A rapper at a loss for words
タクシーを飛び降り、病院の廊下を全力で走る。息を切らして分娩室の扉を開けると、そこには脂汗をびっしりと浮かべ、荒い息を吐きながら極限の痛みに耐える未蘭の姿があった。
「未蘭……!」
時雨はベッドの傍らに崩れ落ちるようにひざまずき、シーツを握りしめる彼女の小さな手を、祈るように両手で強く包み込んだ。
苦痛に顔を歪めていた未蘭は、時雨の顔を見ると、ひゅっと息を吸い込み、汗まみれの顔で無理に笑顔を作ってみせた。
「……なんで、来たの⁈ 大事なミーティングだったんでしょ……! これから子供も増えるんだから、しっかり稼いでもらわないと、困るのに……っ」
陣痛の波に襲われながらも、未蘭はいつもの調子で気丈に怒ってみせる。しかし、その声は微かに震えていた。
そして、苦しげな息継ぎの後、彼女は時雨の手を強く握り返した。
「……でも、来てくれて、ありがとう」
その一言と温もりが、時雨の胸を激しく締め付けた。
言葉を紡ぐこと。ビートに乗せて感情を吐き出すこと。それが時雨の仕事であり、生き様であり、社会を生き抜くための唯一の武器だった。どんな過酷な状況でも、どんな複雑な感情でも、彼は的確なライムを見つけ出し、世界に叩きつけてきた。
しかし今、彼には言葉が一つも見つからなかった。
「言葉を発する」という行為のプロフェッショナルであるはずの彼が、未蘭の震える手と命がけの笑顔を前にして、喉の奥が熱く詰まり、気の利いたパンチラインはおろか、ただの「頑張れ」という言葉すら音にならなかった。
「はい、大きく息吸ってー! いきんで!」
助産師の鋭い声が響く。時雨はただ、無言のまま未蘭の手に自分の額を押し当て、心の中で必死に祈り続けることしかできなかった。
やがて——。
『オギャア! オギャアッ!!』
分娩室に、生命力に満ちた元気な産声が響き渡った。
その瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩み、温かな光のようなものが部屋を優しく満たした。
「おめでとうございます。元気な赤ちゃんですよ」
血と羊水にまみれた、小さく、赤く、けれど信じられないほど力強い命。
その姿を見た瞬間、時雨の目から、勝手に涙が溢れ出した。拭っても、拭っても止まらない。ラッパーとしてのクールな振る舞いも、トップスターとしてのプライドもすべて消え失せ、ただの「父親」として、彼は顔をくしゃくしゃにして声を上げて泣いた。
疲労困憊の未蘭が、涙ぐみながら優しく微笑んで、時雨の頭を撫でてくれた。
俺の家族が、増えた。
路地裏で我王たちに怯え、一人震えていた野良犬は、ついに、絶対に守り抜くべき確かな「未来」を手に入れたのだ。
その後も、時雨は日本のヒップホップシーンの頂点に君臨し続けた。
理不尽な社会への怒り。大金を手にした狂騒。実母との確執。最愛の妻への深い愛情と感謝。ありとあらゆる体験や思考を赤裸々なリリックに刻み、名盤を生み出し続けていく。
彼の人生のすべては、ビートの上で「言葉」へと変換され、何百万人ものリスナーの心を震わせた。
ただ一つ、例外を除いて。
あの分娩室の匂い。強く握り返された手の熱さ。言葉を完全に失った瞬間、自分には何もできないという途方もない無力感。そして、初めて耳にした産声の圧倒的な響き。
あの日の体験だけは、どれほど言葉を尽くしても、どれほど極上のトラックを用意しても、決して一つの「ラップ」に収めることができなかった。
言葉にしようとするたび、あの瞬間の神聖な重みが、チープなエンターテインメントに成り下がってしまう、そんな気がした。
どんな出来事も音楽に変えてきたラッパーが、生涯で唯一、音楽にできなかった日。
それは時雨にとって敗北などではなく、音楽という枠組みすらも超越した、彼の人生において最も不可侵で、最も尊い「奇跡」の証だった。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




