外伝1 第3話「五人の旅」
翌朝、かすみは城の一室に広げられた地図を前にしていた。
「基本となる術式は伝わっています。ですが、魔王の力も姿も、長い年月のうちに変わりました。現在の術式だけで封じられる保証はありません」
羊皮紙には王国や街の名前が見たことのない文字で記され、北へ向かうほど山が増え、そのさらに先には大きな森が広がっている。筆頭魔導師の話では、森の奥に聖女だけが入ることを許された古い聖域があり、そこに混沌の魔王を封じるための手掛かりが残されているらしい。
「聖域まで、どれくらいかかるんですか?」
「徒歩なら一月ほどでしょう。途中には魔物の生息地もあります」
「一月……」
かすみは地図へ目を落とした。
一月も、この世界にいる。
そう考えた途端、胸のあたりが重くなった。日本では一月もあれば季節が変わることさえある。学校では自分がいなくても授業が進み、友達はいつものように笑っているだろう。母親は今も自分を捜しているかもしれない。
「帰る方法については?」
「聖域にある古文書に、召喚された者を元の世界へ戻す術が記されている可能性があります」
可能性。
その言葉に期待してしまう自分が嫌だった。確実に帰れるわけではない。それでも、何もないよりはずっとよかった。
「行きます」
かすみは地図から顔を上げた。
「ただし、魔王を封じることと、私が日本へ帰る方法を探すこと。その両方をしてください」
「承知しました」
その日の午後には、城を出る準備が整えられた。
かすみが城門へ向かうと、そこには四人の姿があった。
最初に目に入ったのは、長い耳を持つ男性だった。背中に弓を負い、腰には短い杖を下げている。人間とは少し違う顔立ちをした男性は、やって来たかすみを遠慮なく眺めた。
「この人が聖女?」
しばらく見たあと、思ったことをそのまま口にする。
「……普通の女の子にしか見えないけど」
「普通の高校生です」
かすみが答えると、男性は少し驚いたように眉を上げた。
「高校生?」
エルフは聞き慣れない言葉を口の中で確かめ、それ以上は尋ねなかった。
「日本では、そういう学校に通ってました」
「日本?」
「私がいた世界の国です」
エルフの男性は、それ以上聞かなかった。
その隣には、大柄な鬼人の男がいた。腕を組んだままかすみをじっと見つめ、歓迎している様子はない。
「人間が呼び出した人間を、俺たちが守るのか」
「嫌なら断っても構いません」
「少なくとも、泣いて命乞いをするだけの娘ではなさそうだ」
鬼人はわずかに目を細めた。
「……そういうところは気に入った」
さらにその後ろには、巨大な身体を持つ竜がいた。
今は人の姿に変わっているものの、普通の人間とは比べものにならない存在感がある。かすみが見上げると、竜はしばらく彼女を観察してから口を開いた。
「聖女というものには興味がない」
「私も、昨日まで知りませんでした」
最後のドワーフは、挨拶もせず荷物を確かめていた。金属の杭や円盤を一つずつ布で包み、箱へ収めている。
「筆頭魔導師から預かった封印具だ。聖域へ着くまで使わずに済めばいいがな」
それだけだった。
かすみは少し困った顔をした。
四人とも、自分が想像していた「勇者の仲間」とはずいぶん違う。
もっとも、かすみ自身が勇者でも冒険者でもない。昨日まで日本で学校へ通っていた普通の高校生なのだから、当然なのかもしれなかった。
馬車が城門を出てから、しばらく誰も話さなかった。
かすみは窓の外を眺めていた。城下町を抜けると道の両側には草原が広がり、その向こうには山が見える。風に揺れる草を眺めているうちに、ふいに日本の景色が浮かんだ。
故郷にも山があった。
学校へ向かう途中、毎朝見ていた山だった。
目の前にあるものとは高さも形も違う。川の流れも、草の匂いも違っている。それなのに山を見ているだけで、無性に家へ帰りたくなった。
「……日本の山、見たいな」
誰に聞かせるつもりもなく呟いた言葉を、隣に座っていたエルフが聞いていた。
「山が好きなのか?」
「好きだったのかもしれません。離れてから気づきました」
その日の夕方、一行は街道沿いの小さな村に立ち寄った。
村では数人の子供が走り回っていた。かすみが馬車から降りたところで、そのうちの一人が転び、膝を擦りむいて泣き出した。
かすみはすぐに駆け寄り、傷へ手を当てた。
「痛い?」
「うん……」
「じゃあ、ちょっとだけ我慢してね」
祈ると、手のひらから淡い光が広がって傷を包んだ。擦りむいた膝はすぐに元へ戻り、子供は驚いた顔で何度もそこを触った。
「治った!」
「よかった」
笑った子供を見ていると、昨日の治療所で出会った少女の顔が浮かんだ。
少し離れたところから、その様子を鬼人が見ていた。
「聖女ってのは、魔王を封じるためだけにいるんじゃないのか」
「私にも分かりません」
かすみは答えた。
「でも、治せるなら治したいです」
鬼人は何も言わなかった。
夜になると、一行は村の外で焚き火を囲んだ。
かすみは揺れる火を眺めながら、スマートフォンを取り出し電源を入れた。当然、電波はない。画面を開き、保存されている写真を一枚ずつ眺めていった。
母親と一緒に撮った写真。友達とふざけて撮った写真。学校からの帰り道で撮った夕焼け。
「まだ持ってたのか」
ドワーフが言った。
「はい」
「動くのか?」
「電話や写真を見るのに使います」
「電話?」
「遠くにいる人と話す道具です」
「へえ。便利な道具じゃないか」
「便利でした」
口にしてから、自分が過去形で答えたことに気づいた。
かすみは画面を閉じた。
今の自分には、誰にも電話をかけることができない。そのことを改めて思うと、喉の奥が苦しくなった。
「家族に連絡したいか?」
今度は鬼人が尋ねた。
「……はい」
「会いたいか」
「会いたいです」
そこには迷わなかった。
「すごく会いたい」
火の向こうで鬼人は黙っていた。エルフも何も言わず、竜は炎を見つめ、ドワーフは手元の道具を磨いている。
誰も慰めようとはしなかった。
そのことが、かすみにはありがたかった。
「でも、帰る方法が見つかるまでは、この世界でできることをします」
かすみは薪を一本、火の中へくべた。
「目の前にいる人を助けられるなら、助けたいです」
しばらくして、エルフが口を開いた。
「だったら、私も手伝おう」
かすみは顔を上げた。
「どうして?」
「あなたが日本へ帰りたいという話を聞いたから」
エルフは焚き火を見ながら続けた。
「帰りたい場所があるのに、知らない世界のために戦おうとしている。それが正しいかどうかは、まだ分からない。でも、少なくとも私は、あなたを聖女という名前だけで判断するのはやめる」
鬼人が鼻で笑った。
「俺はまだ人間を信用したわけじゃない」
「はい」
「だが、お前を一人で魔王のところへ行かせるつもりもない」
ドワーフも顔を上げた。
「道具は俺が作る。聖女が何をするのか知らんが、必要なものがあるなら言え」
最後に、竜が静かに言った。
「我は魔王の力を知っている。あれを封じるには、聖女一人では足りぬだろう」
四人の視線が、かすみに集まった。
まだ仲間と呼べるほど長い時間を過ごしたわけではない。
それでも、かすみは少しだけ安心していた。
日本に帰りたい気持ちは消えていない。母親に会いたい。友達にも会いたい。故郷の山や川を、もう一度この目で見たい。
その願いを抱えたままでも、この人たちと旅をすることはできるのかもしれない。
かすみは焚き火の向こうにいる四人を見た。
「よろしくお願いします」
誰も大げさな返事はしなかった。
ただ、それぞれが小さく頷いた。
その夜、かすみはスマートフォンを見ていた、画面の中には、日本で撮った一枚の空が残っていた。電源を切った後、枕元に置いて眠った。
翌朝、かすみが荷物を持ち上げようとすると、袋が一つなくなっていた。鬼人が自分の荷と一緒に担いで、もう街道を歩いている。
ドワーフは封印具の箱を叩き、竜は森へ続く空を見た。かすみは電源を切ったスマートフォンを鞄の奥へしまい、四人のあとを追った。




