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B

 またやってしまった。

 エレベーターの階数表示を見上げながら、深くため息をつく。

 どうして僕はこうなのだろう。これまでも過去の職場で虫にまつわる失敗を数多くしてきた。

 コンビニでの接客中レジに蚊が飛んできて、慌てるあまり客が出した小銭を全部床にぶちまけた。服屋の店内にどこからか現れたトンボから逃げようと、客が利用中の試着室に突っ込んだ。書店では平積みされた本の上にいたカマキリに驚き売り物の本を何冊もズタズタに引き裂き、カラオケ店ではミュージックビデオにテントウムシの帽子を被ったアイドルが出てきて、マイクでモニターを叩き割って穴だらけにした。

 自分なりに、なるべく虫と出会う機会の少なそうな職場を選んできたつもりだった。けれどなぜか不思議なことに、僕はどこに行っても必ず何らかの虫と遭遇してしまう。いや、そもそも一般的に言って、普通に生活していて虫といっさい出くわさないなんてあり得ないのかもしれない。虫が悪いのではない。要するに、僕のこの体質が悪いのだ。

 さっきの蝶にしたってそう。姿を見るだけでも恐ろしいのに、肩に止まられなんてしたらそれはもう平静を失う。思わず我を忘れて、めちゃくちゃに暴れてしまった。あのお客さんが押さえていてくれなかったら室内がどうなっていたかわからない。

 しかし、あんな迷惑をかけたというのにチップまでくれるなんて心の広い人だ。こんなホテルに泊まれるくらいだからきっと相当なお金持ち。やっぱりお金持ちは精神的にも豊かなんだな。見たところ歳は四十代から五十代くらい。一緒にいたよく似た女の子二人は小学校高学年くらいかな。それぞれ金と銀の派手な髪色をしていたけど、校則は大丈夫なのだろうか。奥さんらしき人の姿は見えなかったけれど、夏休みを利用して親子で旅行に来ているのだろう。

 ……それにしても、カレーがこぼれなくて本当によかった。カレーの皿は我を忘れた僕の手から離れた後、いったいどんな軌跡を描いて飛んでいったのだろう。あの女の子たちが「うまいことキャッチした」と男性は言っていたけれど、宙を舞う皿を、盛られたカレーがいっさいこぼれないようにキャッチすることなど可能なのだろうか。色々な物理法則を無視してないか? ……まあ、結果的にカレーはこぼれなかったわけだから可能だったということだし、僕としても助かったのだけど。

 ――と、エレベーターが目的の階に到着した。ワゴンを押し、外に出る。そのときだった。

「――っ!」

 思わず大きな声を上げそうになるのを、すんでで堪える。一難去ってまた一難。前方に大きな蠅が、僕の行く手を阻むように飛んでいた。

 こめかみから冷たい汗が流れる。落ち着け。まだ距離はある。ここはいったん、このまま後ろに下がって――

 そう思ったまさにその瞬間。飛んでいた蠅が突如、まるで獲物を発見したかのようにまっすぐに僕のほうに向かってきた。ああ、クソ、そうなのだ。どういうわけか僕は種類を問わず、あらゆる虫に妙に好かれやすい。それでいて僕自身は虫が大の苦手なのだから、この体質はきっと神様が嫌がらせで僕に授けたものにちがいない。

 このまま近づかれたら終わる。そしてきっとまた新たな職探しの日々だ。幸い、まだギリギリ平静を保っていられる程度の距離。虫に語りかけるなんて本当は嫌だけど、もはや手段を選んではいられない。

「こ、こっちに来るな」

 僕は口を開き、蠅に向かって言った。我ながら情けない震え声だったけど、蠅には届いたようだ。蠅はくるりと向きを変え、そのまま反対方向に飛んでいった。

 ふうぅぅぅ、と大きく息をつく。「胸をなでおろす」とは言うけれど、本当にほっとしたとき、人は実際に胸に手を置きたくなるものなのだと初めて知った。

 蠅の姿は完全に見えなくなった。でも念のため踵を返し、迂回して向かうことにする。

 意地悪な神様は僕にもう一つ、奇妙な〝力〟を授けた。

 虫と話す能力。より詳しく言えば、「虫に言うことを聞かせ、自在に操る」力を。

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