Spit
翌日、マスターからの短い電話でフェスへの出場決定が告げられた。
「お前の闇、大舞台でぶち撒けてこい」
その言葉を合図に、時雨と未蘭の新しい関係が始まった。
「……じゃあ、付き合うってことで、いいんだよね?」
「……ああ。よろしく頼む、星野さん……いや、未蘭」
互いに他者を信じきれない、不器用で傷だらけの二人は、探り探り、少しずつ心の距離を縮めていった。
付き合い始めてすぐに分かったことだが、未蘭の家庭環境は、時雨が想像していた以上に凄惨なものだった。
深夜に鳴り響く借金取りからの電話、得体の知れない新興宗教の祭壇の前で虚ろな目をして祈り続ける母親、そして酒に酔って暴れる父親。
家に居場所をなくし、耐えきれなくなった未蘭は、次第に時雨の六畳一間のアパートに入り浸るようになった。
派手なメイクを落とし、ダボダボのスウェット姿ですっぴんのまま、狭いキッチンに立つ未蘭。
時雨がフェスに向けて神経をすり減らし、深夜までリリックを書き、ビートを打ち込み、ジムで体を限界まで痛めつけて帰ってくる。そのすべてを、彼女は生活面から徹底的にサポートした。
「シグれん、ご飯できたよ。プロテインも混ぜといたから、ちゃんと飲みなよ」
「……ありがとう。助かる…美味しいよ」
温かい食事。帰る場所にある明かり。そして、自分の言葉を一番近くで信じてくれる存在。
親から与えられなかった「当たり前の日常」を、二人は肩を寄せ合って、擬似的に、しかし確かに作り上げていた。
時雨のノートに刻まれる言葉は、ただ自分自身の孤独を呪うだけのものから、「自分と似た痛みを持つ誰かを守るための強さ」と、理不尽な世界への強烈な反骨心を帯びるようになっていた。
DIRTY LOCAL FES 当日
隣県の郊外に特設された巨大な野外ステージ。
集まった数千人のヘッズたち。重低音が地面を揺らし、空気は熱気とアルコール、そして若者たちの暴力的なエネルギーで満ちていた。
出番を待つ舞台袖。
時雨は深くフードを被り、目を閉じてビートを脳内で再生している。傍らには、時雨のタオルを両手でぎゅっと握りしめた未蘭がいた。
「次、シグレ出番です」
スタッフの声がかかる。時雨はゆっくりと目を開けた。
「……行ってくる」
「ぶちかましてきな。私のヒーロー」
未蘭と拳を強く合わせ、時雨は西日の差し込む光の海へと歩み出た。
DJがドロップする、地鳴りのようなドープなビート。
歓声はまばらだ。観客の多くは「誰だこいつ?」という怪訝な視線を向けている。誰も、この細身の若いラッパーに期待などしていない。
時雨はマイクを両手で包み込むように握り、深く、長く息を吸い込んだ。
【綺麗に整列した社会のショーケース俺たちは生まれながらにバグったエラーケース」
一言目で、空気を切り裂く。
低く、ねっとりとした、しかし圧倒的な声の圧力がスピーカーから放たれた。
「綺麗事並べる社会の底辺、ここは光も届かない冷戦、親の愛すら知らずに育った、俺とアイツの祈りは届かないアーメン、血の繋がりより深いこの傷跡、偽善者どもの常識をぶち壊す!」
観客の顔つきが変わる。
ただのルーキーではない。言葉の一つ一つに、血ヘドを吐くような実体験の重みが乗っていることに、耳の早いヘッズたちが気づき始めた。
時雨はステージを大きく使い、鍛え上げた体幹から言葉を押し出していく。
これは生存戦略
狭い六畳で練り上げた、研ぎ澄まされた俺の感覚
仮面被ったあの娘の涙
俺が全部背負って、ここで断ち切る負のカルマ(かるま)!!」
歓声が上がった。
何千人もの観客が、時雨の言葉に飲み込まれ、波のようにうねり始める。前列の観客たちは一斉に手を挙げ、時雨のフロウに酔いしれている。
怒涛のパンチライン。
息継ぎすら忘れるほどの熱狂の中、ビートが鳴り止んだ瞬間、野外フェスの会場は割れんばかりの大歓声と拍手に包まれた。
肩で息をする時雨。
しかしまだ時雨のフローは続く
【もう遊びは終わりだ、お前らの「リアル」を定義し直す
同調圧力の檻を、俺のフロウでぶち壊す
ただの自己防衛、逃げ込むための汚え言葉、泥水を飲まされ、笑われ、透明人間扱いされた日々
俺はノートを真っ黒に染め上げ、次のステージへ踏み出した
誰も俺達の面倒なんて見ちゃくれない、自分達で切り開くしかない
膨れ上がる憎悪、親に見捨てられたこの現実
突き放されたあの日から
これは血の通った俺のドキュメンタリー
息を潜めるだけの人生はもうゴメン、殻にこもるのも今日でしまい。
俺に残された選択肢は「証明」するか、「死ぬ」かだ
成功以外の道はない、敗北なんて文字は俺の辞書にはない】
汗に濡れた前髪の隙間からステージの袖に目をやると、未蘭が顔をくしゃくしゃにして、ボロボロと泣きながら笑っていた。
時雨は、観客に向かって高く右手を突き上げる。
もう、俯いて本を読んでいるだけの少年はどこにもいない。彼は確かに、言葉という最強の武器を手にした、自分の人生の主人公だった。
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