外伝1 第2話「聖女の力」
翌朝、かすみはほとんど眠れないまま目を覚ました。
目を閉じるたび、日本のことばかりが浮かんできた。母親の声、友達との会話、学校の廊下に差し込む朝の光。昨日まで当たり前だったものが、眠りにつこうとするたびに何度も蘇る。朝になれば帰れるかもしれないと、どこかで期待していた自分が少し馬鹿らしかった。
窓の外はすでに明るい。それでも、そこに広がっているのは昨日と同じ知らない街だった。
身支度を整えて部屋を出ると、廊下には昨日の老人が待っていた。
老人は、この国の国王側近の筆頭魔導師らしかった。
「よく眠れましたか」
「……あまり」
正直に答えると、老人は困ったように目を伏せた。
「聖女様に、この世界の事情を理解していただくには時間が必要でしょう」
「事情なんてどうでもいいです。帰る方法を教えてください」
筆頭魔導師はすぐには答えなかった。
「現在、分かっている方法はありません」
「昨日も聞きました」
「はい」
「じゃあ、探してください。私だって何かします。だから、帰る方法を探してください」
筆頭魔導師は深く頭を下げた。
「できる限り調べます」
その返事を聞いても、不安が消えることはなかった。
その日の午後、かすみは城の中にある治療所へ案内された。そこには戦いで傷ついた人々がいた。腕に包帯を巻いた兵士、火傷を負った女性、足を怪我した子供。薬や治癒魔法で手当てを受けてはいるものの、苦しそうな表情をしている者も多かった。
「どうして私をここへ?」
「聖女様の力を確認していただくためです」
「私、そんな力があるなんて知りません」
「召喚された聖女には、聖なる祈りが宿ると言われています」
かすみは半信半疑のまま、治療台の前に座った。
そこにいたのは、小さな女の子だった。足を深く切っていて、巻かれた包帯には血が滲んでいる。
「この子を治せるんですか?」
「聖女様なら可能かもしれません」
可能かもしれない。
そんな曖昧な言葉を聞かされても、かすみには何をすればいいのか分からなかった。
女の子が、不安そうにこちらを見ている。
「……痛い?」
少女は小さく頷いた。
かすみは包帯の上から、その足にそっと手を添えた。何かを祈ればいいのだろうか。教えられた言葉もなければ、決まった作法も知らない。ただ、この子の痛みがなくなればいいと思った。
「治って」
口から出たのは、それだけだった。
次の瞬間、手のひらから淡い光が広がった。
包帯の下にあった傷が少しずつ閉じていく。血が止まり、赤く腫れていた皮膚も元の状態へ戻っていった。
少女が恐る恐る足を動かす。
「……痛くない」
かすみは手を離した。
目の前で、本当に傷が消えていた。
少女は何度か足を動かして確かめたあと、かすみを見上げて笑った。
「ありがとう、お姉ちゃん」
その言葉に、かすみはすぐ返事をすることができなかった。
嬉しかった。
自分の手で、この子を助けられた。そのことは素直に嬉しい。
けれど、その気持ちと同時に、日本にいる母親の顔が浮かんだ。
自分がこの世界で誰かを助けている間にも、母親は自分を捜しているかもしれない。突然いなくなった娘を、今もどこかで待っているかもしれない。
そう考えると、少女の笑顔を前にしても、喜びだけを感じることはできなかった。
次の寝台から兵士の呻き声が聞こえた。かすみは筆頭魔導師を見る。
「力の使い方は、私にも分かりません。無理はなさらないでください」
別の少女が母親に抱かれている。その姿を見ていると、また日本にいる母の顔が浮かんだ。
治療所を出たあと、かすみは城の廊下を歩きながら筆頭魔導師に尋ねた。
「私の力があれば、魔王を封印できるんですか?」
「はい」
「それをすれば、帰る方法を探してくれますか?」
老人は少し考えてから答えた。
「もちろんです。聖女様の願いを無視するつもりはありません」
かすみは黙った。
帰れるかもしれない。
そう思えば、魔王を封印する理由はある。
けれど、頭から離れないものがもう一つあった。
治療所で出会った女の子の笑顔だった。
自分がいなければ、あの子は今も痛みに耐えていたかもしれない。
夕方、部屋へ戻ったかすみは机の前に座り、紙を一枚取り出した。
日本にいる母親へ手紙を書こうと思った。
けれど、何を書けばいいのか分からなかった。
「お母さんへ」
そこまで書いて、手が止まった。
私は異世界にいます。
そう書いたところで、届かない。
元気です。
それも、今の自分には違う気がした。
しばらく紙を見つめたあと、かすみは一つだけ書いた。
「かえりたい」
紙の上では、たった五文字だった。
それでも、今の自分にとっては、それが全部だった。
かすみは手紙を折り、封筒へ入れた。
届けることのできない手紙だった。
夜になっても眠れず、かすみは窓辺に立った。
日本では、もう朝になっているのかもしれない。母親は起きただろうか。友達は学校へ向かっているだろうか。自分の席は、今どうなっているのだろう。
考えているうちに、目に涙が溜まった。
「……帰りたい」
昨日と同じ言葉だった。
けれど今日は、その言葉のあとに別の顔が浮かんだ。
昼間の女の子。
「ありがとう」と笑った顔。
かすみは涙を拭った。
それでも、目の前で苦しんでいる人を助けられる力が自分にあるのなら、その力を使わずにいることもできなかった。
「私……どうすればいいんだろう」
答えてくれる人はいない。
窓の外には、見知らぬ街の灯りが並んでいた。
かすみはしばらくその景色を見つめてから、机の上に置いた手紙を引き出しにしまった。
けれど、帰る方法を探すことと、この世界で苦しんでいる人たちを見捨てないことは、どちらか一つを選ばなければならないものではなかった。
翌朝、かすみは魔王を封じるための旅について話を聞くことにした。




