オーディション
退院からの五ヶ月間は、時雨にとって文字通り「地獄の改造計画」だった。
未蘭に引きずり回されて渋谷で買い揃えたストリートブランドの服は、最初は「服に着られている」状態だったが、マスターの紹介で通い始めたジムでの過酷なトレーニングが、時雨の体格を変えた。
腕立て伏せすらできなかった細い腕には筋肉がつき、背筋がついたことで体に厚みが出て、背筋も伸びたことで、オーバーサイズのパーカーや太めのデニムが不自然なく馴染むようになっていた。
そして、言葉の刃。
マスターに言われた「べっとりとした嫌な感じ」。時雨は夜な夜なノートに向かい、自身の底にあるどす黒い孤独と、世界に対する冷徹な観察眼を、難解な語彙と共にビートに編み込む作業を続けていた。
――そして、ついにオーディションの日がやってきた。
会場となる県内有数の大型クラブ。フロアには、一次審査の音源選考を通過した猛者たちがひしめき合い、ピリピリとした殺気を放っていた。
出番を決めるくじ引きを終えた時雨は、重い緊張から逃れるようにトイレへと駆け込んでいた。
洗面台の鏡の前に立つ。そこに映っているのは、青白い顔で怯えていたあの日の「ガリ勉オタク」ではない。深々とフードを被り、鋭い眼光を放つ一人のラッパーだった。
時雨は鏡に向かって、マスターから「腐るほど見ろ」と言われた海外アーティストの動画を思い出しながら、ビートに乗せる身振り手振りの復習を無音で繰り返していた。手のひらの返し方、指の差し方、肩の落とし方。言葉の説得力を増幅させるための「身体言語」だ。
「……ふぅ」
一つ息を吐いた時、トイレのドアが開き、恰幅の良い男が入ってきた。
男は鏡の前に立つ時雨を一瞥し、隣の洗面台で手を洗い始めたが——ふと動きを止め、もう一度時雨の顔をまじまじと見つめた。
「……おい。お前、もしかしてあの時の……」
男の顔を見て、時雨も目を丸くした。
彼は、時雨が一番最初に『ROOTS』のステージでバトルをした相手、あの「チンピラ風のMC」だった。彼もまた、このフェスのオーディションを勝ち残っていたのだ。
男は、時雨の厚みを増した肩幅と、堂々とした立ち姿、そして何よりその瞳に宿る暗い炎を見て、信じられないというように息を漏らした。
「マジかよ……お前、完全に別モンじゃねえか。見違えたな」
「……あなたも、相変わらず派手なタトゥーですね」
時雨が皮肉めいて返すと、男はふっと吹き出し、ニヤリと笑った。時雨もまた、口角を上げて笑い返す。
そこにはもう、いじめられっ子と不良という壁はなかった。マイク一本で己の存在を証明しようとする、同じ表現者同士の奇妙な連帯感だけがあった。
「俺は次が出番だ。……お前も、派手にカマしてこいよ」
「ええ。見ていてください」
男と拳を軽く合わせ、時雨はトイレを後にした。
さあ、オーディションの開始だ。
審査員席には、フェスのオーガナイザーや地元の重鎮ラッパーたちがずらりと並び、鋭い眼光で挑戦者たちを品定めしている。
バトルではない。己の持ち歌(オリジナル楽曲)だけで、たった一人でこの重苦しい空間を支配しなければならない。
「エントリーナンバー18番、シグレ」
名前を呼ばれ、時雨はゆっくりとステージの中央へ歩み出た。
かつてのように足は震えていない。鍛え上げた体幹が、しっかりと床を捉えている。マイクを握る右手の包帯はとうに取れ、そこにはマイクダコが硬く形成されていた。
「ビート、お願いします」
低く落ち着いた声でDJに合図を送る。
流れ出したのは、不穏なピアノのループと、心臓の鼓動のように重く引きずるようなドープなビート。
時雨は目を伏せ、マイクを両手で包み込むように口元へ寄せた。
そして、顔を上げた瞬間——彼の内側に飼い慣らしていた「闇」が、一気にステージへ溢れ出した。
【本当はもう、言葉の刃を丸くして、誰のことも傷つけないように生きるつもりだった」
「復讐?柄じゃない、けどここで逃げたら一生、透明人間」】
「……フロアの空気がおかしい。皮膚がヒリヒリする、ただの勘じゃない、何かが起きそうだ」
「何が起きるかは分からない」
「……事態は最悪、上等だ。これこそまさに、僕が血を流してまで手に入れたかった『戦場』じゃないか」】
審査員たちの眉がピクリと動く。
文学的でありながら、ひどく冷たく、そして「べっとりとした嫌な感じ」がする言葉の羅列。
時雨は鏡の前で練習した通り、いや、それ以上に自然に体を動かしていた。
ビートの重低音に合わせて肩を揺らし、鋭い言葉を吐く瞬間に、見えない心臓を握り潰すように手を強く握る。
時雨の目は据わっていた。
親に捨てられた記憶。透明人間として扱われた日々。暴力に蹂躙されたあの夜。
それらすべての絶望と憎悪を、極限まで研ぎ澄ませたボキャブラリーに変換し、観客の無意識の奥底へとねっとりへばりつかせる。
【まるで自分が『言霊を操る悪魔』にでもなった気分だ
フロアの全員が、俺が吐き出すルビに合わせて首を振っている
さあ、僕のハードカバーと殴り合えるだけの語彙を持ってる奴はいるか?
奴らは僕のことを「感情の欠落した朗読マシーン」だと嘲笑った
なら「生きた広辞苑」とでも呼べばいい
僕はいつだって、残酷なまでに事実を並べるだけのMCだ
ただ、君たちの隠したい現実を抉るから、最高に無礼で下品に聞こえるだけさ
活字中毒、修辞のオーバードーズ
その暴力的なまでの情報量で、テンプレ不良どもを皆殺しにする
「ヤバい」と「マジ」しか言えないペラペラなストリート・ヒップホップ
僕と論理で張り合おうなんて寝言は寝てから言え
君らが車のトランクに鉄パイプを隠して粋がってる間
僕はリュックに分厚い文学書を詰め込んで、思考の次元を上げてるんだ
中身のない自慢話、裏社会の繋がり、ベラベラペラうるせえだけだ、お前ら同じフレーズを繰り返すその1秒の間に僕は脳内の本棚を駆け巡り、思考のアクロバットを決める
拳なんか使わなくても、言葉の質量だけで
お前の安いプライドを、机ごと真っ二つに叩き割ってやるよ
自分の言葉が引き起こした『代償』——暴力も狂気も、あとから皮肉なほど実感したよ
だが、爆発しないわけがないだろ
俺はお前の急所《きんた◯》に、禁断の真実を落とし続けてやるんだからな、底辺オタクのその致死量食らってみろ!
ストリートの王様たちは、今が人生で一番の「お通夜」だな。ほら、ポケットティッシュだ。鼻水でも拭けよ、お前が泣きべそをかいてる間にさ俺は圧倒的な活字の暴力で、この残酷な傑作を完成させる!】
最後のワンフレーズ。時雨が審査員席に向かって鋭く指を突き刺した瞬間、重いビートがピタリと止まった。
静寂。
ただのオタクだった少年が、自らの肉体を鍛え、言葉という狂気を纏った「本物のモンスター」へと羽化した瞬間だった。
審査員席の中央に座っていた重鎮オーガナイザーが、ゆっくりと口に咥えていた葉巻を下ろし、面白そうにニヤリと笑った。
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