言波 シグレ
竜牙との因縁のバトルから数日。時雨の学校生活は、少しだけ平穏を取り戻したかに見えた。
しかし、言葉という「武器」を手に入れた彼に、新たなトラブル——いや、未知との遭遇が待ち受けていた。
「ねえねえ、シグれん! あん時のラップ、マジでヤバかったんだけど!」
教室の静寂を破る、甘ったるくも鼓膜に突き刺さる高い声。
声の主は、星野 未蘭。金髪に派手なメイク、短く着崩した制服。カーストの頂点に君臨する、学年で最も目立つギャルの一人だった。彼女はあの日、偶然にも『ROOTS』に遊びに来ており、時雨のバトルを最前列で見ていたのだ。
「……シグれん?」
時雨はライトノベル『僕の妹がこんなにヤんでるはずがない』から目を離さず、あからさまに目を逸らした。
(怖い。声が大きい。香水の匂いがキツい。関わりたくない)
これまで異性と、ましてやカースト上位のギャルとまともに会話したことなどない時雨にとって、未蘭は竜牙とは別の意味で「恐怖の対象」だった。
「無視すんなし! オタクがギャップ萌えって感じで、あたし的に超アガったの! ねぇ、またやんないの?」
「……僕には、関わらないでください」
「えー、なんでよ! ウケる!」
無視を決め込んでも、未蘭は不服そうに頬を膨らませながら、休み時間になるたびに時雨の周りをうろつくようになった。平穏だった読書タイムは、彼女のペースに完全に乱されていた。
そんなある日の放課後。時雨のスマホに、見知らぬ番号から着信があった。
電話の主は、ライブハウス『ROOTS』のオーナー、マスターだった。
「お前、今週末時間あるか? ちょっと店に来い」
指定された時間に行くと、タバコを吹かすマスターから一枚のフライヤーを渡された。
そこには、アンダーグラウンドから這い上がり、今や全国区で活躍する有名ラッパー『Z-DOG』の凱旋ライブの告知が書かれていた。
「このライブのフロントアクト(前座)……お前、やってみないか?」
「……僕が、ですか?」
時雨は目を丸くした。
「ああ。持ち時間は20分だ。バトルの時の熱量、悪くなかったぜ。ただの悪口の言い合いじゃなく、お前には『言葉』があった。だから客を呼べるかもしれねえと思ってな」
時雨の心臓が早鐘を打った。
バトルは相手の言葉への「カウンター」だ。怒りや理不尽に対する自己防衛だったからこそ、言葉が泉のように湧き出た。しかし、20分のライブとなれば話は違う。自分からテーマを決め、曲を作り、観客に向かって「発信」しなければならない。
「無理です……僕には、誰かに伝えたいメッセージなんてありません。ただ、ライトノベルを読んでいただけの人間ですから」
時雨が俯き、断りの言葉を口にしようとしたその時だった。
「えー、もったいない! 出てみなよ!」
背後から、聞き慣れた高い声が響いた。
振り返ると、スマホをいじりながら店に入ってきた未蘭が立っていた。彼女はマスターとも顔なじみらしく、勝手にカウンター席に座り込んだ。
「星野さん……なんでここに」
「あたし、ここの常連だし。それよりシグれん、せっかくのチャンスじゃん。Z-DOGのライブとか、超プラチナチケットだし!」
「だから、僕には曲を作るなんて——」
時雨が反論しようとすると、未蘭はあっけけらかんと言い放った。
「出てみなよ。楽しいかもよ?」
——楽しいかもよ?
その言葉は、時雨の胸の奥に奇妙な波紋を広げた。
時雨のこれまでの人生に、「楽しい」という感情はほとんど存在しなかった。息を潜め、いじめに耐え、ただ本の中に逃げ込むだけの日々。ラップバトルで竜牙を倒した時も、感じたのは「解放感」や「自己肯定感」であって、「楽しさ」ではなかった。
(僕が、言葉を紡いで……楽しむ?)
それは、時雨にとって全く新しい視点だった。
辞書に載っている「楽しい」という文字の定義ではなく、自分自身の感情としての「楽しい」を見つけてみたい。そう思ってしまったのだ。
しばらく沈黙が続く。
「……マスター。やらせてください」
時雨は顔を上げ、しっかりとマスターの目を見て言った。
未蘭が「よっしゃ!」となぜかにガッツポーズをした。関係ないのに。
オファーを受けたはいいものの、そこからが地獄の始まりだった。
持ち時間は20分。最低でも4曲は必要になる。マスターから渡されたいくつものビート音源を聴きながら、時雨は深夜の自室でノートとペンに向かい合った。
「何を、書けばいいんだ……?」
最初の数日は、ひたすらに難しい語彙を並べ立てただけの、中身のないリリックしか書けなかった。
「形而上学」「アイデンティティの喪失」「カタルシス」。言葉は美しいが、体温がない。これではただの辞書の朗読だ。
『お前には「言葉」があった』
マスターの言葉が蘇る。
僕の言葉とはなんだ?
なぜ僕は、息苦しい現実から逃げて、ライトノベルばかり読んでいたのか。
僕が本当に恐れているものは? 欲しかったものは?
時雨は、自分を覆っていた分厚い装甲を一枚ずつ剥がしていく作業を強いられた。
いじめられていた時の惨めな記憶。
誰にも理解されない孤独。
それでも、言葉の力だけは信じたかったという祈り。
ノートのページが、書き殴られた文字と黒い斜線で真っ黒に染まっていく。
「違う……こんな薄っぺらい感情じゃない……!」
自分自身と真正面から対峙することは、刃物で自分の内側を切り裂くような痛みを伴った。
しかし、その傷口から流れ出る「本当の言葉」をビートに乗せた時、時雨は初めて、言葉が自分自身の輪郭を形作っていくような、奇妙な高揚感を感じていた。
(これが……楽しい、ということなのか?)
窓の外が白み始める中、時雨のペンは止まることなく、ノートに新たなルビを打ち込み続けていた。本番まで、あと二週間。
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