Only me and my kin.
夜の底に沈んだような、静かで穏やかな時間。
東京の煌びやかな夜景を見下ろす超高級マンションのペントハウスで、時雨は一人、リビングのダウンライトの下でノートを開いていた。
『SARA & 時雨』のアコースティックライブは大成功を収め、リンたち後輩グループもシーンの最前線を猛スピードで駆け抜けている。盟友ジードックとのコラボ楽曲もチャートを席巻し、ラッパー「時雨」の地位は誰にも揺るがすことのできない盤石なものとなっていた。
すべてを手に入れた。
ガオーたちに怯え、底辺の泥水をすすっていたあの頃の自分からすれば、まるで夢のような景色だ。
時雨はペンを握り、空白のページを見つめた。
今夜こそ、あの日のことを言葉にしようと思っていた。分娩室で嗅いだ匂い、未蘭が握り返してきた手の力強さ、そして、初めて耳にした愛しい我が子の産声。
しかし。
ペン先を紙に落としても、言葉は一つも出てこなかった。
「……やっぱり、ダメだな」
時雨は苦笑いをして、ペンをテーブルにコトリと置いた。
社会への怒りも、理不尽への絶望も、富を得た狂騒でさえも、すべてをライムに変えてビートに叩きつけてきた。しかし、あの分娩室で起きた「命の誕生」という奇跡だけは、どんなに美しい言葉を並べても、どんなに極上のトラックを用意しても、チープな作詞に成り下がってしまう気がしてならないのだ。
時雨は、半分も埋まっていないノートをパタンと閉じた。
(すべてを音楽にする必要なんて、ないんだよな)
自分の人生には、ファンにも、メディアにも、SARAにすら共有しない、自分と家族だけの「神聖な領域」があってもいい。
そう思うと、時雨の心の中にあった不思議なつかえが、ふっと溶けていくのを感じた。
時雨はソファから立ち上がり、足音を忍ばせて寝室のドアをそっと開けた。
間接照明の淡い光の中、大きなベッドで未蘭と小さな赤ん坊が寄り添うようにして眠っている。
スースーという、穏やかで規則正しい二人の寝息。時折、赤ん坊が小さな手をモゾモゾと動かし、それに呼応するように未蘭が寝言をむにゃむにゃと呟く。
時雨はベッドの傍らにひざまずき、その光景を愛おしそうに見つめた。
「……なんだ。世界で一番すげえトラックは、もう目の前で鳴ってんじゃねえか」
静かな寝息。それはどんな凄腕のトラックメーカーが作るビートよりも心地よく、時雨の心を深く、優しく揺さぶる完璧なグルーヴだった。
時雨は、赤ん坊の柔らかい頬を指の腹でそっと撫で、次いで、どんな時も自分を信じて隣を歩き続けてくれた未蘭の髪を優しく梳いた。
マイクはいらない。何万人のオーディエンスもいらない。
時雨は、眠る二人だけに聞こえるような小さな声で、そっと言葉を紡いだ。
「——冷たいコンクリートの底から見上げた空、今じゃこの腕の中にある確かな温もり」
「トロフィー?札束?そんなものより重くて尊い二つの寝息」
「誰の歓声もいりやしねえ、お前たちが笑うなら、俺は一生マイクを置いて裏方でもいいぜ」
それは、録音されることも、誰かに聴かれることもない、世界でたった一つの愛のライム。
時雨の声に安心したのか、赤ん坊がふにゃりと笑い、未蘭が寝ぼけたまま「……ん、シグれん……おかえり……」と呟いて、時雨の手に自分の手を重ねた。
「ああ、ただいま」
時雨は未蘭の手を優しく握り返し、満ち足りた笑顔で目を閉じた。
窓の外では、夜明けの光が東京の街を静かに照らし始めている。
路地裏で震えていた一匹の野良犬は、長く過酷な闘いの末に、ついに世界で一番温かく、絶対に守り抜くべき「自分の居場所」にたどり着いたのだ。
(了)
最後までお読みいただきありがとうございました。一番入り込んで書いた物語でした。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




