Beef
ヒップホップの深淵を垣間見たあの日から、時雨の歩みはさらに加速した。
未蘭という絶対的な拠り所を得た彼は、言葉に「守るべきもの」の強さを宿し、瞬く間にシーンの階段を駆け上がっていった。やがて、地方のクラブイベントでは、時雨がヘッドライナー(主役)を務めることも珍しくなくなり、かつて彼の才能を見出し、フロントアクトとして引き上げた「地元の王」こと『Z-DOG』と、対バンとして肩を並べるまでになっていた。
しかし、二つの巨大な才能が同じ狭い街に存在すれば、摩擦が起きるのは必然だった。
ヘッズたちの間で、ひとつの議論が熱を帯び始めたのだ。
「今のこの街で、誰がナンバーワンのラッパーか?」
長年シーンを牽引してきた天才リリシスト、Z-DOGか。
それとも、圧倒的な語彙力と狂気でシーンを席巻する異端児、シグレか。
周囲の無責任な熱狂は、やがて当事者たちのプライドに火をつけた。
王座を脅かされる形となったZ-DOGは、自身のライブステージ上で時雨のキャリアを痛烈に批判する新曲、すなわち「ディストラック」を電撃的に発表したのだ。
「Yo、勘違いすんなよバズり上がりのフェイク
俺がステージ立たせてやった恩を忘れてテイク?
メガネ外してイケメン? 笑わせるなアイドル気取り
お前のラップはSNSのオモチャ、所詮はネットの塵芥
辞書を引いて言葉並べただけの、頭でっかちのツーリスト 痛みを売りに同情買ってるだけの、安いヒューマニスト
俺が切り拓いてきたこの街の歴史はお前には背負えねえ
王座に座るのは俺だ、ポッと出のオタクにゃ超えられねえ!」
動画サイトにアップされたこの楽曲は、瞬く間にシーンを揺るがした。
Z-DOGの言う通りだ、時雨はただのネットのオモチャだというアンチの声が一気に勢いづく。時雨のアパートで動画を見ていた未蘭は「はぁ!? なにこれ、恩着せがましい!」と激怒したが、時雨自身は静かに画面を見つめていた。
「シグれん、どうするの……?」
「……やるしかない。言葉で売られた喧嘩だ」
翌日、時雨はマスターに相談を持ちかけた。
マスターはニヤリと笑い、こう助言した。
「あいつは確かに天才だが、最近は丸くなってる。王冠を守るのに必死だ。お前はただディスを返すな。あいつの今の『矛盾』、ルックスの変化、過去の言動のほころび……そういうのを全部、お前のインテリ臭い言葉で徹底的に解体してやれ」
時雨の目に、冷たい炎が宿った。
数日後、時雨はZ-DOGに対するアンサートラックをドロップした。
それは、感情的な悪口ではなく、冷徹な分析と緻密なライミングで構成された、純粋で残酷なリリシズムの結晶だった。
「恩着せがましい王様、玉座でふんぞり返る老害
俺がバズって焦ってる? お前のその嫉妬は想定内
昔の武勇伝ばっか、最近じゃすっかり丸くなったそのルックス
ストリート語るくせに、テレビで愛想笑い撒き散らすパラドックス
アイドル気取り? それはお前の今の姿だろ
俺をツーリストと呼ぶなら、お前は過去の栄光にすがる迷子だろ
恩は忘れてねえ、だが王冠のメッキはとうに剥がれてるぜ その古臭い玉座、俺の言葉で今すぐ蹴り壊してやるぜ!」
このアンサートラックの発表により、二人の間の緊張は最高潮に達した。
ネット上ではどちらが勝者かで連日大論争が巻き起こり、地元のクラブは一触即発の空気に包まれた。
ヒップホップにおける「ビーフ(抗争)」は、時として暴力沙汰に発展する。牙王の時のように、実力行使に出る取り巻きが現れてもおかしくなかった。未蘭もそれを恐れ、時雨の身を案じていた。
しかし、この二人の争いは違った。
Z-DOGも、時雨も、互いの取り巻きに「絶対に手を出すな」と厳命していたのだ。
これは、純粋な「言葉」と「技術」のぶつかり合い。暴力で決着をつけることは、ラッパーとしての敗北を意味する。二人は互いを憎みながらも、表現者としての底知れぬリスペクトだけは決して失っていなかった。
ディストラックの応酬から数ヶ月が経った、その年の年末。
県内で最も大きなライブハウスで、Z-DOGのワンマンライブが開催されていた。
フロアは超満員。Z-DOGが圧巻のパフォーマンスで観客を沸かせ、ライブが終盤に差し掛かったその時だった。
突然、会場の照明が全て落ち、DJのビートが切り替わった。
流れ出したのは、時雨がZ-DOGに向けて放ったあの「アンサートラック」のビート。
ざわめく観客。Z-DOGはステージの中央で、不敵な笑みを浮かべてマイクを下ろした。
暗闇の中、ステージの袖からゆっくりと歩み出てくる一つのシルエット。
スポットライトがその人物を照らし出した瞬間、会場が爆発するような悲鳴と歓声に包まれた。
深いフードを被った時雨だった。
時雨はマイクを握り、Z-DOGを真っ直ぐに見据えながら、彼を批判したあのバースをアカペラでキックし始めた。
「恩着せがましい王様……いや、俺に光をくれた先駆者アンタがいたから、俺はこの街で言葉を吐けたんだ」
ディストラックの歌詞を、その場で見事に「リスペクト」へと改変したフリースタイル。
Z-DOGの目が大きく見開かれ、やがて彼はマイクを握り直し、時雨の言葉に呼応するようにステップを踏んだ。
「ポッと出のオタク? 撤回するぜ、お前は本物のモンスター、玉座は譲らねえ、だが隣に並ぶ資格はあるぜ、若きアンサー!」
そのまま、二人はステージの中央で激しく言葉を交わし合う。
それはもうディスではなかった。互いのスキルを高め合い、違いを認め合い、ヒップホップという文化への愛を確かめ合う、極上のセッションだった。
曲の終わり。ビートが鳴り止むと同時に、二人は向かい合い、ガッチリと熱い握手を交わした。
そして、Z-DOGが時雨を引き寄せ、強くハグをした瞬間——ライブハウスの床が抜けるほどの、地鳴りのような大歓声が巻き起こった。
「誰がナンバーワンか、そんなもんどうでもいい!! 今日、この街のヒップホップが最高だってことだけ証明されたぜ!!」
Z-DOGのシャウトに、時雨は深く頷き、静かに微笑んだ。
ステージの袖では、マスターが満足そうに煙草を吹かし、未蘭が大きく手を振っていた。
孤独なオタクだった少年が、言葉の力だけで地元の王と肩を並べ、互いを認め合った夜。時雨の人生は、ここからさらなる大きなステージへと続いていくのだった。
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