外伝1 第1話「異世界に呼ばれた少女」
その日の朝も、かすみにとっては何の変哲もない一日の始まりだった。
駅へ向かう途中で、いつものコンビニに寄った。店を出ると、少し先を歩いていた友達が振り返って「遅いよ」と笑い、かすみも「そっちが早いんでしょ」と返して隣に並んだ。
学校では授業を受け、昼休みには友達とくだらない話をした。放課後になれば家へ帰る。窓から見える山も、学校の近くを流れる川も昨日までと何も変わらず、帰り道で友達と別れるときも、かすみはいつものように手を振った。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
その言葉が最後になるとは思わなかった。
家に帰れば母親がいる。夕食を食べながら学校であったことを話し、風呂に入って、明日の授業の準備をして眠る。朝になればまた学校へ行く。それは予定と呼ぶほどのものですらなく、明日も当然続いていくはずの日常だった。
だから、その日の夕方、自分の部屋に突然光が現れたときも、かすみはすぐには何が起きたのか理解できなかった。
床に、見たことのない模様が浮かんでいる。
「……なに、これ」
立ち上がろうとしたとき、光が視界を覆った。身体が浮き、次の瞬間には膝を硬いものへ打ちつけていた。
「え……?」
冷たい石の床だった。
顔を上げても、そこに自分の部屋はなかった。
高い天井と大きな柱。その間に、見たことのない服を着た人々が立っている。何人もの人間が驚いた顔でこちらを見つめ、その足元には、さっき自分の部屋に現れたものによく似た模様が描かれていた。
かすみは立ち上がることもできず、周囲を見回した。
「ここ……どこ?」
誰も答えなかった。
しばらくして、一人の老人が人々の間から前へ出てきた。身につけている衣服や周囲の者たちの態度を見るかぎり、この場ではかなり身分の高い人物らしかった。
「聖女様。どうか、我々をお救いください」
「……聖女?」
意味は分かる。
それが自分に向けられた言葉だとは思えなかった。
「私のことですか?」
「はい。あなた様こそ、我々が待ち続けていた聖女です」
かすみは老人の顔を見つめた。
何かの撮影なのかもしれない。知らないうちにイベントのようなものへ連れてこられたのかもしれない。そう考えようとして周囲を見ても、そこにいる人々の顔には笑いも悪ふざけの気配もなかった。
「……スマホ」
思い出したようにポケットへ手を入れ、携帯電話を取り出した。
画面には、さっきまで見ていたのと同じ時刻が表示されている。
電波だけがなかった。
かすみはすぐに母親の番号を押した。
繋がらない。
もう一度かける。
やはり繋がらなかった。
「お母さん……」
小さく呟き、今度は友達の名前を選んだ。
駄目だった。
何度画面を触っても、誰にも繋がらない。
そのときになって初めて、かすみはスマートフォンを持つ自分の手が震えていることに気づいた。
「家に帰らないと」
老人が何かを言おうとした。
「待ってください。私、帰らないと……家族が待ってるから」
「聖女様、ここは――」
「帰してください」
今度は、はっきりと言った。
「私、日本に帰らないといけないんです」
「私が嫌だと言ったら、どうするつもりだったんですか」
「聖女の力を借りなければ、多くの者が命を失います」
老人の口が止まった。
その反応を見た瞬間、胸の奥に嫌なものが落ちた。
そのあと案内された部屋で聞かされたのは、ここが日本ではないということだった。
別の世界。
自分がいた場所とは違う世界。
自分はそこから召喚されたのだということ。そして、召喚された者を元の世界へ戻す方法は、少なくとも今の王国には存在しないということ。
「……そんなの、嘘でしょ」
笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「だって、私、今日学校に行ってたんですよ。友達と話して、お母さんにも行ってきますって言って、それで……」
その先が続かなかった。
机の上に置いたスマートフォンへ目を落とす。
そこには、日本で撮った写真がそのまま残っていた。
友達と撮った写真。家族と撮った写真。何となく綺麗だと思って撮った学校帰りの空。
つい数時間前まで、自分がいた場所だった。
それなのに画面の中に並んだ写真を見ていると、どれも急に遠い場所のものになってしまったように見えた。
「電話は?」
「申し訳ありません。こちらから異世界へ通信する術もありません」
「手紙は?」
「届けることはできません」
「じゃあ、どうやって帰るんですか?」
答えはなかった。
その夜、用意された部屋で、かすみはベッドに腰掛けたまま長いあいだ動けなかった。
窓の向こうには知らない街が広がっていた。建物の形も、灯りも、聞こえてくる人々の言葉も違う。
空だけは、日本で見ていた夜と同じように暗かった。
かすみは窓を開けた。
夜風が頬に触れる。
日本でも、今ごろ夜になっているのだろうか。
母親は何をしているだろう。夕食をもう食べ終えただろうか。それとも、自分がいつまで経っても帰ってこないことに気づいているだろうか。
友達は明日の朝、いつもの場所で待っているかもしれない。
「……帰りたい」
声にした途端、それまで胸の中に押し込めていたものが、急にはっきりと形を持った。
特別な世界などいらない。聖女と呼ばれる必要もない。誰かに感謝されなくても構わない。
ただ学校へ行きたい。友達と話したい。家に帰って、いつものように「ただいま」と言いたい。
かすみはスマートフォンを握り締めた。
電波のない画面には、当然ながら着信も通知もなかった。
母親の番号を押す。
繋がらないことは、もう分かっている。
それでも指は止まらなかった。
呼び出し音すら鳴らない画面を見つめながら、かすみはしばらくそのままでいた。
窓の外では、知らない世界の夜が続いている。
ここには、その夜を一緒に過ごす家族もいなければ、「また明日」と約束した友達もいない。
かすみの手に残っているのは、帰ることのできない場所を映した、小さな画面だけだった。




