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『泥棒だ! 泥棒が出たぞ!』
聞こえてきた声に目を覚ますと、隣のベッドにソルの姿が見えた。腹ばいの姿勢で頬杖をつき、テレビを観ている。声はテレビから発されたもののようだ。
「戻ってたのか」
ベッドの上で体を起こし、ソルに声をかける。まだ頭がぼんやりしている。
「おじさん、このドラマ超おもしろいよ」テレビに顔を向けたままソルは言う。「今年度のドラマオブザイヤーかもしれない」
「そういう賞があるのか」
「公式にはない。あたしが個人的に毎年決めてる」
「それに選ばれると、なにか貰えるのか」
「もらえる。あたしからの惜しみない賛辞が」
「そうか」と、テレビの画面に目を向ける。「だがひとつ、残念なお知らせがある」
「なあに?」
「そのドラマはドラマオブザイヤーには値しない」
「どうして? こんなにおもしろいのに」
「それは今年放送されたものではないからだ」
「どういうこと?」
「おまえがいま観ているのは、去年放送されたドラマの再放送だということだ」
首だけ傾けてこちらを振り返っていたソルが、なるほど、と頷いて顔をまたテレビのほうに戻す。ふむ、となにか考えるような顔をしてから言った。
「審議の結果、やはりこのドラマは今年度のドラマオブザイヤーにノミネートすることにいたしました」
「去年放送されたドラマという時点で、選考基準を満たしていないのでは?」
「いいえ。あたしがこのドラマを初めて目にしたのは今日です。すなわち、このドラマもまた広い意味で『今年のドラマ』ということになります」
「拡大解釈が過ぎる。審査員長による横暴だ」
「作品に対して真摯に向き合おうという姿勢の表れです。我々は常に広い視野をもって審査に取り組んでいかなければならないのです」
「そのドラマ、そんなにおもしろいのか?」
「うん、おもしろい! いままで観たなかでいちばんかもしれない」
そうか、と私は頭の中に記憶の釣り糸を垂らしてみる。
「そういえば去年、ルナもそのドラマを観ていたな」
「ルナが?」
「ああ。そしてたしかやつも同じようなことを言っていた。『これまで観たなかでいちばんだ』と」
「ふうん」とソルは唇を尖らせる。「やっぱりね。道理で、なんかガキっぽくてつまらないドラマだなと思ってたんだ」
「いままででいちばんだと言ってなかったか?」
「あたしじゃないよ。ルナが言ってたんでしょ」
「ああ。ルナ『も』言っていたな」
ルナの名前が出たところで、そういえばいま何時なのだろうとふと気になった。見たところ、部屋に時計の類はないようだ。奥のベッドでルナが寝ているのが見えるので、少なくともまだ日中らしいということだけはわかる。
ふいに目の前を青い小さなものが通過した。
「蝶?」
「外で捕まえた」
〝ガキっぽくてつまらない〟ドラマを熱心に視聴しながらソルは答える。
「なぜ捕まえたんだ?」
「きれいだったから」
青い羽の蝶は暗い部屋の中をひらひらと舞っている。微かな青い光の筋を描くように。
「これ、どうするんだ?」
「どうするって?」
「飼うつもりなのか?」
「あー。どうしよっかな」
「飼うつもりがないなら逃がしてこい」
「いや、ここは彼の自由意志にゆだねよう」
「その自由意志をおまえによって阻害された結果、彼はいまここにいるんじゃないのか」
「彼がここにいるのもまた、彼自身の意志によるものだよ、おじさん」
「捕まえたと聞いたが」
「とにかく、その話はいったんあとにして。あたしはいまあたしの確固たる意思に基づいて、ドラマの視聴を続けなければならないから」
蝶は天井付近を飛んでいた。見上げながら首を回すとポキポキ音が鳴る。昨夜は夜行バスの車中で遅くまでルナのカードゲームの相手をさせられたため、あまり寝ていない。無事ホテルに着き、ソルが外に遊びに行ったのを見送ったあと、部屋で少し仮眠をとることにしたのだった。
まだ頭はややぼうっとしているが、眠気はいくらか解消されたようだった。部屋の明かりをつけ、ベッドからおりると空腹を感じた。机の上に置かれている電話の受話器を手に取る。
「ビーフカレー」テレビのほうを向いたままソルが言った。
「なに?」
「ルームサービス頼むんでしょ? あたし、ビーフカレー」
フロントに電話をかけ、先方に希望を伝える。ビーフカレーとサンドウィッチを注文した。
「おじさん、サンドウィッチでいいの?」
「ああ」
「歳だから? もうあまり食べられないの?」
「歳ではあるが、食欲はまだ人並みにはある。軽食を注文したのは単に経済的な事情からだ」
「本当はもっとがっつりしたものが食べたいけど、お金がなくて食べられないってこと? かわいそうに」
「同情ありがとう。だが私の経済状況はお前たちのそれにも直結する。もう少し自分のことのように悲しんでくれてもいいと思うのだが」
ソルは口の端を上げ、ふふっと笑う。
「大丈夫。今回の仕事でお金はたくさん入るわけだから」
「成功が確約された仕事ではない。気を抜くな」
へーい、と気の抜けきったような返事を返し、ソルはまたテレビのほうに向き直る。
しばらくして部屋のチャイムが鳴った。ソルが待ちかねたようにベッドからおり、ドアスコープを覗き相手を確認する。
「よかろう、入れ」
「オートロックだ。開けてやれ」
ワゴンを押しながら入ってきたのは気の弱そうな若い給仕だった。「お待たせいたしました」とぺこりと頭を下げ、ワゴンをテーブル近くまで押していく。ドアを閉めたソルはベッドに戻り、またテレビを観はじめる。ドラマはまだ終わらないようだ。
「おじさん」
「なんだ?」
「自由意志が」
「自由意志?」
ソルが指で示した方向には蝶がいた。蝶はふらふらと、まるで磁石かなにかで吸い寄せられるかのように若い給仕のほうに飛んでいき、彼の肩にとまった。テーブルに料理を配膳中の給仕はそれに気づいていない様子だ。
「こちら、ビーフカレーです」
「あ、ああ。ありがとう」
彼の肩に手を伸ばしかけたところでちょうど話しかけられてしまい、おかしな体勢でいる私に給仕が怪訝そうな顔をする。
「えっと……なにか?」
「ああいや、きみの肩に蝶がとまっていたから、取ってやろうかと思ってね」
「……蝶?」
給仕の動きがぴたりと止まる。そういう彫刻にでもなってしまったかのようだ。やがて首だけがギギギと動き、自分の肩のほうを向く。一瞬の間ののち、給仕の目が大きく見開かれた。
「ぎ、ぎぃやああああああ!!」
耳をつんざくような悲鳴だった。給仕は我を忘れたように手足をめちゃくちゃに振り回す。
「お、落ち着いて!」
突然の狂乱ぶりに驚きながらも声をかけるが、彼の興奮はなおもおさまらない。仕方なく後ろから羽交い締めにする。痩せた体からは想像もつかないほどの凄まじい力だった。
それでもなんとか抑えつけていると、しばらくしてようやく給仕の動きが止まった。様子を見つつ、体からそっと手を離す。
「だ、大丈夫かい?」
「は、はい……すみませんでした」給仕は申し訳なさそうに深く首を垂れる。「僕、虫が大の苦手でして……」
「虫が?」
ほう、と頷いたところで、給仕は突然はっとしたように顔を上げた。今度はなんだ、と身構えると、蝶の羽のように青ざめた顔の給仕が恐るおそるといった調子で口を開く。
「あの、僕、持っていた、カレーは……?」
「あ」と私もそれで気が付いて、周囲の床に目をやった。床が大惨事になっている様子はない。どういうことかと給仕に目を戻すと、彼は唖然とした様子でベッドのほうを見ていた。
「おー、この泥棒、思ったより足早いなー」
「これ、いま再放送してたんだ」
「あー、でもだめだ、まぬけだから罠に気づいてない! おい、そっち行くな! 捕まっちゃうぞ!」
「大丈夫、この回では捕まらない。ソルほどまぬけではないから」
「あ? なに? なんかいま失礼なこと言った? ていうかあんたなにさらっとネタバレしてんの? あたしこのドラマ、初見なんですけど」
「次の回ではいったん捕まる」
「どういうこと!? ネタバレを注意されて、なぜよりいっそうのネタバレができるの? どういう思考回路なの? バカなの?」
「脳に栄養が足りてないのかもしれない。だれかさんがカレーをくれないから」
「だれがやるか! ネタバレ野郎にやるカレーはない!」
ベッドの上には双子がいた。ソルとルナ、二人は並んでテレビを観ながらくだらないことで喧嘩をしている。
そしてソルの手には、給仕が持ってきたカレーの皿があった。
……さてはこいつら、やったな。
なおも呆然と双子のほうを見つめる給仕の肩に私はそっと手を置き、言った。
「きみが放り投げてしまったカレーの皿は、あの子たちがうまいことキャッチしてくれたようだ」
「は、はあ……」
我ながら、なんと苦しい言い訳だろう。釈然としない様子で頷く給仕になけなしのチップを渡し、帰らせる。口止め料としては安い。もっとも渡された本人にその認識はないだろうが。
給仕が部屋を出たのを確認し、双子に向き直る。
「おい、お前ら」
「なに、おじさん?」「おはよう、空木さん」
「人前で〝力〟を使うなと言ったろう」
「いや、でも緊急事態だったし」
「カレーの命には代えがたい」
「カレーは駄目になってもまた作り直すことができる。だが、もし人にお前たちの能力のことが知れれば、我々はカレーなんかよりずっと多くのものを失うんだぞ」
「空腹で餓死寸前のあたしには、カレーがなによりも大事だったんだよ」
「そしてそのカレーがいま、目の前で失われようとしている」
ルナが人差し指をカレーの皿に向ける。すると皿に載っていたスプーンがふわりと宙に浮いた。スプーンはふよふよと空中を漂い、ルナの手にすぽっと収まる。
「なにすんだよ!」
「わたしにもちょうだい」
「やらないって言ってんだろ! ルナも自分の分、頼んでもらえよ!」
ソルが人差し指をぴんと立てる。するとルナの手からスプーンが抜け、今度はソルの手の中へと移動する。「返して」とルナ。「そもそもあたしのだ!」とソル。その声に呼応するかのように、スプーンは二人の間をふらふらと行ったり来たり。
はあ、と私はため息をつく。と、床に落ちていた自分の携帯電話を発見した。液晶には「16:05」の表示。もうこんな時間だったのか。
夕方四時。これからあと二時間といったところか。
一日のうち最も騒がしい時間で、双子が〝力〟を使える時間だ。




