Slump
SARAの提案で移り住んだ超高級マンションは、まさに「要塞」だった。
エントランスには厳重なコンシェルジュと警備員が常駐し、エレベーターは専用のキーキーパーがなければ居住階のボタンすら押せない。週刊誌のカメラマンも、ネットの匿名アンチたちも、この分厚い壁とセキュリティシステムの前では無力だった。
「シグれん、このキッチンすごいよ! オーブンが喋った!」
広々としたリビングで、ふっくらとし始めたお腹をさすりながら、未蘭がはしゃいでいる。彼女の笑顔にはもう、得体の知れない悪意に怯える陰りは微塵もなかった。
さらに、マンションの下層階にはSARAが所有する完全防音のプライベートスタジオが併設されていた。いつでも好きな時に、最高級の機材で音作りができる。
愛する家族の安全は確保され、音楽に没頭できる完璧な環境が整った。これ以上ないほどの理想的な状況。時雨の音楽活動は、ここからさらに爆発的な進化を遂げる——はずだった。
しかし、時雨はかつてないほどの深いスランプに陥っていた。
ノートを開き、ビートを流しても、言葉が一つも出てこないのだ。
いや、言葉は出る。だが、それはあまりにも軽く、嘘くさかった。
(……俺は今、世界で一番幸せだ)
それが時雨を苦しめる最大の要因だった。
彼のラップの原動力は、理不尽な社会への怒り、底辺を這いずるような絶望感、そして己の不遇に対するルサンチマンだった。路地裏の泥水をすすりながら空を見上げるような、ヒリヒリとした「リアル」が彼の武器だったはずだ。
だが今、高級マンションのふかふかのソファに座り、未蘭の淹れてくれた温かいハーブティーを飲みながら、どうして「不幸」や「ストリートの過酷さ」を歌えるというのか?
幸せの絶頂にいる自分が、過去の痛みを引っ張り出して歌うことは、リスナーに対する「嘘」になるのではないか?
「リアル」というヒップホップ最大の呪縛が、時雨の首を真綿のように締め付けていた。
「……ってわけで、俺は今、絶賛迷走中なんだよ」
ある夜。時雨は、かつて地下のクラブで共にマイクを握り、泥水をすすってきた盟友のラッパー、ジードックを安居酒屋に呼び出し、頭を抱えていた。
ジードックは強面で、全身にタトゥーが入り、彼の楽曲といえば「ハッパと酒」「女と金」「警察との鬼ごっこ」が定番の、ゴリゴリのギャングスタ・スタイルだ。彼なら、この「リアルと現状のギャップ」という悩みを分かってくれるはずだ。
時雨の深刻な相談を黙って聞いていたジードックは、ウーロン茶をズズッとすすると、あっけらかんと言い放った。
「お前、真面目かよ」
「は?」
「いやさ。俺だって曲の中じゃ『ハッパ吸ってハイになって、ビッチと毎晩パーティー』とか歌ってるけどさ」
ジードックはポリポリと頭を掻いた。
「俺、もう酒もタバコもハッパも全部やめてるし。」
「……え?」
「なんなら、籍は入れてないけどカミさんいるし。 毎晩パーティーどころか、最近はカミさんと一緒にNetflix見て22時には寝てるわ。ウーロン茶うめえ」
ポカンとする時雨をよそに、ジードックは笑う。
「本当のことっつってもさ、昔の体験とか、周りのヤツから聞いたハードな話をくっつけて『俺のストーリー』としてエンタメにしてるだけだぜ? 過去の痛みを曲にするのは嘘じゃねえだろ。別にいんじゃね? 幸せなヤツが暗い曲書いたってさ」
あまりにも軽いカミングアウトに、時雨は持っていたジョッキを落としそうになった。
「ジードックの言う通りじゃない?」
翌日。マンションのスタジオで、SARAはあっさりと時雨の悩みを一蹴した。
相変わらず薄化粧で機材の前に座る彼女は、呆れたように時雨を見る。
「あたしだって、昔はいじめられてた時期もあったし、死にたいくらい辛いこともあったわよ。でも、今は大成功して、最高に幸せ。じゃあ、今のあたしが失恋の曲や、孤独を歌うバラードを歌っちゃいけないわけ?」
「それは……」
「あのね、時雨」
SARAはキャスター付きの椅子をクルリと回し、時雨を真っ直ぐに見据えた。
「『リアル』って、今の生活のドキュメンタリーを垂れ流すことじゃないわ。 アンタの魂に刻み込まれた傷や、這い上がってきた記憶……その『感情の熱量』をパッケージして届けるのが、私たちの仕事でしょ? なんで暗い話題をラップしちゃいけないの? 幸せになった途端に過去を封印する方が、よっぽど嘘くさいわ」
ジードックの飾らない言葉と、SARAのアーティストとしての圧倒的な自負。
二人の言葉が、時雨の中でカチリと噛み合った。
(……俺は、何を勘違いしていたんだ)
ヒップホップはリアルでなければならない。
それは事実だ。だが、「リアル」とは今この瞬間の預金残高や、住んでいるマンションの階数のことではない。
泥水をすすったあの頃の痛み。ガオーたちに怯えた夜。社会への怒り。それらは全て、時雨の血肉となり、確かに自分の中に存在している。そして、未蘭とお腹の子供を守り抜くという、今の強烈なまでの愛情もまた、紛れもない「リアル」なのだ。
過去の暗闇を否定する必要はない。
その暗闇があったからこそ、今の光がこれほどまでに眩しいのだから。
「……SARA」
「なに?」
「ちょっと、ブース入らせてくれ」
時雨の目から、迷いが消えていた。
ペンを握る手に、再び熱がこもる。
彼が書き殴ったリリックは、かつての絶望を刃のように研ぎ澄ましながらも、その先に待つ愛しい未来への希望を力強く歌い上げる、過去と現在を繋ぐ壮大なストーリーだった。
幸せであることを恐れない。
不幸だった過去を武器にする。
時雨はマイクの前に立ち、深く息を吸い込んだ。新しいビートに乗せて、今の彼にしか吐けない、真実の言葉がスタジオに響き渡り始めた。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




