Vibes
「で? 星野から聞いたぜ。あんな目に遭って、まだラップ続けるつもりなんだってな?」
マスターの問いに、時雨は包帯から覗く目でしっかりと彼を見据え、頷いた。
「……はい。やめません。むしろ、もっと言葉を研ぎ澄ませたい」
時雨の迷いのない声を聞いて、マスターはふっと口角を上げ、短く笑った。
「上等だ。お前のその目、負け犬の目じゃねえ。……だったら、お前に『目標』をやる」
マスターは着ていた革ジャンの内ポケットから、四つ折りにされた一枚のフライヤーを取り出し、時雨のベッドの上に放った。
そこには、荒々しいグラフィティアートの文字で『DIRTY LOCAL FES』と書かれていた。
「半年後、隣の県でデカいラップフェスがある。まあ、あくまで地方レベルの話だがな。それでも、ここで名前が売れれば、一気に全国区へのジャンプアップも可能なデカい舞台だ」
「半年後……僕が、フェスに?」
「ああ。だがな、シグレ。今のままじゃお前は出られねえ」
マスターはパイプ椅子に深く腰掛け、腕を組んだ。その目は、ライブハウスの経営者として、そして長年ストリートを見てきた大人としての厳しい色を帯びていた。
「言葉は悪いが、今のお前はこの世界じゃ完全に『異質』だ。オタク臭くて、ひ弱で、おどおどしてる。言っちまえば、お前はまだ物珍しさでウケてるだけの『色物』なんだよ」
色物。その言葉が時雨の胸にチクリと刺さる。だが、反論はできなかった。
「ヒップホップってのは、言葉だけじゃ完結しねえ。アティテュード(姿勢)や、背負ってる空気感も含めての表現だ。だから、お前が譲れる範囲で、俺たちの文化に寄ってくる必要がある」
「寄ってくる……? じゃあ、僕も不良になれと?」
「馬鹿野郎」
マスターは即座に時雨の言葉を切り捨てた。
「いいか、勘違いすんなよ。俺たちに寄ってこいってのは、モンモン(刺青)を入れるとか、ハッパ(大麻)をキメるとか、そういうアウトローの真似事をしろってことじゃねえ。お前がそんな薄っぺらい不良ぶったところで、それこそフェイクだ。絶対にやめろ」
じゃあ、どうすればいいのか。戸惑う時雨をよそに、マスターは隣で黙って話を聞いていた未蘭を顎でしゃくった。
「まずは見た目だ。お前のその『ママンが買ってきた服』は卒業しろ。そこのねーちゃんに、それっぽい服を選んでもらえ。お前のオタクっぽさを消しすぎず、でもステージで映える絶妙なラインをな」
「えっ! マジ!? あたしがシグれんをプロデュースしていいの!?」
未蘭が目を輝かせて身を乗り出す。
「それから、体をゴツくしろ」
「……はい?」
時雨は素頓狂な声を上げた。
「腕立てもできねえ貧弱な体で、誰がステージ上の言葉に説得力を感じる? どんなにキツいディスを吐いても、風が吹けば飛びそうな体じゃ舐められるだけだ。俺の知り合いのジムを紹介してやるから、退院したら死ぬ気で筋トレしろ。プロテインも飲め」
「き、筋トレ……僕が……?」
辞書よりも重いものを持ったことがない時雨にとって、それは拷問宣告に等しかった。
「そして中身だ。お前の最大の武器は、そのインテリ臭え語彙力だ。だが、ただの優等生の朗読じゃつまらねえ。お前の言葉には、あの牙王を震え上がらせた、ヤケにべっとりとした『嫌な感じ』がある。その内側に飼ってるドロドロしたもんを、もっと磨け」
「べっとりとした、嫌な感じ……」
「最後に、他人のライブ映像やPVを腐るほど見ろ。リリック(歌詞)の勉強じゃねえ。マイクの持ち方、視線の配り方、『手振り』のやり方だ。ビートに対してどう体をノせるか、それを徹底的に頭と体に叩き込め」
マスターは一気にそこまで語ると、パイプ椅子から立ち上がった。
「服、筋トレ、フロウの追求、そしてステージング。やることは山積みだ。半年なんて、あっという間だぞ」
マスターは病室のドアノブに手をかけ、最後に肩越しに振り返った。
「言っとくが、フェスはただ待ってれば出られるわけじゃねえ。五ヶ月後に、主催者連中の前で厳しいオーディションがある。……なあ、シグレ」
マスターの目が、挑戦的に光った。
「もっと見せてくれよ。お前の奥底にある、その真っ黒い『闇』を」
バタン、とドアが閉まる音が病室に響いた。
数秒の静寂の後。
「ヤッッバ!! 超アガるんだけど!!」
未蘭が歓声を上げ、ベッドの脇でピョンピョンと飛び跳ね始めた。
「服でしょ! あとジム! やばい、シグれん改造計画じゃん! 退院したら即、渋谷に服買いに行くからね! 予算いくら!? あたしが最強のラッパーに仕立て上げたげる!!」
「…………」
言葉を磨けばいいと思っていた。
しかし現実は、筋トレと渋谷でのショッピングという、時雨にとって最も遠く、最も恐ろしいミッションが課せられてしまった。
「……どうして、こうなったんだ……」
時雨はベッドの上で、包帯ぐるぐる巻きの頭を抱え、深いため息をついた。
新しい地獄の日々が、幕を開けようとしていた。
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