7
シーラはハッと顔を上げ、目を大きく見開く。
(命と引き換えに、願いをひとつだけ叶えてくれる──?)
シーラの手にぎゅっと力がこもる。
黒い靄に覆われ、姿がはっきりと見えないスーヴェをじっと見つめる。
相手の出方を確かめるように、
「……命と引き換えにということは、わたしの命はまだあるの?」
この空間で目覚める前、反乱軍に攻め込まれた王城内の建物の中で、左脇腹を切られて意識を失う瞬間を思い出す。
その時点で死んでしまったのかと思っていたが、かろうじて命だけはまだつながっているのか。
シーラの問いかけに、スーヴェは身動きひとつしない。
だが根気強く待っていると、ゆらりとするような気配があってからスーヴェの右腕らしきものが持ち上がり、シーラの右手首辺りを指差し、
「狭間を彷徨う者……」
ようやく一言だけ、言葉が発せられる。
深い霧の中を手探りで進むような感覚。
見えざる者というだけあって、神でもない、人でもない、何者でもない存在、虚像のようなものなのだろうか。
シーラは視線を下げ、指差された右手首辺りを見てみるが、別に変わったことはない。自分の痩せ細った腕が見えるだけだ。
何か意味がある行動のように思えたのは気のせいだろうか。
切り替えるように視線を元に戻すと、
「……願いは、なんでもいいの?」
命と引き換えならどんな願いも叶えられるのだろうか。そこが気になった。
またも長い沈黙のあとで、
「死者は蘇らない……」
まるでシーラの考えを読んで先回りするような一言だった。
「……そう。冥府の狭間とはいえ、万能じゃないのね」
思わず皮肉めいた言葉が出る。
死者を蘇らせるなど、神への冒涜に等しい。しかし、国王や王族、王宮の中枢にいた者たちの私欲と愚かさが奪ったベロニウス王国の民の命なら、救われてもいいのではないかという考えが頭をよぎったのもたしかだった。
シーラは小さく息を漏らす。
そっと左脇腹に手を当てる。痛みを感じたのは、ここで目覚めた直後の一瞬だけだった。今は何も感じない。
現世の自分はどんな状態なのだろう。
考えそうになったが、すぐに意味のないことだと思い直す。
血が流れているあの状態では、早々に命は尽きるはずだ。
それこそ治療でもしない限りは。
しかし、憎き王族だとわかって剣で切りつけておきながら、その後に及んで情けをかけ、命を助けることなどあり得ない。
それを思えば、次の瞬間には失っていてもおかしくない命だった。
シーラはぐっと拳を握りしめ、決意する。迷いはなかった。
意識を失う寸前、もし願いが叶うならと思った。
もっと自分にできることがあったはずだと。
ならば、もう一度、願えばいいだけだ──。
シーラのブルーサファイアのような神秘的な濃い青色の瞳に力が宿る。
その視線が黒い靄に覆われている目の前のスーヴェを捉える。
──ベロニウス王国が安寧と豊かさで満たされますように。
心の中で唱えたあとで、シーラは息を吸い込み、大きく口を開く。
「わたしの願いは、ベロニウ──」
言いかけた瞬間、気づけば数歩先にいたはずのスーヴェが、シーラのすぐ目の前にいた。
その黒い靄が視界をふさぐように目の前に迫る。
と同時に、スーヴェの黒い靄の右側が伸び、シーラの左手を掴んでいた。
驚きのあまり、シーラは目を見開き、言葉をのみ込む。
すると、どこか馴染みのある感触を覚え、思わずスーヴェを凝視する。
肌に吸い付くような、しっとりとした冷たい感触──。
(どうして──)
シーラの瞳が揺れる。
(どうして、彼の感触がするの──?)
それはあの教会で眠ったままの青年に触れているときと同じ感触だった。
黒い靄の中、シーラの視線の先でキラリと何かが光った。
目線と同じ位置、そこで鮮やかな緑色の光が瞬く。
(瞳だわ──)
それは人間の瞳のように見えた。
(なら、スーヴェと名乗ったこの黒い靄は──、もしかして──)
あり得ない可能性が頭をよぎる。
すると突然、ぐんっと何かに引っ張られる感覚があった。
見れば、なぜか右手首に淡い金色の光を放つ細い糸が巻きついていた。
何これ、と思う間もなく、その金色の糸がぐぐぐっとシーラを後ろへと引っ張る。
その力はあまりに強く、シーラの身体はあっけなくふらつく。
そのとき、解放するかのように黒い靄がシーラの左腕からするりと離れる。
なぜかシーラの胸は切なく震えた。
反発する力がなくなったことで、より一層身体が後ろに引っ張られる。
よろめいた勢いで、二、三歩後ろに下がる。
「ま、待って──!」
離れていったわずかな熱を追いかけるように、思わず叫んでいた。
と同時に、背後の暗闇から声が聞こえてきた。
「……ラさま!」
その声は徐々に大きくなる。
「──シーラさま!」
自分を呼ぶ叫び声に、シーラは弾かれるように後ろを振り返る。
今まで暗闇が広がるだけだった空間の向こう、陽光のような一筋の明るい光が差し込んでいた。
その光を見た瞬間、無性に懐かしさが込み上げ、胸が熱くなった。
ドクドクと身体の中を熱い血が巡る感覚を覚える。
その間にもずるずると身体が引っ張られていく。
シーラはスーヴェのほうに急いで視線を向ける。
たしかめなければと思った。
と次の瞬間、突風にあおられるように身体が宙に浮く感覚があった。
まるで深い眠りから目覚めさせられるような、深い海の底から海面へと引き上げられるような感覚──。
シーラは風をかき分けるように必死で両手を伸ばすが、スーヴェとの距離はどんどんと離れていく。
「──待ってっ!」
シーラは声を上げる。
しかしその声は、嵐の中で叫んでいるように周りの轟音にかき消される。
本当に風が吹いているわけでもないのに、口を開けるのも苦しい。
それでもシーラは最後の力を振り絞り、叫んだ。
「エイナル──ッ‼︎」
直後、地面に落ちている木の葉が突風で一気に空へと舞い上げられるような急上昇する感覚に襲われた。
シーラの脳裏に、あの青年が守ろうとしていた勲章メダルが思い浮かぶ。
銀製のメダルの表面、獅子の意匠の下には、おそらくメダルの本来の持ち主で北部領主である『ナルヴィク・ルオリ』の名が刻まれていた。そしてさらにその下、本当なら名を入れる空白などほとんどない場所に、つたない彫り方でもうひとつ名が刻まれていた。それはあきらかに、あとになって細工師ではない別の誰か素人が意図して彫ったものに違いなかった。
(──エイナル。──それがあなたの名前?)
シーラは心の中で問いかける。
もう意識を保っていられなかった。
そして、意識を手放した──。