gangsta
フェスの熱狂を皮切りに、時雨を取り巻く環境は劇的なスピードで変化していった。
『ROOTS』での定期的なライブを任されるようになると、あっという間に確固たる集客力がついた。噂が噂を呼び、やがて他の都市のクラブからも単独ライブのオファーが舞い込むようになり、地元の第一線で活躍する人気ラッパーたちとのコラボ音源も次々と発表された。
「おいシグレ、ステージに上がる時はその牛乳瓶の底みたいなメガネは外せ。見栄えが悪すぎる」
マスターからの半ば強制的な指示により、ライブ中の時雨は常に素顔を晒すことになった。
文学的でどす黒いリリックを吐き出す狂気的なフロウ。それに加えて、汗に濡れた端正なルックス。この反則的な組み合わせは、本来ヒップホップに全く興味のなかった層——特に若い女性ファン——を大量に引き寄せた。
時雨のYouTubeチャンネルやSNSのフォロワー数は瞬く間に跳ね上がり、気づけば彼は、地方都市のアンダーグラウンドから飛び出した「次世代のヒップホップシーンを担う若手の一人」として、界隈で確かな数字と影響力を持つ存在として認識されるようになっていた。
そして何より、時雨の心を満たしていたのは数字や名声ではなかった。
熱狂のステージを終え、疲れ果てて六畳一間のアパートのドアを開けると、そこには「おかえり、シグれん! 今日もサイッコーだったよ!」と笑って迎えてくれる愛する恋人の姿がある。
温かい手料理。分かち合える言葉。
親に愛されず、教室の隅で息を潜めていたあの頃からは想像もつかない、まさしく人生の「絶頂期」だった。
――しかし、底辺の現実は、そう簡単に彼らを光の当たる場所へ逃してはくれなかった。
ある夜。時雨がライブから帰宅すると、アパートのドアの前に見知らぬ中年男が立っていた。
ひどい酒の匂いと、何日も風呂に入っていないようなツンとした悪臭。虚ろで血走った目。
後ろに隠れる未蘭が「……お父さん」と震える声で呟いた瞬間、時雨はすべてを理解した。
「未蘭、探したぞ……。さあ、一緒に帰るぞ」
「嫌だ! 帰らないって言ったでしょ!」
男は未蘭の言葉など聞いていなかった。無理やり彼女の腕を掴もうとする男の間に、時雨が割って入る。
事情を聞けば、地獄のような話だった。
重度のギャンブル中毒である未蘭の父親は、ついに真っ当な金融機関からは一円も借りられなくなり、裏のヤバい筋から多額の借金をして首が回らなくなっていた。そして、返済の代わりとして、若く器量のある自分の娘を、風俗かそれ以上のヤバい場所へ「商品」として差し出そうとしていたのだ。
「……いくらですか」
時雨は、吐き気を抑えながら低く冷たい声で尋ねた。
「え……?」
「借金の額です。僕が全額肩代わりします。その代わり……二度と未蘭に、僕たちに干渉しないと約束してください」
音楽配信の収益やライブのギャラで、時雨の口座には高校生としては破格の金が入っていた。時雨は迷うことなく、愛する彼女を守るためにその金を使った。
父親は「約束する、もう絶対に来ない」と涙を流して時雨の手にすがりつき、大金を手にして闇の中へと消えていった。
これで、悪夢は終わるはずだった。
しかし、現実は甘くなかった。
『シグレくん、ごめん……あと十万だけ、なんとかならないか?』
『今度こそ最後だから! 次のライブのギャラが入ったらでいいから!』
父親にとって、時雨は「娘を助けるための無尽蔵のATM」に成り下がっていた。
約束などとうに破り捨てられ、金の無心は週に何度も続くようになった。家の前で待ち伏せされ、スマホには昼夜問わず連絡が入る。断れば「娘がどうなってもいいのか」と暗に脅してくる。
終わりの見えない底なし沼に足を引きずり込まれ、時雨は精神的にすり減っていった。未蘭もまた「ごめんね、私のせいで……」と毎日のように泣くようになってしまった。
ある日の『ROOTS』でのリハーサル前。
時雨の異変と、目の下にできた深い隈を見かねたマスターに問い詰められ、時雨はついにすべてを打ち明けた。
「……もう、どうしていいか分かりません。僕の言葉じゃ、あの人は殴れない」
うなだれる時雨の話を最後まで黙って聞いていたマスターは、咥えていたタバコの火をゆっくりと灰皿でもみ消した。
「……お前は、本当に優しいやつだな」
マスターは短くため息をつき、時雨の肩をポンと叩いた。
「だが、ストリートのダニってのは、金で払いのけようとすればするほど群がってくるもんだ。お前のやり方じゃキリがねえ」
「マスター……」
「安心しろ。未蘭のことは、店の身内が巻き込まれたトラブルだ。……任せておけ」
その低い声には、有無を言わさぬ絶対的な凄みがあった。
――それから、嘘のようにピタリと父親からの連絡が途絶えた。
アパートの周辺をうろつくこともなくなり、どれだけ待っても金の無心に来ることはなかった。まるで、この世界から最初から存在しなかったかのように、完全に消え去ったのだ。
数週間後のライブ終わり。
カウンターでグラスを傾けていたマスターに、時雨は恐る恐る尋ねた。
「あの……未蘭の父親の件、マスターが何かしてくれたんですよね? 一体、何をしたんですか……?」
殺して埋めたのではないか。そんな物騒な想像すらよぎる時雨の顔を見て、マスターは喉の奥で「ククッ」と笑い声を漏らした。
そして、残っていたバーボンのグラスを飲み干し、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべてこう言ったのだ。
「俺たちがなんで『ラッパー』と呼ばれる他に……『ギャングスタ』なんて言われるかってことだな」
その言葉の奥にある深い闇と、アンダーグラウンドの本当の恐ろしさに、時雨は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。言葉という武器を持っただけの自分など、まだまだ安全圏で遊んでいる子供に過ぎないのだと、ヒップホップの底知れぬ深淵を垣間見た瞬間だった。




