Glow up
フェスから数日後。時雨のスマートフォンは、絶え間ない通知音でかつてないほどの熱を持ち続けていた。
SNSで拡散された野外ステージの映像。数千だった再生回数はあっという間に数万、数十万へと跳ね上がり、時雨のアカウントには「普段は何をしてるの?」「あのリリックはどうやって書いてるの?」といったフォロワーからの質問が殺到していた。
その熱狂の波に目をつけたマスターの鶴の一声で、急遽ライブハウス『ROOTS』の公式チャンネル用に、時雨のスタジオライブとインタビュー動画が撮影されることになった。
無機質なカメラのレンズ。観客の熱気も反応もない、いつもと勝手が違う環境に時雨はひどく戸惑っていた。
しかし、重いビートが鳴り響いた瞬間、彼の中でスイッチが切り替わる。深く被ったフードの奥からレンズを敵のように射抜き、画面越しの人間を切り刻むような、凶暴で攻撃的なラップを披露した。
だが——「はい、カット! じゃあ次、インタビューな」とマスターの声がかかり、録画ランプが再び点灯すると、先程まで圧倒的なオーラを放っていたラッパーは嘘のように気配を消した。
「あ、ええと……言波時雨です。普段は、図書室で本を読んでいます……」
分厚い眼鏡の奥で視線を泳がせ、ペコペコと頭を下げながら消え入りそうな声で訥々と語る姿。それは、どこからどう見てもただの「気弱で礼儀正しい図書委員」だった。
そして、事件はそのインタビューの最中に起きた。
スタジオの強い照明に当てられて汗ばんだのか、時雨が「ちょっとレンズが曇ってしまって……」と、無防備にその分厚い銀縁眼鏡を外して顔を拭ったのだ。
後日、公開された動画を見た何十万という視聴者は、その瞬間に息を呑むことになった。
分厚いレンズと長い前髪の奥に隠されていたのは、切れ長の涼しげな目と、すっと通った鼻筋を持つ、驚くほど端正な顔立ちだった。ジムの過酷なトレーニングで顔つきが精悍に引き締まっていたことも相まって、その素顔の破壊力は凄まじかった。
動画のコメント欄は、大爆発を起こした。
『マイク持った瞬間バケモノになるのヤバい』
『インタビュー激弱で草……って、待って!? メガネ外した瞬間イケメンすぎて変な声出た!!』
『憑依型ラッパーで、普段は気弱な礼儀正しいオタクで、さらに素顔は超絶イケメンって、属性が渋滞起こしてるだろ』
狂気的なスキルと素の気弱さ、さらに「眼鏡を外すとイケメン」というギャップ。時雨自身は全く意図していなかったその要素が、ヒップホップ界隈の枠を越えて大拡散されてしまったのだ。
その影響は、現実の学校生活にも即座に波及した。
廊下を歩けば後輩の女子たちが「シグレ先輩だ……素顔めっちゃ綺麗だったよね」と頬を赤らめてヒソヒソと振り返り、教室に入れば、かつて時雨を空気扱いしていたカースト上位の男子たちが「動画見たぜ! 今度ラップ教えてよ!」と馴れ馴れしく話しかけてくるようになった。
「……なんでこうなるんだ」
昼休み。過剰な好意と好奇心の波状攻撃から逃げるように図書室の隅の席に避難した時雨は、手元の『広辞苑』を見つめながら深く、深くため息をついた。
向かいの席では、未蘭が頬を膨らませてジロリと時雨を睨みつけていた。
「だーかーら! メガネは絶対外すなって言ったのに! あんたがうっかり動画で素顔晒すから、今、学校中の女子があんたを狙ってんじゃん!」
「……スタジオが暑かったから、つい拭こうとしただけで……」
「その『つい』が命取りなの! もー、絶対にあたしの目の届かないとこでメガネ外さないでよね!」
ただ、自分の心を守るために言葉を武器にしただけだった。
それなのに、目立たず平穏に生きたいという時雨のささやかな願いを完全に置き去りにして、熱狂という名のレールが猛スピードで転がり始めていた。




