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B-2

「な、なんのことでしょうか」

 誤魔化そうとするものの、動揺で頬がひくつく。なぜだ。なぜ、この男が僕の〝力〟のことを知っているのだ。

「とぼけても無駄だ」男は不気味な笑みを浮かべながら言う。「昨日の昼、バッタを一匹追い払ったろう。それと夕方、更衣室に蛾が入ってきそうなのを阻止した」

 男の言葉は当たっていた。バッタは買い物をしようと外に出たとき、蛾は仕事を終え着替えようとした際にそれぞれ遭遇した。どちらも発見が早く距離があったため、大事には至らずに済んだのだ。

「さらに今日の夕方、蠅を一匹追い払ってたな。エレベーターから出てすぐの廊下で、だったか。どの虫も、お前が『離れろ』とか『来るな』とか言うだけでその場から去っていった。一回だけなら偶然と片付けられたかもしれない。しかしこの短期間で三回も続けば話は変わる。……なあ、これはどういうわけだ?」

 すぐに返事を返せなかった。震える口が「どうして……」という言葉を絞り出す。

 すると男はにやりと笑い、自分の耳を指さした。

「聴いてたんだ」

「聴いてた……?」

「そうだ。俺は昔から耳が良くてな。たとえ間に遮蔽物があっても、半径一キロメートル程度までならどんな小さな物音でも聞き取ることができる。昨日お前が言葉でバッタを追い払うのを偶然聞いてな、なんだかおもしろいやつがいるなと思って、それからお前のことをずっと耳で追跡してたんだ」

 耳で追跡。なんて聞き慣れないワード。半径一キロ程度って、それはもはや耳が良いとかそういうレベルの話じゃない。要するにこの男もまた、僕と同じように不思議な〝力〟をもつ人間ということか。

「さあ、先にこっちの手札を見せたんだ。お前の〝力〟についても教えてもらうぞ」

 隠したところで、どうせもうほとんどバレている。無理に誤魔化してこの場をなんとか切り抜けられたとしても、男は耳による「追跡」をやめないだろう。その間、一匹の虫とも遭遇せずにいられる自信はない。

「……虫に、言うことを聞かすことができるんです」

 ほお、と男は興味深げに顎を撫でる。「虫を操ることができる、ということか」

「……まあ」

「なのに虫が苦手、と」

「そうです」

「宝の持ち腐れだな」

「腐った宝ですよ」

「虫の種類は問わないのか? どんな虫でも言うことを聞かすことができる?」

「……たぶん。実際に全部試したわけじゃありませんけど……」

 僕がまだ出会っていない虫も世界、いやこの国だけでも数多くいるだろう。できればこのまま会わずに生涯を終えたいところだ。

 そもそも、僕自身がこの〝力〟のメカニズムをよくわかっていない。虫に言うことを聞かせる条件は僕が声を発することだけど、虫がそれをどう知覚しているのかも定かじゃない。虫に聴覚はあるのだろうか。知りたいとも、調べてみようとも思わない。

 男は「ふむ」とまた顎に手をやると、「便利な能力だな」と呟いた。

「どこがですか。あなたの〝力〟のほうがよっぽど――」気が付き、言い直す。「お客様の〝力〟のほうが……」

音尾(おとお)だ」

「失礼しました、音尾様」

「『様』なんていい。お前の名は?」

羽江(はねえ)です」

「ハエ?」

「や、やめてください。羽江。羽江です」

「羽江よ」

 音尾と名乗った男は腕組みをし、やけに重たい口調で言った。

「言っておくが、俺のこの〝力〟もけっして便利な能力とは言い切れない」

「そう、なんですか……?」

「音というのはな、自然と聞こえてきてしまうものなんだ。見たくないものは瞼を閉じればいい。だが耳を塞いでも無音にはならない。陰口や悪口、聞きたくないことも全て俺の耳には届いてしまう。部屋で頭から毛布を被ってじっとしていても、俺の耳は常に音で氾濫している。俺の人生は静寂とは無縁だった」

 そう言って音尾は天井を見上げる。……なるほど。彼のこけた頬や目の下の濃い隈は、そうしたことによるストレスがもたらしたものなのかもしれない。なんだか急に目の前の男が可哀想に思えてきた。

「まあ、ただ、そのおかげでこんなホテルに泊まれたっていう意味では、たしかにこの〝力〟は役に立ったけどな」

「どういうことですか?」

「俺のアパートの隣のマンションに住んでるカップルがな、ある日福引でホテルの宿泊券を当てたんだ。しかもスイートだっつうんで、かなり喜んでた。だがその夜、そのカップルがケンカをした。くだらない痴話喧嘩だ。本当に、なんでカップルってのはああもケンカが好きなんだろうな。クソみたいな言い争いはずいぶん長く続いたよ。最終的に別れる別れないみたいなところまで話が発展していって、ヒートアップした彼氏がその宿泊券を窓から投げ捨てたんだ」

「……つまりあな――音尾さんはそれを聞いて、そのチケットを拾いに行ったと」

「そういうことだ」

「泥棒じゃないですか」

「どこが。俺はただ、捨てられたものを再利用してやったんだ。これはエコ活動だよ」

 物は言いようだ。ただまあ、それで彼がこのホテルのスイートに泊まれている理由がよくわかった。エコ活動という名のエゴのもとに、彼はその宿泊券を自分のものとして利用したのだ。

「ところでな、ハエ」

「羽江です」

 音尾は少し身を乗り出すようにして、なぜか小声で言った。

「この部屋の隣に、あるお偉いさんが泊まってるのを知ってるか?」

「ここの隣?」と、僕は少し前の記憶を呼び起こす。「あの、優しそうなおじいさんですか?」

「そうだ」音尾は頷く。「なんでも、ある大企業の会長さんらしい。俺やお前でも名前を聞いたことがあるほどのな」

 そうなんだ。さらっと一括りにされたことには少し腹が立つけど。まあ、彼に限らず、スイートに泊まってる人なんて大抵はそういうすごい人なんじゃないだろうか。べつに取り立てて話題に出すようなことでもない。

「それが、どうかしたんですか?」

「お前、『ブルーパピヨン』って聞いたことあるか?」

「パ、パピヨン……、いいえ」

「そう嫌そうな顔をするな。これは虫の名前じゃない。ある宝石の通称だ」

「あ。そう言われると、たしかに名前くらいは聞いたことがあるような……」

「そうだろう。なんせ、時価数百億円とも噂される宝石だからな」

「数百億……」

 それだけあれば……と想像しはじめて、スーパーで特売じゃない肉を買わなくてもよくなるな、がまず浮かんでくる僕はなんとしがない庶民なのだろう。少なくとも、虫に怯えながら仕事を転々とする日々からは脱却できるんだろうな。

「そしてそのブルーパピヨン……いま、隣の部屋にあるんだ」

「え」

「なんでも、その会長さんの家に代々伝わる家宝なんだそうだ。会長さんのひいじいさんの代から受け継がれてきたものらしい」

「……詳しいですね」

 音尾は黙って自分の耳を指さす。会話を盗み聞きした、ということなのだろう。

「で、だ。一つ提案なんだが」

 と言って、音尾はさらに声のボリュームを落とす。

「その宝石、俺とお前で盗み出そう」

「は?」

 何を言われたのかすぐにわからなかった。一泊遅れて、手をワイパーのようにぶんぶん振る。

「な、なに言ってるんですか! だめですよ、そんなの」

「俺とお前の〝力〟を駆使すれば難しいことじゃない。さっきお前の〝力〟の詳細を聞いて、方法も思い付いたんだ」

「い、いやいや、だめですって! それこそ、本当の泥棒になっちゃいますよ」

「バレなきゃ泥棒じゃない。それにお前もさっき『数百億』って聞いたとき、『欲しいな』って思ったろ? 顔に出てたぞ」

「それは……。でも、だからって、盗むなんて……」

「なあ、ハエよ」

「羽江です」

「俺もお前も、いままでこの妙な〝体質〟のせいで散々苦労を強いられてきただろう。不公平だと思わないか? 普通に生きていたいだけなのに、ただ日常を送るのにさえ強いストレスを感じなきゃならない。理不尽だよ。俺たちもここらで一つくらい、いい思いをしたって罰は当たらないさ」

「音尾さんはいますでに、いい思いしてるじゃないですか」

「ふん。こんなホテルに数日泊まったくらいじゃ、いままでの負債は帳消しにはならない。……いやむしろ、これは神様のお導きってやつなのかもしれないな。とんでもない価値の宝石を手に入れられる機会と、そのために必要な〝力〟をもつ人間が同時に現れた。人生逆転のチャンスを神様が与えてくれたんだろう」

「そんな身勝手な理屈……。とにかく、僕は協力できません」

 ソファから立ち上がり、部屋を出ようとすると背中から声がかかった。

「お前の〝体質〟のことを上司に告げ口したら、お前はどうなるのかな」

「……脅すんですか」

「さあ、なんのことだ? 俺はただひとりごとを言っただけだが」

 音尾は口の端を上げる。この〝体質〟のことは当然、職場の誰にも言っていない。虫を見たら突然暴れ出す可能性があるような人間に接客を任せてもらえるとは思えないからだ。それが知れたら、きっとまた職探しの日々。これだけ転職を繰り返している人間を雇ってくれるところなんてまだあるだろうか。このホテルの仕事だって、苦労してやっとありつけたものなのだ。

「まあ、座れよ」

 言われるがままソファに座る。にやついた顔で音尾は言った。

「大丈夫、俺の計画は完璧だ。絶対にバレない。ここで一攫千金を手にして、俺たちにクソみたいな〝体質〟を授けた神様に逆襲してやろうぜ」

「さっきはお導きとか言ってたのに、どっちなんですか」

 音尾は身を乗り出し、言った。

「では、作戦会議を始める」

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