外伝1 第4話「混沌の魔王」
聖域へ向かう旅は、予定よりも長くなっていた。
北へ進むほど道は細くなり、村や町の間隔も広がった。森へ入ってからは馬車を使えず、五人は荷物を分けて歩いた。鬼人が先頭を進み、エルフは風や枝葉の音を拾い、ドワーフは封印具の箱を背負う。竜は最後尾から周囲を見ていた。
城を出た頃には名前を呼ぶことさえためらっていたのに、今では足音だけで誰が遅れたのか分かる。かすみが知らない植物を見つけて立ち止まれば、ドワーフが呆れた顔で名前を教え、鬼人は少し先で待っていた。
それでも、日本を思い出さない日はなかった。
夜、焚き火から少し離れたところでスマートフォンを開くと、電池の印は赤くなっていた。かすみは母親の写真を一枚だけ見て、すぐに電源を切った。
「……お母さん、どうしてるかな」
隣で矢羽根を整えていたエルフが手を止めた。
「見つかるとは言えない。でも、聖域まで行けば探す場所には辿り着ける」
帰る方法が記されているかもしれない古文書。その「かもしれない」に縋って、ここまで来た。
「うん。だから行かないと」
端末を柔らかな布で包み、鞄のいちばん深いところへしまった。
翌朝、森を進んでいると、低い音が響いた。
五人が足を止める。
もう一度。今度は足元から震えが伝わり、枝に止まっていた鳥が一斉に飛び立った。
「何かいる」
鬼人が剣の柄へ手を伸ばす。
太い幹が一本倒れた。その隣の木も折れ、土煙の向こうから巨大な影が現れた。
人の形に似ていた。木よりも太い腕が地面を擦り、身体には岩のように硬い部分と、濡れた泥のように崩れた部分が入り混じっている。表面から伸びた根のようなものが何本も地中へ潜り、顔のあるはずの場所には表情を作るものさえ見当たらない。
かすみは息を呑んだ。
「……あれが、混沌の魔王?」
「そうだ」
竜が短く答えた。
魔王は五人を見ている様子もなく、腕を振った。大木が何本も折れ、飛んできた枝を竜が翼で受ける。
その向こうから鐘の音が聞こえた。
森が途切れた先に、小さな村がある。畑にいた人々が顔を上げ、鐘楼の男が何度も鐘を鳴らしていた。魔王は木を倒し、地面を削りながら、まっすぐそちらへ進んでいる。
「村……」
「聖女!」
鬼人が振り返った。
「お前は人を逃がせ。こいつは俺たちで止める」
返事を待たず、鬼人は走った。竜が続き、エルフは近くの木へ跳び上がる。
鬼人の大剣が魔王の脚へ食い込み、ほぼ同時に矢が肩へ突き刺さった。大きく崩れたはずの傷へ、地面から土と岩が這い上がる。裂け目は目の前で塞がっていった。
「効いてないぞ!」
「いや、傷はついてる!」
エルフが次の矢をつがえる。
「戻ってるんだ!」
竜が正面から魔王へぶつかった。巨体同士の衝突で地面が揺れる。その間に、かすみは村へ走った。
入口では倒れた木の下に老人が挟まれ、逃げる途中で転んだ子供が泣いていた。額から血を流した男を二人が支えている。
「動ける人は、怪我をした人を広場へ! 魔王から離れる方へ逃げてください!」
老人のそばへ膝をつき、傷へ手を当てる。
淡い光が広がった。流れていた血が止まるのを確かめてから、次の負傷者へ移る。
「お母さんがいない……」
泣いている少女が服の裾を掴んだ。
「どこではぐれたの?」
少女が指さした先に、名前を呼びながら走ってくる女性が見えた。
「いたよ。あそこ」
少女が駆け出す。母親は膝をついてその身体を抱きしめた。
その姿を見た瞬間、昨夜見た写真が頭をよぎった。
自分も帰りたい。
母親に会いたい。
その気持ちは、この世界へ来た日から何も変わっていない。
背後で轟音がした。
振り返ると、鬼人の剣が魔王の腕を受け止めていた。足元の土が沈み、横から竜が身体ごと押し返す。エルフの矢が同じ場所へ二本、三本と突き刺さる。それでも傷は塞がっていく。
少し離れた場所では、ドワーフだけが魔王を見ていなかった。地面へ金属片を置き、位置を変えては震え方を確かめている。
「おかしいな……」
かすみは治療を続けながら声を上げた。
「何か分かったんですか?」
「傷が戻るたび、こいつが反応する」
ドワーフが金属片を持ち上げた。
魔王の脚から伸びた根のようなものが、地面の奥へ消えている。
かすみは手を止めずに目を凝らした。鬼人が脚を斬る。崩れた箇所へ土が集まり、その直前、地中へ伸びたものが脈打つように動いた。
「地面から……?」
竜が魔王の拳を受け止めながら叫ぶ。
「その通りだ! こいつは地中から力を得ている!」
ドワーフが金属片をいくつも並べ、森の中を南へ走った。
「流れは真下じゃねえ! 少しずれてる!」
かすみは最後の負傷者の傷を閉じた。近くにいた村人へその身体を預け、立ち上がる。
日本へ帰るために聖域を目指してきた。その手前で、この人たちの帰る家が踏み潰されようとしている。
母親に会いたいという気持ちは消えない。消す必要もない。かすみは村の方を振り返った。母親に抱かれた少女は、もう森の外へ向かって走っている。
「……よかった」
小さく呟いてから、かすみはドワーフの背中を追った。
「ドワーフさん、どこですか!」
「こっちだ!」
鬼人が魔王の腕を受け流し、竜が横から押し込む。エルフの矢が顔の近くへ突き刺さり、魔王の向きがわずかに逸れた。
数十歩ほど南へ進んだところで、地面に置かれた金属片が激しく震えている。
「ここだ」
ドワーフがしゃがみ込んだ。
次の瞬間、地面に亀裂が走った。
二人が飛び退くと、割れ目の奥から濁った魔力が噴き上がった。




