Unplugged
『SARA & 時雨』の突発的なリリースから数ヶ月。
音楽業界の勢力図は、静かに、しかし劇的に塗り替えられていた。
SARAの喉は、完全には元に戻らなかった。医学的にも、かつてのようなハイトーンや、スタジアムの最後列まで突き抜けるような圧倒的な声量はもう望めないと診断されていた。
これまでの彼女なら、それは「死」を意味していただろう。だが、時雨のプロデュースによって引き出された「不完全で生々しい声」は、皮肉なことに、これまでのどんなヒット曲よりも深く大衆の心に突き刺さっていた。
メディアは手のひらを返し、「奇跡の復活」「新境地」と書き立て、大型フェスやアリーナツアーのオファーが山のように舞い込んだ。
しかし、SARAはそれらをすべて一蹴した。
「バカね。この声でアリーナのバカデカいスピーカーを鳴らせって? 響くわけないじゃない」
SARAのペントハウス。
すっかり日差しの入るようになった明るいリビングで、彼女はオーガニックのハーブティーを飲みながら、レコード会社の重役たちからのオファーリストをゴミ箱に放り投げていた。
向かいのソファでは、時雨が膝の上に娘を乗せ、ミルクを飲ませている。
「じゃあ、どうすんだよ。一生引きこもってストリーミング配信だけやってくつもりか?」
「まさか。……ライブをやるわ。でも、スタジアムやドームじゃない」
SARAは立ち上がり、東京の街を見下ろす窓辺に立った。
「キャパは最大でも300人。客の息遣いと、グラスの氷が溶ける音が聞こえるような、小さなハコ。……完全なアコースティックのライブよ」
それは、かつて「絶対女王」と呼ばれたSARAのキャリアにおいて、一度も経験したことのない試みだった。
数週間後。
都内の高級ジャズクラブを貸し切った、一夜限りのプレミアム・シークレットライブ。
情報解禁からわずか数分でソールドアウトしたその会場には、音楽業界の重鎮たちや、初期から彼女を支えてきたコアなファンたちが、固唾を飲んで開演を待っていた。
ステージにあるのは、グランドピアノ、ウッドベース、そしてアコースティックギターのみ。重厚なシンセサイザーも、派手なレーザー照明も存在しない。
客席の後方、関係者席の暗がりには、時雨が見出したあの野良犬——リンたち5人のメンバーの姿もあった。彼女たちもまた、恩師の「新しい姿」を目に焼き付けようと真剣な眼差しを送っている。
やがて、客席の照明がゆっくりと落ちた。
拍手の中、ステージに現れたSARAを見て、オーディエンスは息を呑んだ。
いつものようなハイブランドの煌びやかなドレスではない。シンプルな白いシャツに、ゆったりとした黒いスラックス。メイクも限りなくナチュラルで、飾らない「素」の彼女がそこにあった。
「……来てくれて、ありがとう」
マイクを通した彼女の声は、やはり少し掠れていた。
しかし、その声には不思議な温かみがあった。
「みんな知っての通り、私の声はもう昔みたいには出ません。だから今日は、魔法もトリックもない、ただの私の『歌』を聴いてちょうだい」
ピアノの静かなイントロが流れ出す。
SARAが目を閉じ、歌い始めた。
それは、かつての彼女のヒット曲の数々だった。
アップテンポなダンスナンバーも、壮大なバラードも、すべて静かなアコースティック・アレンジに再構築されている。
高音のフェイクや、力強いビブラートはない。ところどころ声が擦れ、息継ぎの音がマイクに乗る。だが、その弱さを隠そうともせず、言葉のひとしずくを大切に紡いでいく姿は、かつての神々しい女王の姿よりも、遥かに美しく、人間的だった。
客席のあちこちから、静かなすすり泣きが聞こえ始める。
リンもまた、ボロボロと涙をこぼしながら、ステージ上の師匠を見つめていた。
ライブも終盤に差し掛かった頃。
「……さて。最後の曲は、私の恩人であり、最高の戦友と一緒に歌うわ」
SARAの呼び込みで、ステージの袖から時雨がゆっくりと歩み出てきた。
ラフなセットアップ姿の時雨がマイクスタンドの前に立つと、客席から割れんばかりの拍手が湧き起こる。
「……よ。家賃、払いに来たぜ」
「ふふっ、もう十分にもらったわよ」
二人が顔を見合わせて笑う。
ギターのアルペジオが鳴り響き、あの『SARA & 時雨』のイントロが始まった。
SARAの傷だらけで優しいボーカルライン。
そこに、時雨の深く、ザラついたフロウが重なる。
光と影。天上と地下。かつては絶対に交わることのなかった二つの才能が、互いの弱さと強さを補い合うように、完璧なグルーヴを生み出していく。
時雨はラップを刻みながら、横目でSARAを見た。
スポットライトを浴びて歌う彼女の横顔には、もう「絶対女王」という重圧に耐えるような悲壮感はない。ただ純粋に、音と言葉の波に身を委ねる、一人の幸福な音楽家がいるだけだった。
(……悪くねえ顔、するようになったじゃねえか)
時雨が最後のライムを吐き出し、SARAの余韻のある歌声が静かに空間に溶けていく。
最後のピアノの一音が消えた瞬間。
ジャズクラブは、数秒の静寂の後、スタンディングオベーションの嵐に包まれた。
数日後。
マンションの自室。
「あーっ、SARAさんダメですよ! ほら、首がすわってないから、もっとこう、優しく支えて!」
「わ、分かってるわよ! ……ちょっと、これどうやったら泣き止むのよ、時雨! 代わりなさいよ!」
リビングでは、すっかり遊びに来るのが日課になったSARAが、時雨と未蘭の娘を抱き抱えてパニックになっていた。
かつて音楽シーンの絶対女王が、赤ん坊の泣き声に完全に白旗を揚げている。
「俺は今、おむつのストック整理で忙しいんだよ。自分でなんとかしろ」
「ちょっと、私を誰だと思ってんのよ!」
コーヒーを淹れながら、未蘭がクスクスと笑う。
「SARAさん、子守唄でも歌ってあげたらどうですか?」
「……子守唄?」
SARAはハッとして、腕の中で泣きじゃくる小さな命を見つめた。
そして、彼女は小さく咳払いをすると、あの少し掠れた、しかし世界で一番優しい声で、静かにメロディを口ずさみ始めた。
すると、魔法のように赤ん坊はピタリと泣き止み、SARAの顔を見つめてキャッキャと笑い声を上げたのだ。
「……嘘。泣き止んだ」
「ほらな。あんたの今の声、なかなか悪くねえだろ」
時雨が笑いながら言うと、SARAは少しだけ顔を赤らめ、愛おしそうに赤ん坊の頬を指で撫でた。
「……そうね。悪くないわ」
窓の外には、穏やかな夕暮れの街が広がっている。
時代は移り変わり、音楽のトレンドも凄まじいスピードで消費されていく。
しかし、不格好なリアルを手に入れた女王と、守るべき家族を手に入れた泥臭い猟犬の生み出す音楽は、これからも決して色褪せることなく、誰かの心を震わせ続けていくのだろう。
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