B-1
その男は突然、僕の前に現れた。
いや、実際にはロビーを歩いていたところ後ろから肩を叩かれたわけだから、厳密に言えば男は僕の後ろに現れたことになるのだけど。
「ワインを一本頼みたいんだ」
男は言った。一瞬、言われた意味がわからずぽかんとしてしまう。僕と同じ二十代か、あるいは三十代前半。痩せた頬に目の下の濃い隈。正直、あまり人相が良いとは言えない顔つきをしていた。
「ルームサービスなら、お泊まりのお部屋からご利用いただけますが」
本当にこのホテルの宿泊客かは怪しいところだけれどそう説明すると、男は口の端を奇妙に捻じ曲げるような笑みを浮かべ、「きみに頼みたいんだよ」と言ってきた。そして部屋番号と「いちばん安いワインを頼む」という言葉を残し、逃げるようにその場から去っていった。僕はまたぽかんと立ち尽くす。男が言った番号の部屋はたしか、このホテルのスイートルームのはずだ。
妙な客に、妙なことを頼まれた。その旨を上司に報告すると彼は眉をひそめ、しかし部屋番号を聞くと腕組みののち、「お客様の意向に従うように」という指示が下された。やはりスイートの客とあっては無下にはできないらしい。
エレベーターに乗り込む。普段、スイート階のルームサービスはよりキャリアを積んだベテラン給仕たちが行なう。だから来るのはこれが初めてだ。エレベーターを降りて、さっそく驚く。壁や床の凝ったデザイン、豪華な照明。スイートは廊下からすでに始まっているのか。
告げられた番号の部屋を探す。来慣れていないため、一般階との構造の違いに少し戸惑う。一度足を止め、壁の案内表示に目をやっていると、「何かお探しですか?」と後ろから声をかけられた。振り向くと、宿泊客と思しき一人の男性が立っていた。
「すみませんね、急に声をかけて。新しい給仕さんかな? なんだかお困りのように見えたので」
男性は見たところ七十代かそれ以上。「おじいさん」と言ってもよさそうな年齢に思えるけど、さすがに身なりがいい。あの男とは違って、スイートに似つかわしい客に思えた。
「その、実は……」
恥ずかしながら事情を説明すると、「ああ、それなら」と男性が案内してくれることになった。給仕が客に部屋まで案内してもらうとは、いやはやなんとも情けない。男性は丁寧にも目的の部屋の前まで一緒に来てくれた。親切な人だ。「それじゃあ」と去っていく男性に深く頭を下げ、見送る。と思ったら、男性は少し歩いた先にあるドアを鍵で開け、中に入っていった。なるほど、隣の部屋だったのか。
「ルームサービスでございます」
呼び鈴を鳴らし、そう告げる。すぐにドアが開けられ、さきほどの男が顔を出した。本当にここに泊まってたのか……。
男に促され、部屋の中に入る。廊下もすごいが、室内はもっとすごい。奥にある大きな窓からの眺めも、きっと最高なんだろう。
「えっと、こちらでよろしかったでしょうか」
と、持ってきた「いちばん安いワイン」のボトルを手に取り、男に見せる。男は「ああ」と頷いて、ふかふかとした上質そうなソファに腰を下ろした。あらためて男の姿を眺める。髪はボサボサ、シャツはいかにも量販店で買ったようなペラペラの生地で、所どころ色の抜けたジーンズはそういう加工ではなく何度も洗っているうちにそうなってしまったもののように見える。
あまり客のことを悪く思うのはよくないかもしれないけれど、やはり彼とこの部屋はあまりにもミスマッチだ。たとえるなら、お金持ちの家に入ってきた泥棒のような……。
「おい」
「ああ、すみません。こちら、ここに置かせていただきます」
ワインとグラスを手近にあったテーブルに置き、「失礼いたします」と部屋を去ろうとする。するとまた「おい」と男から声がかかった。
「はい?」
「そうじゃない。まあ……なんだ、お前もそこに座れ」
男は斜向かいにあるソファを指さす。
「え、いや、でも……」
「いいから。客の命令だ」
「は、はい」と頷き、渋々腰を下ろす。すると男は自らボトルのコルクを開け、グラスにドバドバと中身を注ぎはじめた。
「お前も飲むか?」
「い、いえ。仕事中ですので……」
つまらんやつだ、と男はグラスを傾け、一息に半分ほど飲み干す。げふ、とゲップをしてグラスをテーブルに置くと、僕を見て言った。
「お前、男のわりに声が高いよな」
「は?」
いきなりなんだ。まあ、声についてはよく言われるけど。それがどうしたというのだろう。
「おかげで見つけやすかったぞ」
「……?」
男が何を言っているのかわからず、首を捻る。男は何が可笑しいのかにやにやとした笑みを浮かべている。
「まあ、いい。俺がお前をここに呼んだのは、ある話をするためだ」
「話、ですか……?」
「ああ。だがその前に、まずお前の話を聞かせてくれ」
「僕の……? ええと……?」
困惑する僕を見て、男は愉快そうに口元を歪める。そして言った。
「お前のもっている、不思議な〝力〟についての話だよ」




