A terrified dog
重低音が内臓を揺らし、タバコの煙が視界を霞ませる地下のクラブ。
フロアからは「帰れ」「アイドルのガキが」という容赦ない怒号と冷たい視線が、物理的な重さを持ってリンに突き刺さっていた。
リンの体は、先ほどから小刻みに震え続けていた。
マイクを握る手は白く血の気を失い、足は床に縫い付けられたように動かない。顔を上げることもできず、ただ薄汚れた床の木目を見つめることしかできなかった。
テレビカメラの前ではあんなに強気で放つことができた言葉が、今は一つも出てこない。本物のストリートの放つ「殺気」に完全に呑まれ、自分がどれほど場違いな存在であるかを細胞レベルで思い知らされていたのだ。
「……おいおい、地蔵かよ。時間の無駄だ、引っ込め!」
客の一人が空き缶をステージに投げ入れた、その時だった。
「——下向いて震えるだけのチワワ、随分と大人しいじゃねえか」
リンの横から、時雨が別のマイクを握って不意にビートに乗り込んだ。
その声は冷酷で、鋭い刃のようにリンの鼓膜を切り裂く。
『テレビじゃ立派に吠えてたよな? お偉いさんに噛み付く反逆者のフリ
蓋を開ければ台本なきゃ何も言えねえ、プラスチックの偽物
ここはお前の泣き部屋じゃねえ、痛えならママの胸に帰ってミルクでも飲んでな!』
フロアの空気が一気に沸点に達する。時雨の容赦ないフリースタイルのディスが、リンの安いプライドをズタズタに引き裂いていく。
「……っ!!」
恐怖で固まっていたリンの胸の奥で、何かが弾けた。
悲しみでも後悔でもない。圧倒的なまでの「悔しさ」と「怒り」だ。
リンは弾かれたように顔を上げ、血走った目で横に立つ時雨を睨みつけた。そして、ビートの隙間に無理やり自分の声をねじ込んだ。
『偽物はそっちだろ!!
高層マンションでふんぞり返って、丸くなったくせに説教してんじゃねえ!
私はフェイクじゃない、泥水すすってでもテメエの首元に噛み付く野良犬だ!!』
技術もクソもない、ただの怒声に近い魂の叫び。しかし、その言葉には確かにストリートの空気を切り裂く熱量があった。フロアの客たちが「おおっ?」とどよめく。
リンがさらに言葉を続けようと大きく息を吸い込んだ、次の瞬間。
時雨はスッとマイクを下ろし、面白そうにニヤリと笑った。
「……へえ。じゃ、俺の負けってことで。後はよろしく。」
「……え?」
ポカンとするリンを置き去りにして、時雨は本当にステージを降り、そのままクラブの出口へ向かって歩き出してしまった。
「ちょ、ちょっと時雨さん!?」
叫ぶリンをよそに、無情にも次の対戦相手である地元のイカついラッパーがステージに上がってくる。逃げ場は、完全に絶たれた。
そこからの記憶は、リンにはほとんどない。
必死に言葉を絞り出し、ビートにしがみつき、ヤジに対して不器用なライムで噛み付き返した。頭の中は真っ白で、何度も言葉に詰まりながらも、とにかくマイクだけは離さなかった。
「……っ、はぁ、はぁ……」
なんとか自分の出番を終え、よろけるようにフロアの隅へ降りたリン。
観客からの反応は、決して熱狂的なものではなかった。しかし、登壇時の敵意に満ちた空気は消え、数人から「ま、根性だけはあるな」という労いのような、まばらな拍手が送られていた。
カウンター席にへたり込んだリンの前に、無言で冷たいコーラのグラスが置かれた。
顔を上げると、白髪交じりのいかついクラブのマスターが、グラスを拭きながら呆れたように笑っていた。
「お疲れさん。ま、初めてあの空気に放り込まれたにしては、よく逃げなかったな」
「……すみません、お邪魔しました……」
「気にしてねえよ。あいつ(時雨)の差し金だろ? 全く、相変わらず無茶苦茶なヤツだ」
マスターはタバコに火をつけると、ふと遠くを見るような目をした。
「落ち込むこたぁない。あいつも最初の頃ここでマイク握った時なんて、ひでーもんだったぜ。 ビビりすぎて声は出ねえし、客にディスられて途中で泣きながら吐いたからな。それに比べりゃ、お前さんの方がよっぽどマシだった」
「……時雨さんが、泣いて吐いた?」
絶対的な王者として君臨する時雨の、想像もつかない過去。リンは目を丸くした。
「ああ。誰もが最初はダサくて無様なんだよ。そこから逃げずにマイクを握り続けたヤツだけが、本物になる。……あいつはお前に、それを教えたかったんじゃねえの」
コーラを一口飲んだリンの目から、ようやく大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは先ほどの恐怖の涙ではない。自分がどれだけ甘えていたか、そして時雨が自分を「ヒップホップ」と向き合わせてくれたのかを理解した、感謝と決意の涙だった。
その頃。
後輩を過酷なストリートの洗礼に突き落とした「鬼の師匠」時雨は、深夜の六畳一間……ではなく、超高級マンションの暖かなリビングにいた。
「よしよし、ミルクの温度完璧だぞ。ほーら、パパでちゅよー」
首にはパステルカラーのタオルを巻き、腰にはピンクのエプロン。
ステージ上の凶暴なオーラはどこへやら、時雨はふにゃふにゃにだらしない笑顔を浮かべながら、哺乳瓶を片手にベビーベッドの我が子をあやしていた。
「シグれん、リンちゃんの方はよかったの?」
ソファでハーブティーを飲みながら、妻の未蘭がクスクスと笑いながら尋ねる。
「ああ、ま、一回へし折られた方がいいだろ。それに……俺は今、未蘭の足のマッサージとミルク作りで忙しいからな」
「あはは! さすが大物プロデューサー、切り替えが早いね」
時雨は哺乳瓶をそっと赤ちゃんの口に運びながら、幸せそうに目を細めた。
外の世界でどれだけバチバチのビーフを繰り広げようが、誰かの人生を変えるような大立ち回りを演じようが、今の彼にとっての「最大のミッション」は、このささやかで絶対的な居場所を死守することだ。
「よし、ゲップも出た。未蘭、次はおむつ替えるからおむつ取ってくれ」
「はーい、イクメンラッパーさん」
マイクを握る手と同じくらい真剣な手つきで、オムツをかえる時雨。
彼の中で、ストリートの冷たい風と、家族の温かい光は、矛盾のないミクスチャーとなっていた。




