第16話 Trap or opportunity?
「……あたしとも、ヤろうよ」
国民的歌姫からの、あまりにも直接的で挑発的な囁き。
普通の男なら舞い上がって狼狽するところだろう。しかし、時雨の表情は文字通り「1ミリも」動かなかった。フード奥の瞳は、まるで路傍の石でも見るかのように冷え切っている。
「……仕事の話なら、うちのマネージャーを通してほしい」
時雨はSARAの細い指を無造作に払い除けると、一歩後ろへ下がった。
愛想笑いすら浮かべないその徹底した塩対応に、SARAは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに「ふふっ」と楽しげな笑声を漏らした。
「OK、シグレくん。それじゃあ、そういうことで」
Z-DOGが「お前、SARAちゃんに向かってすげえ態度だな!」とゲラゲラ笑いながら背中を叩いてきた。
「よし、最高の曲も録れたし、これから六本木でパーッと打ち上げ行くぞ! SARAちゃんもどう?」
「僕は遠慮しておきます」
「はあ!? なんでだよ、これからが本番だろうが!」
「……家で、妻がメシを作って待っているので。お疲れ様でした」
時雨は機材を素早くリュックに詰め込むと、変わらないなお前とニヤニヤするZ-DOGと、面白そうに目を細めるSARAを残して、そそくさとスタジオを後にした。
スタジオを出て、最寄り駅へと向かう夜道。
春の夜風を浴びながら、時雨は頭の中で次のリリックの構想を練っていた。一瞬Saraのことが脳裏に浮かんだ。メインストリームの頂点にいる人間の放つオーラは確かに凄まじかった。ただそれだけで、時雨の心を動かすものではなかった。すぐにSaraのことは忘れた。
早く帰って、未蘭の作った飯が食いたい。ただそれだけだった。
その時、時雨の歩く歩道に並走するように、漆黒の高級車が音もなく滑り寄ってきた。
スモークのかかった後部座席の窓がウィーンと下がり、中からサングラスを外したSARAが顔を覗かせる。
「ねえ、駅まで送ってあげる。乗っていきなよ」
手招きをするSARA。その車内からは、スタジオで嗅いだのと同じ甘い香水と、高級なレザーの匂いが漂ってくる。
しかし時雨は、歩みすら止めなかった。
完全にシカト。チラリと視線を向けただけで、そのまま前を向いてスタスタと歩き続ける。
「……ほんっと、つれない男。まあいいや」
自分の誘いを二度も完全に無視されたというのに、SARAの顔に怒りはなく、むしろ最高のおもちゃを見つけた子供のような、ゾクゾクするような苦笑いが浮かんでいた。
「またね、シグレくん」
高級車は静かに加速し、夜の街へと消えた。
それから数日後。時雨の六畳一間のアパート。
ノートパソコンの画面を睨んでいた未蘭が、「うっわ……」と小さく声を漏らした。
「シグれん、ちょっとこれ見て。ヤバいメール来てる」
時雨が覗き込むと、それはSARAが所属する大手メジャーレーベルからの、正式なフィーチャリングのオファーだった。
提示されたギャランティは、インディーズで活動する時雨にとっては見たこともないような桁違いの金額。そして何より、SARAという国民的アイコンとのコラボは、時雨の名を日本の音楽シーンのど真ん中に知らしめる強烈な起爆剤になる。
「……断ろう」
時雨は即座に言った。
「は!? なんで!?」
「スタジオで会った時、彼女の目は完全に面白半分だった。音楽に対するリスペクトというより、僕を自分のコレクションに加えたいような……厄介な匂いがする。それに……」
時雨は言葉を切り、未蘭を真っ直ぐに見つめた。
「君に、余計な心配をかけたくない」
時雨なりの、最大限の配慮だった。SARAの妖艶な魅力を知っているからこそ、自分の妻を不安にさせるような火種は最初から消しておきたかったのだ。
しかし、未蘭は一瞬キョトンとした後、お腹を抱えてケラケラと笑い出した。
「もー、シグれんバカじゃないの? あたしがそんなことで嫉妬してピーピー騒ぐような、安い女に見えるわけ?」
「……いや、そういうわけじゃ」
未蘭はパンッ、と両手で時雨の頬を挟み込んだ。
「いい? 相手が国民的歌姫だろうが絶世の美女だろうが、あんたの心臓があたしのモンだってことくらい、あたしが一番よく分かってんの! 心配なんて1ミリもしてない!」
未蘭の瞳には、揺るぎない絶対的な信頼と、マネージャーとしての鋭い野心が燃えていた。
「これはビジネス。シグレっていうラッパーを、さらに上のステージに引き上げるための最強のカードだよ。私情でこんなデカいチャンス蹴るなんて、マネージャーとして絶対に許さない。受けるべきだよ」
「未蘭……」
「向こうが遊び半分だろうが何だろうが、ビートの上で完全に食い散らかしてきなさい。うちの旦那のラップが日本一だって、あの歌姫の鼓膜に叩き込んでやりな!」
妻であり、最強の戦友。
この女には到底敵わない。時雨は小さく息を吐き、そして深く頷いた。
「……分かった。行ってくる」
数週間後。
未蘭によってスケジュールと契約が調整され、時雨はSARAのレーベルが所有する、都内一等地にある要塞のような巨大レコーディングスタジオの前に立っていた。
重い扉の向こうに、どんな罠とビートが待ち受けているのか。
時雨は愛用のノートを片手に、静かにスタジオの奥へと足を踏み入れた。
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