鬼人が前へ出て、振り下ろされた腕を剣で受け止めた。衝撃で足元の地面が沈む。
「早くしろ!」
「言葉だけに頼るな。お前が何を願うかで、通る力が変わる」
「俺が合図するまで力を流し続けろ。途中で切れれば、陣の内側に溜まった力がお前へ戻る」
鬼人の剣が魔王の腕を受け止める。エルフは矢筒に残った矢を数え、竜は傷ついた肩を回して再び構えた。
旅立つ前に筆頭魔導師から教わった祈りはいくつもある。古い言葉を唱えかけて、かすみは口を閉じた。
目の前では鬼人が魔王の腕を受け止めている。エルフの指には弦で裂けた傷があり、竜の肩からも血が流れていた。ドワーフは崩れかけた線を手で描き直している。
魔王が鬼人を押し返す。エルフの矢が腕の関節へ刺さり、竜が巨体をぶつけた。四人が作った一瞬の静止を、封印陣の光が捉える。
かすみは陣の中央で両手を組んだ。
何を祈ればいいのか分からなかった。王から聞いた祈りの言葉はいくつかあり、聖女が唱えるという古い言葉も教えられている。それでも、かすみの口から出たのは、そのどれでもなかった。
「……どうか、この人たちを守ってください」
手のひらに光が集まった。
魔王が鬼人を押し返すと、すぐにエルフの矢が飛んでその腕へ突き刺さる。
「今だ!」
竜が魔王の身体へ飛び込み、巨体をぶつけて大きくよろめかせた。その間にドワーフは地面へ置いた道具を一つずつ作動させ、封印陣の線がかすみの足元へ向かって伸びてくる。それでも魔王の動きは止まらなかった。
「止まらない! 力が足りない!」
ドワーフの声を聞きながら、かすみは祈り続けた。手のひらは熱を持ち、呼吸も次第に苦しくなっていく。力を注ぐほど身体が重くなり、その重さに耐えているうちに、頭の中には日本の景色が浮かんできた。
家の玄関、母親の声、学校の教室、友達と並んで歩いた道、毎朝見ていた山、子供の頃に遊んだ川。どれもここへ来るまでは、失うことなど考えたこともなかった。
思い出せば思い出すほど、帰りたくなった。
今すぐ帰りたい。ここへ来たことをなかったことにできるなら、そうしたい。聖女になどなりたくなかったし、世界を救いたいと思っていたわけでもない。ただ家に帰りたかった。
「……お母さん」
声が漏れた。
魔王の腕が再び振り下ろされ、鬼人がそれを受け止める。
「かすみ!」
「大丈夫!」
そう答えたものの、自分でも何が大丈夫なのか分からなかった。身体は重く、祈りを続けるだけでも苦しい。
それでも陣の外では四人が戦っている。自分を守り、魔王をここへ留めるために身体を張っている。少し離れた村には、さっきまで自分が傷を治していた人たちがいる。
かすみは目を開けた。
「私にも、帰りたい場所がある」
その先の言葉は、すぐには出てこなかった。
目の前では鬼人が踏ん張り、エルフが次の矢をつがえている。竜は魔王を押さえ、ドワーフは封印陣を完成させようとしていた。誰もここで倒れるために戦っているわけではない。戦いが終われば、それぞれに戻る場所がある。
かすみは両手を強く組んだ。
「だから、この人たちにも帰ってほしい」
その言葉とともに光が広がり、魔王の身体を包み込んだ。押し返そうとする力に耐えながら、かすみは祈りを続ける。
「どうか、この人たちが家に帰れますように。大切な人と、また会えますように」
光がさらに強くなり、魔王の身体に亀裂が走った。
「明日も、みんなが普通に暮らせますように」
鬼人が魔王の腕を押さえ込み、エルフの矢が足元へ突き刺さる。竜が身体ごと魔王を押し込んだところで、ドワーフが最後の装置を作動させた。封印陣の光が地面いっぱいに広がり、魔王の身体が少しずつ沈み始める。
魔王は抵抗するように地面へ手を伸ばしたが、もうそこから力は流れてこなかった。
かすみは両手を組んだまま祈り続けた。
日本へ帰りたい。その願いを抱えたまま、目の前にいる人たちの無事を願った。母親に会いたい。友達に会いたい。故郷の空を見たい。その気持ちを一つも捨てることなく、自分と同じように、この人たちにも帰る場所があってほしいと願った。
魔王の身体が光の中へ沈んでいく。巨大だった姿は少しずつ崩れ、土や岩となって地面へ落ちていった。最後まで声を上げることはなく、何かを訴えることもないまま、その姿は封印の光の中へ消えていった。
やがて森に静けさが戻り、戦いのあいだ聞こえなくなっていた風の音が、再び木々の葉を揺らした。
かすみは力が抜けたようにその場へ座り込んだ。
しばらくして、鬼人が剣を鞘へ戻す。
「……終わったな」
エルフは弓を下ろし、竜は空を見上げている。ドワーフは封印陣の前へしゃがみ込み、地面に残った魔力の流れを確かめていた。
「もう、魔王の力は流れてねえ」
その言葉を聞いて、かすみはゆっくり立ち上がった。
「じゃあ……聖域へ行けますね」
四人がかすみを見る。
「帰る方法を探すんでしょ?」
エルフが頷いた。
「もちろん」
かすみは聖域へ続く道を見た。夕方の光が木々の間から差し込み、長くなった五人の影が森の道へ伸びている。
五人はそのまま森を進んだ。
しばらく歩くと、木々の向こうに古い建物が見えてきた。聖域だった。
かすみは足を止め、空を見上げた。日本で見ていたものとは違う、知らない世界の空だった。
それでも見上げていると、母親や友達のことが浮かんでくる。今ごろ母親はどうしているだろう。友達は学校にいるだろうか。自分の席は、まだ残っているだろうか。
かすみはスマートフォンを取り出した。
画面には、日本で撮った山の写真が残っている。
指先で写真をそっと撫でた。
「……帰りたいな」
スマートフォンをポケットへしまい、かすみは聖域へ向かって歩き出した。その後ろから、四人の足音が続いていた。




