2Pac and The Notorious B.I.G.
ヒップホップという文化が持つ、残酷で生々しい側面。それは、言葉の殴り合いで負けた者が、現実の暴力という手段に出てしまう輩が実際にいるということだ。
本場アメリカのヒップホップ史を紐解けば、ラッパー同士のビーフ(抗争)が銃撃戦や殺人にまで発展した凄惨な事件はいくつも記録されている。言葉は時に、物理的な暴力よりも深く人間の尊厳を傷つける。それを知らされた者がどれほど危険な報復に出るか、時雨は知識としては理解していたはずだった。
図書室の閉館を告げるチャイムが鳴り、時雨が学校の裏門を出た頃には、すでに辺りはすっかり暗くなっていた。
外灯の少ない静かな通学路。ふと、前方から猛スピードで走ってきた一台の白いバンが、時雨の行く手を塞ぐように急ブレーキをかけて止まった。
「え……」
後部座席のドアが乱暴に開き、中から屈強な男たちが二、三人飛び出してくる。彼らは有無を言わさず時雨の腕を掴み、無理やり車内へと引きずり込んだ。
「ちょっと! なにやってんの!!」
少し離れた場所から、時雨を待っていた未蘭の声が響いた。「シグれん、遅いから迎えに……って、待てコラ!!」
未蘭はカバンを放り投げて猛ダッシュしたが、時雨を飲み込んだバンは急発進し、あっという間に夜の闇へと消えてしまった。
「嘘でしょ……」
未蘭は震える手でスマホを取り出すと、迷わず110番をコールした。
一方、走るバンの中。
時雨は両脇を大柄な男たちに挟まれ、身動き一つ取れない状態だった。
「……どこに、連れていくつもりですか」
震える声で尋ねても、男たちは前を向いたまま誰も答えない。車内には、エンジン音だけが響く奇妙な静寂が漂っていた。
(……やっぱり、こうなるのか)
時雨は密かに、こうなる最悪のケースを覚悟していた。あれだけ大勢の不良たちの前で、彼らのリーダーを言葉で徹底的にコケにしたのだ。プライドを粉々にされた獣が、そのまま引き下がるわけがない。
車が停まったのは、人気のない海沿いの廃工場だった。
男たちに背中を蹴られ、コンクリートの床に転がり落ちる。埃っぽい空気にむせながら顔を上げると、そこには腕組みをした牙王が冷たい目で見下ろしていた。周囲には、鉄パイプや金属バットを手にした取り巻きたちが十人以上も囲んでいる。
「……マイクを持たなきゃ、ただの貧弱なオタクだな」
牙王の声は、ステージの時のような熱は一切なく、ただただ冷酷だった。
時雨の顔色は死人のように真っ青になり、全身がガタガタと制御不能なほどに震えていた。
言葉のリングを降りれば、自分は無力な高校生でしかない。圧倒的な暴力の気配を前に、辞書の知識など何の役にも立たなかった。
「やれ」
牙王の短い命令が下った瞬間、取り巻きたちが一斉に時雨に群がった。
腹部に重い蹴りが入り、時雨はくの字に折れ曲がって嘔吐しかける。背中、足、顔面。無数の打撃が雨あられと降り注いだ。
時雨はただ頭を抱え、急所を守るように丸くなることしかできなかった。全身の骨が軋み、口の中が血の味で満たされていく。痛い。苦しい。意識が遠のく。
どれくらい痛めつけられただろうか。時雨がボロ雑巾のようにピクリとも動けなくなった頃、夜風に乗って、遠くから「ウゥゥゥ……」という甲高い音が聞こえてきた。パトカーのサイレンだ。
「……チッ。誰か通報しやがったな」
牙王が忌々しそうに舌打ちをした。
「おい、ずらかるぞ」
取り巻きたちは慌てて武器を放り投げ、白いバンに乗り込んでいく。急発進するタイヤのスキール音だけを残し、彼らは逃げ去った。
冷たいコンクリートの上に取り残された時雨は、近づいてくるサイレンの音と、赤い回転灯の光をぼんやりと感じながら、深い意識の底へと沈んでいった。
——次に時雨が目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
鼻をつく消毒液の匂い。規則正しい心電図の電子音。全身が鉛のように重く、鈍い痛みが走っている。
ゆっくりと首を横に向けると、パイプ椅子に座り、ベッドに突っ伏して居眠りしている未蘭の姿があった。彼女の派手なメイクは涙でボロボロに崩れていた。
時雨は、包帯でぐるぐる巻きにされた右手をそっと伸ばし、未蘭の頭に触れた。
「……ん……」
未蘭が顔を上げる。時雨と目が合った瞬間、彼女は大きく目を見開き、わっと泣き出した。
「シグれん……! よかった、ホントよかった……生きてる……!」
「星野さん……通報してくれたんだね。ありがとう」
掠れた声で礼を言うと、未蘭は何度も首を縦に振って鼻をすすった。
「牙王たちは……?」
「逮捕されたよ。パトカーから逃げようとして事故って、あっさり御用。あたし、警察に全部話したから。シグれんがどうして狙われたのかも……。シグれんも、怪我が落ち着いたら事情聴取あるって」
未蘭はそこまで言うと、ベッドのシーツをギュッと握りしめ、俯いた。
「……もう、ラップはやめなよ」
いつも底抜けに明るい彼女から出た、初めての弱音だった。
「あいつらマジでヤバい奴らだし、また何されるか分かんない。言葉で勝っても、現実で殺されたら意味ないじゃん……」
未蘭の言葉は正しい。今回生きていたのはただの運だ。
普通なら、ここで恐怖に屈して全てを投げ出すだろう。
しかし、時雨は包帯だらけの自分の手を見つめ、静かに首を横に振った。
「……やめないよ」
「なんで!? 殺されかけたんだよ!?」
「ここでやめたら、僕は……前の僕に戻ってしまう」
時雨の脳裏に、教室の隅で息を潜め、本の後ろに隠れていじめに耐えていた惨めな自分の姿がフラッシュバックした。理不尽な暴力に怯え、口を閉ざして生きる。そんな透明人間の日々には、もう二度と戻りたくなかった。
「彼らは暴力で僕を黙らせようとした。でも、それって彼らが僕の『言葉』を恐れたからだ」
時雨の瞳の奥には、恐怖とは別の、熱い炎が静かに灯っていた。
「腕力じゃ絶対に勝てない。だったら……もっと鋭く、もっと深く突き刺さる言葉を磨くしかない」
「シグれん……」
「僕はやめない。あいつらへの復讐も、僕自身の生きる証明も……全部、ラップでやり返す」
ボロボロの体でそう誓う時雨の横顔は、初めて出会った時の気弱なオタク少年のものではなくなっていた。




