God Save the Queen
時雨のファースト・アルバムが大ヒットを記録し、彼のラッパーとしての地位は盤石なものになりつつあった、その頃。
日本のエンターテインメント界を激震させる、一つの残酷なニュースが飛び込んできた。
『絶対女王SARA、無期限の活動休止。喉のポリープおよび重度の発声障害により、年内のツアーは全公演キャンセル』
それは、あまりにも突然の崩壊だった。
常にメインストリームの頂点に君臨し、完璧な美貌と圧倒的な歌唱力でシーンを支配してきたSARA。しかし、長年にわたる異常なまでのハードスケジュールと、常に「完璧」を求められるプレッシャーは、彼女の喉と心を静かに、そして確実に蝕んでいたのだ。
光が強かった分、落ちる影もまた黒く深い。
手のひらを返したように、メディアは彼女の「転落」を嬉々として報じ始めた。
「横柄な態度が祟った」「SARAの時代は終わった」「このまま引退か」
無責任な憶測と悪意がネット上を飛び交い、スポンサーたちは潮を引くように離れていった。
その日から、SARAは完全に姿を消した。
マネージャーの連絡すら絶ち、時雨や未蘭が住む超高級マンションの最上階、彼女自身のペントハウスに固く鍵を下ろして、誰の介入も拒絶して引きこもってしまったのだ。
ニュースが駆け巡ってから数日後の夜。
時雨は自室のリビングで、ベビーベッドで眠る我が子を見つめながら、静かにコートを羽織っていた。
「……シグれん」
オムツの片付けをしていた未蘭が、心配そうな瞳で彼を見る。
「SARAさん、大丈夫かな。あんなに強くてかっこよかったのに……」
「……あいつはプライドの塊だ。自分が弱ってる姿なんて、絶対に誰にも見せたくねえんだろうよ」
「行ってあげて。私たちが今、こうして温かい部屋で安心して赤ちゃんを抱っこできるのは、SARAさんが一番苦しい時に手を差し伸べてくれたからでしょ?」
未蘭の言葉に、時雨は小さく頷いた。
「ああ。ちょっくら、家賃払いに行ってくる」
時雨はマンションのエレベーターに乗り、専用のキーカードを通して最上階のボタンを押した。
絶望の底と、開かれる扉
ペントハウスの扉の前。インターホンを何度鳴らしても応答はない。
時雨はため息をつくと、以前「何かあった時のために」とSARAから半ば強引に押し付けられていたマスターキーを取り出し、ロックを解除した。
「おい、入るぞ」
足を踏み入れた室内は、あの完璧主義のSARAの部屋とは思えないほど荒れ果てていた。
カーテンは厚く閉ざされ、床には楽譜や洋服が散乱し、空いたワインボトルがいくつも転がっている。
部屋の奥、薄暗い間接照明だけが点るソファの隅に、彼女は膝を抱えて座っていた。
メイクもせず、髪は乱れ、いつもの圧倒的なオーラは見る影もない。ただの、傷つき疲れ果てた一人の女性がそこにいた。
「……誰が入っていいって言ったのよ。出てって」
SARAが顔を上げずに放ったその声は、かつての天上を貫くような透明な美声ではなかった。ひび割れ、掠れ、息をするのすら痛々しいほどの、無惨な声。
「出ていけって言ってんのよ……! 今のあたしには、もう何もない! アンタをプロデュースしてやる力も、歌う声も……ッ!」
声を荒げようとしたSARAは、激しく咳き込み、喉を押さえて苦しそうにうずくまった。その目からは、絶望の涙がこぼれ落ちている。
時雨は無言のまま、散らかった床を歩いてSARAの前に立ち、持っていたノートをテーブルに放り投げた。
「……SARA。俺はお前にプロデュースしてもらいに来たわけじゃねえよ」
「あんたに貰ったでっかい恩。……今度は、俺が払う番だ」
涙で顔を濡らすSARAを見下ろし、時雨は不敵に笑った。
「立てよ。俺のプロデュースで、曲を作るぞ」
マンション地下のプライベートスタジオ。
時雨はミキシングコンソールに座り、マイクブースの中にいるSARAを見つめていた。
「いいか。高音なんて出すな。声も張り上げるな。
今のその掠れた、ひび割れた声のままでいいから、マイクのすぐ近くで、息を吐くように歌え」
時雨が用意したトラックは、これまでのSARAの楽曲にありがちな壮大なシンセサイザーや重厚なエレクトロビートではなかった。
シンプルなアコースティックギターの爪弾きと、静かなピアノ、そして心音のようなキックドラムだけ。
『……こんな声じゃ、売り物にならないわよ』
ブースの中で、SARAが力なく呟く。
「綺麗にパッケージされた『絶対女王』の歌は、もうみんな聴き飽きてんだよ。今のあんたの、その傷だらけの不格好な声が、一番『リアル』なんだ」
時雨はトークバックのボタンを押し、SARAを真っ直ぐに見据えた。
「俺が泥水すすってた時、あんたは俺のリアルを面白がって引き上げただろ。なら、今度はあんたが自分のリアルを晒す番だ。俺が全部、ビートで受け止めてやる」
その言葉に、SARAの瞳の奥で、消えかけていた炎が小さく揺らいだ。
彼女は静かにヘッドホンをつけ、ゆっくりと目を閉じた。
アコースティックのイントロが流れる。
SARAが口を開いた。
それは、誰も聴いたことのないSARAの歌声だった。
弱々しく、ハスキーで、ところどころ息が続かずに途切れる。しかし、その「不完全さ」が、彼女の抱える孤独や重圧、そして音楽への手放しがたい執念を、痛いほど生々しく伝えてくる。
そこに、時雨の低く、優しく、しかし確かな力強さを持ったラップが寄り添うように絡み合っていく。
完璧な女神の孤独を、泥まみれの猟犬が不器用な言葉で包み込む。
ブースの中で涙を流しながら歌い切ったSARAは、ヘッドホンを外すと、憑き物が落ちたように深く、静かに息を吐いた。
数週間後。
何の事前告知もプロモーションもなく、突如として一曲のストリーミング配信が開始された。
名義は『SARA & 時雨』。
メディアが「SARAの時代は終わった」と書き立てていた最中に投下されたその楽曲は、大きな衝撃を持って受け取られた。
そこにあの圧倒的な美声はない。しかし、傷つき、掠れた声で紡がれる等身大の弱さと、それを支える時雨の力強いバースは、完璧だった頃の彼女の曲よりも遥かに深く、多くのリスナーの魂を震わせたのだ。
「泣いた」「こんなSARA、聴いたことない」「人間の弱さと美しさの極致」
SNSは絶賛の嵐となり、楽曲は瞬く間にチャートの1位を奪還。メディアの手のひら返しは言うまでもなかったが、もはやそんなことは二人にとってどうでもよかった。
「……ま、とりあえずこれで、家賃の滞納分はチャラってことでいいか?」
スタジオでチャートの画面を見ながら、時雨が照れ隠しのように肩をすくめる。
隣に座るSARAは、以前のような威圧感のあるメイクではなく、すっぴんに近い穏やかな顔立ちで、ホットミルクの入ったマグカップを両手で包み込んでいた。
「そうね。……悪くないプロデュースだったわよ、生意気なラッパーさん」
彼女は少し掠れた声で、しかし心の底から楽しそうにくすくすと笑った。
絶対女王の重いティアラを脱ぎ捨てたSARAは、以前よりもずっと自由に、そして確かに、時雨という無二の「戦友」と共に新しいステージへと歩み出していた。
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