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ファースト・アルバムのヒットを皮切りに、時雨を取り巻く世界はさらに加速度を増して回転し始めた。
ビジネスパートナーであるSARAの絶大な権力とコネクション、そして何より時雨自身の実力が掛け合わさり、彼のスケジュールは文字通り分刻みで埋め尽くされていった。
今の彼が行っているのは、単なる「曲作り」の枠を遥かに超えた、ヒップホップ・アーティストとしての巨大なビジネス展開だった。
アルバムの看板を背負った全国ツアーが即完売する一方で、国内最大級の音楽フェスやヒップホップ特有の野外フェスにもメインアクトとして抜擢。数万人のオーディエンスを前に新規ファンを獲得していった。
さらにはアリーナクラスのステージに立つ一方で、時雨は決してストリートを見捨てなかった。週末の深夜には各地のクラブイベントにシークレットゲストとして現れ、数曲をキックして現場のヘッズたちを熱狂させた。
アルバムの熱を長続きさせるため、人気曲のミュージックビデオを数ヶ月かけて時間差でドロップ。同時に一発録りのパフォーマンス番組や、ヒップホップ系YouTubeメディアのフリースタイル企画に出演し、常にタイムラインの話題を独占した。TikTokでは彼のリリックを使ったダンスチャレンジが自然発生し、バイラルヒットを記録。
自身の活動が少し落ち着くと客演のオファーが殺到した。他アーティストの楽曲にバースを提供し、ファン層を共有。さらに、自身のアルバムのヒット曲に新たな大物ラッパーを迎えた「Remix版」をゲリラ配信し、楽曲の寿命を引き延ばした。
そして、以前、時雨がSARAに妻の美蘭を紹介した時、二人は意気投合し、私的にも友人関係となった。
ひたすら明るい美蘭(ビジネス上手)と神秘的で人を食ったような余裕のあるSARA(ビジネス上手)が互いに妙にハマったのか親友といってもいいような関係になった。
その後は毎日のようにLINEし合ってたり、オシャレカフェでダベってたしてたと思ってたら、いつのまにか二人で時雨のファッションレーベルを立ち上げた。時雨の泥臭くも洗練されたスタイル(美蘭のセンス)は、若者たちのライフスタイルそのものに影響を与え始めていた。ツアーのマーチャンダイズ(グッズ)は飛ぶように売れ、ストリーミング再生を凌駕する巨大な収入源に。都内にオープンした期間限定のポップアップストアには、彼のアパレルを求めて長蛇の列ができた。
ある日の午後。
ポップアップストアのVIPルームで、次回のコラボアパレルのサンプルをチェックしていた時雨は、ふと向かいのソファでスマホをいじっているSARAに視線を向けた。
彼女のコネがなければ、ここまでの異常なスピードで物事が進むことはなかった。敏腕弁護士の手配から、フェスのブッキング、アパレルブランドとの橋渡しまで、SARAはまるで自分のことのように時雨の裏方をサポートしてくれていた。
「……なあ、SARA」
「ん?」
「なんで、そこまで俺によくしてくれるんだ?」
純粋な疑問だった。ビジネスとしてのうま味があるとはいえ、彼女ほどのトップアーティストが、一人のラッパーにここまで心血を注ぐ義理はないはずだ。
SARAはスマホから目を離し、時雨をじっと見つめた。
その美しい顔から、いつものプロデューサーとしての冷徹な仮面や、人を食ったような余裕のある笑みがフッと消える。
「……あんたのことが、好きだからに決まってるじゃん」
時雨の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「……は?」
冗談だと思った。しかし、SARAの瞳はこれ以上ないほどに真剣で、真っ直ぐに時雨を射抜いていた。
「音楽の才能だけじゃない。アンタのその泥臭いところも、バカみたいに一途なところも、全部よ」
時雨は完全に狼狽した。言葉が出ない。
自分には未蘭がいる。もうすぐ子供も生まれる。SARAもそれは重々承知のはずだ。それなのに、なぜ今、そんなことを言うのか。
動揺して目を泳がせる時雨を見て、SARAはふっと息を吐き、いつもの「傲慢な女王」の顔に戻って意地悪く笑った。
「なーんてね。アンタ、本当に分かりやすい顔するわね。ま、気にしないで。私が勝手にアンタの才能に惚れ込んで、勝手にやってることなんだから。アンタは今まで通り、最高のラップだけしてればいいのよ」
SARAの言葉に、時雨はどうにか「……悪趣味だぞ」と返すのが精一杯だった。
その直後だった。
テーブルの上に置いてあった時雨のスマホが、けたたましく鳴り響いた。
画面に表示されたのは、産院からの着信。
「……ッ!!」
電話に出た時雨の顔色が一瞬で変わる。
未蘭が、産気づいたのだ。
「悪い、SARA! 未蘭が……陣痛が始まったって!」
「えっ、ちょっと……」
時雨は、テーブルに広げてあったアパレルのサンプルも、これからの分刻みのスケジュールも、すべてを放り出した。
「あとの予定、全部キャンセルしてくれ! 違約金ならいくらでも払う! じゃあな!!」
ジャケットを引っ掴み、弾かれたように部屋を飛び出していく時雨。
その後ろ姿には、ヒップホップシーンを牽引するカリスマラッパーの面影など微塵もなかった。ただただ、愛する妻とこれから生まれてくる我が子の元へ急ぐ、必死で不器用な一人の男の背中だった。
バタン、と乱暴にドアが閉まる音がVIPルームに響き渡る。
後に残されたのは、静寂と、冷めかけたコーヒーだけ。
SARAは、時雨が消えたドアをしばらく見つめていた。
先ほどの「冗談」を装った、不器用な本音の告白。彼が少しでも揺らいでくれたら、というほんの僅かな期待。しかし、産院からの電話一本で、時雨はためらうことなく全てを捨てて駆け出していった。
「……ほんと、バカみたい」
SARAは自嘲するようにポツリと呟き、ソファに深く背中を預けた。
彼女は、すべてを手に入れてきた。名声も、富も、権力も。欲しいものはなんだって手に入ると思っていた。
だが、あの男の心の中には——
「入り込む隙間なんて……1ミリもないじゃない」
SARAの形の良い唇からこぼれたのは、誰にも見せたことのない、酷く寂しそうな、けれどどこか清々しい諦めを含んだ苦笑いだった。
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