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Fu◯k up my tongue, or just kill me."  作者: 虹の箸


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第17話 Rags-to-riches

要塞のようなスタジオの重厚な扉を開けると、そこは別世界だった。

見上げるほど巨大なミキシングコンソール、壁一面の機材、そして数名のエンジニアたちが慌ただしく動く中、防音ガラスの向こうのブースにSARAの姿があった。

時雨は無意識に身構えた。またあの時のような、面白半分の挑発を受けるのではないか。

しかし、ブースから出てきたSARAの纏う空気は、先日のそれとは完全に異なっていた。

「来たね。ビートの確認、終わってる?」

メイクは薄く、髪は無造作にまとめられている。甘い香水の匂いはなく、代わりにコーヒーと極度の集中力が生み出す、張り詰めたような緊張感が漂っていた。

「ええ。リリックも書き上げてきました」

「見せて」

SARAは時雨のノートを受け取ると、一言も発さずに文字の羅列を追う。その横顔は、国民的歌姫や手の届かないアイコンなどではなく、純粋に音と向き合う一人の職人のそれだった。

「ま、いんじゃない、とりあえずレコーディングしてみなきゃわかんないしね」SARAは時雨にノートを返す。


レコーディングが始まると、時雨の彼女に対する認識はさらに覆ることになる。

『ストップ。今のフレーズ、ブレスのタイミングが0.1秒遅い。もう一回』

『サビの入り、もう少しエッジを効かせたい。EQいじって』

少しでも自分の思い描くグルーヴと違えば、何度でもテイクを重ねる。妥協という文字が彼女の辞書にはないかのようだった。メインストリームの頂点に君臨する理由は、単なる美貌や話題性ではない。この狂気的なまでの音楽への執念と、それを形にする圧倒的な実力センスだ。

(……なるほど。ただの作り物の人形じゃないってことか)

時雨の中で、彼女に対する警戒心が解けていくのを感じた。相手が本気で音楽の深淵を覗こうとしているのなら、自分も持てる全てをビートに叩きつけるだけだ。

「僕のバース、録らせてください」

マイクの前に立った時雨は、深く息を吸い込んだ。

SARAの透明感のある圧倒的なボーカルラインに対して、時雨が乗せるのは路地裏の泥水のような、ザラついたリアルなフロウ。

光と影。天上と地下。

絶対に交わるはずのなかった二つの才能が、ビートの上で激しく衝突し、そして奇跡的な化学反応を起こして融合していく。

時雨が最後のライムを吐き出し、余韻がスタジオに響き渡って消えた瞬間。

コントロールルームのエンジニアたちが、言葉を失ったように固まっていた。

「……最高」

ヘッドホンを外したSARAが、マイク越しにポツリと呟いた。その顔には、先日のような妖艶な笑みではなく、会心のトラックを生み出したクリエイターとしての純粋な喜びが浮かんでいた。

長時間に及ぶセッションを終え、帰り支度をする時雨に、SARAが歩み寄ってきた。

「お疲れ様。……正直、驚いた。アンタのラップ、私の想像を遥かに超えてた」

「あなたの方こそ。その音楽への執念はリスペクトします」

時雨の素直な言葉に、SARAは少しだけ目を丸くした後、今度は本当に嬉しそうに笑った。

「あのさ。この曲、間違いなく歴史的なバズり方をするわ。今までの私の曲とは次元が違う」

「……」

「来月あたりから、テレビの音楽番組やメディアからのオファーが殺到するはずよ。その時は、よろしくね。絶対にアンタにも出てもらうから」

その言葉の重みに、時雨は小さく頷くことしかできなかった。

数時間後。

時雨は、六畳一間のボロアパートに帰還していた。

換気扇の下で、未蘭が鼻歌を歌いながら豚キムチを炒めている。ごま油とニンニクの、どこか安心する安っぽい匂いが部屋に充満していた。

「あ、おかえりシグれん! レコーディングどうだった? あの女狐に食われなかった?」

「……まあ、なんとか」

時雨はリュックを床に置き、自分の両手を見つめた。

数時間前まで、日本の音楽シーンのトップ層と一緒に、何億円もする機材に囲まれて歴史的な曲を作っていた。そしてSARAの言葉が本当なら、近い将来、自分はテレビの画面の中でマイクを握ることになるのだろう。

しかし、自分自身は何も変わっていない。

ガオーたちに怯えていたオタクの自分。底辺を這いつくばってきた自分。そして、未蘭の作る食事を世界で一番美味いと思っている自分。

中身は1ミリも変わっていないのに、周りの景色だけが、まるで早送り動画のように劇的に、そして暴力的なスピードで変化していく。

「どうしたの? ぼーっとして。豚キムチ焦げるよ?」

「いや……」

時雨は、フライパンを振る未蘭の背中を見つめながら、これから押し寄せるであろう巨大な波の予感に、静かな戸惑いと眩暈を覚えていた。


お読みいただきありがとうございました。

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