【電子書籍化決定】婚約破棄された腹いせに、婚約指輪を泉に投げ捨てたら
「──婚約破棄って何よ!」
屋敷から少し離れた森の中。澄んだ湖面が美しい泉を前に、メリッサはひとり叫んだ。
激しい怒りと憤りをぶつけるように、腹いせに婚約者のランベルトからつい先ほど突き返された婚約指輪を泉に投げ捨てる。
さらに、自分の左手薬指にはまっている指輪も抜き取る。わずかに躊躇したものの、すぐに丸めた紙くずを握りつぶすようにぎゅっと強く握りしめたあとで腕を振り上げ、力任せに指輪を大きく放り投げた──。
◇ ◇ ◇
ノイラート商会の娘であるメリッサ・ノイラートは、六年前の十三歳のときに、同い年のベネケン子爵家のひとり息子であるランベルトと婚約した。
ノイラート商会は王国でも名の知られた商会で、メリッサの祖父が立ち上げ、規模を拡大。祖父亡きあとは、学者肌でやや商売には向いていないおっとりとした父がなんとか商会長を務めている。
祖父は、女でも商人の家に生まれたからには知識をつけ経験を積むことが大事だという考えを持っていたため、メリッサはある程度の年齢から商会に出入りするようになっていた。そのこともあり、現商会長の父をなんとか支えることができている。
メリッサとランベルトが婚約した当時、ベネケン子爵家は巨額の負債で財政が苦しく、他家と縁談を結ぶことで長期的な援助を得ようとしていたが、貴族間では相手を見つけられなかった。それをそのとき存命だったメリッサの祖父が知り、援助と引き換えに格式を得て貴族社会へ販路を拡大する思惑で、孫娘のメリッサとの縁談を子爵家に独断で持ちかけたのだ。
メリッサ本人だけでなく、両親ですら知らない間に進められていたあからさまな政略的な縁談。メリッサは受け入れられず、拒否した。
しかしその気持ちは、相手のランベルトとの顔合わせが行われた日に一転する。
初対面で端正な顔立ちのランベルトが優しく微笑んでくれたことで、メリッサは彼に一目惚れしてしまったのだ。ランベルトは貴族にしては話しやすく、無邪気な面もある少年だったことも、メリッサの心を惹きつけた。
そんなメリッサの気持ちの変化を見てとった祖父は縁談を押し進め、両親も娘の気持ちを汲んで納得した。
ベネケン子爵家も縁談を承諾し、その後はとんとん拍子に進み、メリッサとランベルトは正式に婚約。
婚約の証として、お互いの瞳の色と同じ宝石を使った婚約指輪を交換した。
子爵家は財政難だったため、支払いはノイラート家が負担した。メリッサの祖父にとっては婚約した事実を対外的に示せることのほうが大事だった。
婚約後、ベネケン子爵家はノイラート家からの援助で徐々に立ち直り、ノイラート商会は子爵家の名を使って貴族社会に広く顔を出せるようになり、手広く商いができるようになった。さらに、ノイラート商会と子爵家の共同で始めた事業も軌道に乗る。
婚約してから六年ほどが経ち、その間メリッサはランベルトと良好な関係を築けていると思っていた。
定期的に会ってティータイムを楽しんで親交を深め、メリッサは時々、母のオリジナルレシピのリンゴの焼き菓子を作って持参することもあった。リンゴを薄い生地で包んで焼いた、バゲットくらいの大きさがある横長のお菓子だ。彼は毎回おいしいと褒めてくれた。
屋敷の外に出かけたり、パーティに参加したりすることもあった。ランベルトはいつも優しく微笑み、些細なことでもメリッサを褒め、頬がじんわり熱くなるような好意のこもった言葉をかけてくれた。
手紙の交換はもちろん、誕生日や婚約記念日にはプレゼントも贈り合った。
来年メリッサとランベルトがお互い成人すれば、正式に婚姻を結ぶ約束になっている。メリッサはその日を心待ちにしていた。
婚約に一番積極的だったメリッサの祖父は、半年前に商談で訪れた異国で風邪をこじらせ急逝してしまったが、ひとまず大きな問題もなく父が引き継ぎ、すべては順調に進んでいた。
◇ ◇ ◇
その日、メリッサはベネケン子爵邸に呼び出された。
通された客間、目の前には未来の夫であるランベルトと家族のように親しくなった子爵夫妻。
いつものように、婚姻の準備などの今後についての話し合いだろうと思っていた。
──しかしそうではなかった。
ランベルトは突然、メリッサに向かって無邪気に微笑んだ。
「聞いてくれ、メリッサ。僕は運命の相手を見つけたんだ」
メリッサはわけがわからず、戸惑いながらランベルトを見返す。
いやな気配が漂っている気がして、途端に不安になる。
「運命の、相手?」
メリッサが訊き返すと、ランベルトは笑みを崩さないまま、
「そうだ、だからきみとの婚約は破棄する」
はっきりと告げられた言葉に、メリッサは耳を疑う。
「待って、どういうこと──!」
「きみのことは嫌いではないけれど、恋でも愛でもない。これまでノイラート家が我が子爵家を援助してくれたことにはとても感謝している。でも、もう自分の気持ちを偽れないんだ」
あまりのことにメリッサは呆然とする。
すると示し合わせていたように、室内に見知らぬ令嬢が現れる。
ランベルトはメリッサが見たこともないほどの熱い瞳をその令嬢に向け、手を差し出しエスコートし、自身のすぐ横に座らせる。
同じ階級の子爵家令嬢で、一年ほど前メリッサが知らない間にとある夜会で知り合って以降、ふたりは徐々に思いを通わせていたという。そんな聞きたくもない情報を、ランベルトは罪悪感などかけらもないような様子で、酔いしれるようにメリッサに語る。
メリッサは説明を求めるように、ベネケン子爵夫妻に視線を向ける。しかし彼らは何事もないかのように、
「これまでの援助は私からも深く礼を言う。しかし、やはり貴族は貴族同士で結婚するべきだ」
「メリッサさん、ごめんなさいね、でもわかってちょうだい。これがあるべき正しい姿なのよ、受け入れてくれるでしょう?」
子爵夫妻はランベルトの暴走を止めるどころか、あろうことかメリッサに婚約破棄を受け入れるよう迫ってくる。
「そんな、ちょっと待ってください──!」
メリッサの叫び声を制するように、それに、と子爵が言う。
「こう言ってはなんだが、ノイラート家はこの六年間、援助と引き換えに我が子爵家の名を使って十分利益を得たはずだ」
メリッサは言葉を失う。混乱しながら、再びランベルトに目を向ける。
ランベルトは肩をややすくめ、まるで聞き分けのない子どもに向かって言い聞かせるように、
「メリッサ、きみが僕に好意を抱いてくれていることはわかってる。でも、どうか受け入れてほしい」
メリッサは膝の上で拳を強く握りしめる。そうでもしないと、衝動に任せてランベルトの頬を引っ叩きそうだった。
子爵がさらに続けて言う。
「ああ、それときみの祖父上であるノイラート翁、彼が生前私に持ちかけ、本格的に動き始めていたいくつかの新たな事業があるんだが、彼の死後に計画の不備がいくつか見つかってね、事業が頓挫してしまった。しかしすでに動き始めていたせいで大きな損害が出ている。これについては、我が子爵家はノイラート商会へ損害賠償を請求することになる。現商会長であるお父上にもそう伝えておいてくれたまえ」
婚約破棄だけでなく、損害賠償の請求という言葉まで飛び出し、メリッサはますます混乱する。
「損害賠償? いったい何をおっしゃっているんですか……!」
「そのままの意味だ」
「メリッサさん、お気の毒だけれど、我が家がかばえる損害ではないの」
「ですが、突然そんなこと言われても──! 婚約の件だって、わたしは受け入れられません! こんな一方的に言われても、納得できるわけがありません!」
メリッサは声をあげて反論する。しかし何を言おうとも無駄だった。
話は終わったとばかりに、屋敷から追い出される。
「ちょっと、話はまだ──!」
「ああ、あとこれも返しておくよ」
ランベルトは左手の薬指にはまっている婚約指輪を無造作に抜き取ると、もう不要だと言うように床に落とした。
転がった指輪がメリッサの靴先に当たって止まる。
「そうそう、最後だから言っておこうかな。きみがいつも手作りして持って来ていたあのリンゴが入った焼き菓子だけど、僕は正直好みじゃなかった。きみはずっと気づいてくれなかったけどね」
すべてを拒絶するかのように、メリッサの目の前で子爵邸の重たい玄関ホールの扉がバタンと閉まった。
◇ ◇ ◇
(……お父さまとお母さまになんて言えばいいの)
メリッサは、ノイラート家の屋敷から少し離れた森の中にいた。
ベネケン子爵邸から屋敷に戻る途中で馬車を止めてもらい、御者には少し散歩してから帰ると伝えて馬車を降りたのは少し前のこと。
木々がなく少しだけひらけた場所、目の前には澄んだ湖面の美しい泉が見える。
幼い頃、森を散策していたときに偶然見つけた場所だ。父や母には心配をかけたくなくて、悲しいことがあったときや泣きたいとき、ここでひとりで過ごすのがくせになった。
メリッサは手のひらに視線を落とす。
つい先ほど、不要とばかりにランベルトから返された婚約指輪だ。
「──婚約破棄って何よ!」
メリッサは思い切り叫んだ。
勢いそのまま、ふつふつと湧き上がる激しい怒りと憤りをぶつけるように、腹いせに婚約指輪を泉に投げ捨てる。
「運命の相手? ふざけたこと言ってんじゃないわよ!」
先ほど言えなかった言葉を泉に向かって叫ぶと、自分の左手薬指にはまっている指輪も抜き取る。
わずかに躊躇したものの、すぐに丸めた紙くずを握りつぶすようにぎゅっと強く握りしめたあとで腕を振り上げ、力任せに指輪を大きく放り投げる。
ランベルトとのつながりを感じられる、何よりも大切にしていた婚約指輪。
それが泉の底へと沈んでいくのを見て、メリッサはランベルトへの思いも葬る。
彼に好意を抱き、子爵家に信頼を寄せた自分の愚かさと未熟さを痛感する。
「なんで、気づかなかったんだろ……」
深く息を吐き出したあとで、ふとあるおとぎ話を思い出す。
「そういえばおとぎ話では、泉から美しい女神が現れて『あなたが落としたのは金の斧ですか、銀の斧ですか?』とか訊かれるんだっけ? ま、そんなことあり得ないだろうけど……」
ははは、と乾いた笑みを浮かべる。
これ以上ここにいても何ひとつ解決しない。
メリッサは切り替えるように拳を握りしめると、泉に背を向けて足を踏み出す。
そのとき突如、泉が光った。
振り返ったメリッサは目を疑う。
頭をよぎったのは、つい先ほど思い出したばかりのおとぎ話の内容──。
(え、まさか、本当に女神が現れるなんてこと──)
しかし次の瞬間、メリッサは眉間にしわを寄せる。
泉から現れたのは美しい女神ではなく、なんだかよくわからない、大きな水滴のような水色の透けた物体だった。その正体不明の水の塊が宙に浮いているのだ。
「何、この変なの……?」
怪しさ満点だった。ショックのあまり、白昼夢でも見ているのかもしれない。
「おい人間、この泉の神に向かって、変なの呼ばわりとは聞き捨てならん!」
水色の物体が口らしき箇所をパクパクさせてしゃべる。口の上には目玉らしきものまで見える。
「しゃべった……」
「この泉の神の言葉を聞けることをありがたく思え!」
「またしゃべった……」
メリッサはいよいよ自分がおかしくなったのかと思った。
「つくづく失礼なやつだ。それよりもお前か? これを泉に放り投げたのは」
そう言って泉の神を名乗る水色の物体は、水の塊から丸い手のようなものを下方に広がる泉の中に伸ばすと、ぐるぐると回して探り当てるようなしぐさを見せる。
「まさか……」
メリッサは驚きながら、両手を口元に当てる。
いやがおうでもおとぎ話のように、泉に落としたものは金の指輪か銀の指輪かと尋ねられる展開を想像してしまう。
目の前にいるのは美しい女神ではないが、そこはまあ目をつむろう。
そんなメリッサの想像をよそに、泉の神はブルブルとその体のような水の塊を震わせたかと思うと突如、
「泉にーーゴミをーー捨てるなーーッ!」
その叫び声とともに、何かがメリッサの顔のそばを矢のように通り過ぎ、背後の木にぶつかる衝撃音がした。
恐る恐る背後を振り返ると、木の幹にはメリッサが泉に投げ捨てた婚約指輪らしきものがふたつ、これでもかとめり込んでいる。
慌てて泉に目を向けるが、視界に映るのは凪いだ湖面だけ。
本当に夢でも見ていたかのように、泉の神という水色の物体はどこにも見えなくなっていた。
メリッサは木の幹にめり込んでいる指輪を取り出すと、手のひらに乗せ、じっと見つめた。
◇ ◇ ◇
「──メリッサ!」
しばらくしてメリッサがノイラート家の屋敷に戻ると、父と母がすぐさま駆け寄って来て、彼女を強く抱きしめた。
両親はすべてを知っていた。
メリッサが屋敷に戻る前に、ベネケン子爵家から婚約解消の書類と損害賠償を請求する書類が届いたらしい。あまりに迅速な行動に驚きを通り越して、呆れてしまう。
「メ、メリッサ、ここに書かれてあることは本当かい?」
父が動揺しながらも確認するように、メリッサに尋ねる。
「……ええ、そう言われたわ」
「なんてことだ! ここにきて両家の約束を反故にするなんて!」
「ああ、メリッサ、つらかったでしょう」
普段はおっとりしている父もこのときばかりは怒りをあらわにし、母はメリッサを慰めるように再び抱きしめる。
「もう黙ってはいられない、今から私が子爵家に抗議してくる!」
そう言って父は出かけて行ったが、子爵家の主張はまったく変わらず、メリッサと同じように屋敷から追い出されたのだった。
自分だけでなく、父にも同じ態度をとるなんて──。
メリッサの中で怒りと憤りばかりが増していく。
そうして、それから数日経っても状況はよくなるどころか、ついには対話すらも不要とばかりに門前払いされるまでになる。
父は伝手を頼って王国の司法院や法務官らに相談したようだが、どこも取り合ってくれず、話すらまともに聞いてくれなかったらしい。
そうこうするうちに、ノイラート商会を誹謗中傷するようなビラが撒かれ、評判を落とす悪い噂まで流れ始めた。
商会の仕入れ先のさまざまな方面からは、理由もなく断られる事態が次々と起こる。
多額の損害賠償金に事業の妨害、このままではノイラート商会の事業が立ち行かなくなるかもしれない。ノイラート商会を潰そうとしているのは明らかだった。
やり手だった祖父が生きていれば何か策を講じられた可能性もあっただろうが、学問は優秀でも商売に不向きで誠実な性格の父が立ち回るには難しい局面だった。ノイラート家は窮地に立たされる。
◇ ◇ ◇
その日、メリッサはノイラート商会の事務所に来ていた。
商談にも使われる応接間の一室。ソファーに座るメリッサの前、テーブルを挟んだ向かい側には、やや白髪まじりの中年男性の姿がある。
ルーペを手にする男性の視線の先、そこにあるのはメリッサの元婚約指輪だ。
「──ええ、確かに。加護が宿っていますね、それもとびきり純度の高い加護が」
ルーペから目を離し、感嘆するように言ったのは、王国に隣接する西帝国の知り合いの貿易商。
西帝国はこの広い大陸の西地域一帯を治めていて、大陸で唯一、魔術師がいる国としても知られている。魔術師は体に宿る魔力で、魔術を使うと言われている。
その昔、魔術師は大陸中に散らばっていたとされるが、時代とともに魔力は薄れ、現在では大陸広しと言えど魔術師がいる国は西帝国だけ。なんでも帝国を統治する皇族は魔術師の血を強く引く家系だという噂で、それもあって帝国ではいつの世も魔術師を手厚く保護していると聞く。
『加護が宿る物』は、魔力のない人間にとってはその物以上の価値はないが、魔力のある人間には魔力の安定効果があるので、かなり重宝される代物らしい。
この西帝国の貿易商の中年男性とノイラート商会の付き合いは、五年ほど前にさかのぼる。
当時ノイラート商会で保管していた古代遺物のひとつに加護が宿っていると言って、高値で買い取ったのがこの貿易商の中年男性だった。
ノイラート商会では食料や織物、調度品、宝石など以外に、王国内でも珍しく古代遺物の取り扱いも行っている。
ただ取り扱いと言っても、メリッサの父が歴史や古代遺物に高い関心があったことから個人的に始めたもので、利益目的の商売というよりも収集することを目的とする趣味の一環に近いかもしれない。
西帝国の貿易商の男性はその最初の取り引き以来、王国に来たときにはノイラート商会にも頻繁に顔を出すようになり、それだけでなく古代遺物などが手に入ったときは連絡してほしいとまで言われている。こちらから連絡をすると、わざわざ加護の有無を確認しに来るほどだ。
だから三日前、メリッサはあり得ないと思いながらも父に許可を得たうえで、念のため知り合いのこの貿易商に連絡を取ったのだ。
連絡手段はあらかじめ貿易商からノイラート商会に渡されていた、なんの変哲もない白い紙を使った。
教えられたとおり、その紙に用件を書いて紙の端を三箇所折り、息を数度吹きかける。すると、ただの紙が陽炎のように揺れたかと思えば見る間に鳥の形に変化し、開け放たれた窓から飛んで行った。あらかじめ決められた送付先に飛んでいくという魔術らしい。
メリッサは初めて使ったが、その魔術の素晴らしさに飛んでいく鳥が見えなくなるまでずっと見ていた。
そしてメリッサからの手紙を受け取ったらしい貿易商はすぐに来てくれた。
「ちなみに、これはどちらで手に入れられたんですか?」
鋭さを含んだ視線で仕入れ先を尋ねられるも、メリッサはにこりと笑ってやんわり答える。
「父がとある筋から譲っていただいたようです。詳しいことはこれ以上は……」
「なるほど、失礼しました。では指輪ふたつで、このくらいでいかがでしょうか? かなり純度の高い加護が宿っていて貴重なものですから」
引き際を弁えている貿易商はそれ以上尋ねることはせず、流れるように買い取りの希望額を提示する。
提示された金額を見て、メリッサはあまりの高値に内心驚く。
あの日、ランベルトから婚約破棄され、森の中の泉に投げ捨てたはずの婚約指輪。泉の神を名乗る水色の物体からゴミを捨てるなと投げ返されたのだが、なぜか指輪の見た目はまったく変わっていたのだ。
指輪に付いている宝石は婚約の証として、メリッサとランベルト、それぞれお互いの瞳の色の宝石だったはず。しかし今は、どちらの瞳の色とも異なる白や黄色、水色など複数の色が複雑に絡み合う見たことのない宝石になっていた。
そしてあの日、この変化した指輪を手にした瞬間、メリッサは癒されるような不思議な感覚を覚えた。
気のせいかもしれない。でもその感覚に覚えがあるような気がした。だからこそあのとき、手放したかった指輪を再び捨てることはせず、ドレスのポケットにしまったのだったが、どうやらその判断は正しかったようだ。
加護が宿る物は珍しく、これまでメリッサが実物を手にしたことがあるのは数えるほどしかない。加護は比較的、宝石や古代遺物などに宿っていることが多いとされている。
魔力のない人間が加護の有無を見分けるのは難しいと聞いているが、敏感な者の中には加護が宿る物に触れるとどこか心地よい、癒されるような、不思議な感覚を覚える場合があるらしく、おそらくメリッサはこの部類だと思われた。亡き祖父や父が加護の宿る物に触れても、何も感じないと言っていた。
「……あの、ちなみに加護が宿ると物の見た目が変わる、なんてこともあるんでしょうか?」
交渉がまとまり、金額が書き込まれた小切手を受け取ったあと、貿易商が席を立つ前にメリッサはそれとなく尋ねてみる。
「そうですね、物の見た目が変わることもあるらしいとは言われていますが、私は実際には見たことはありませんね。おそらく文献の中でしか残されていない現象だと思いますよ」
貿易商はまた品が入ったらご連絡ください、と言って、再び連絡用の白い紙をメリッサに渡してから、ノイラート商会をあとにした。
元婚約指輪を売ったお金はベネケン子爵家から請求されている損害賠償に充てることができ、ノイラート商会は一時的ではあるが窮地をひとつ脱することができた。
◇ ◇ ◇
数日後、メリッサは屋敷から少し離れた森の中の泉を訪れていた。
「あのー、泉の神さまー、いますかー? いたら姿を見せてくださいー」
凪いだ湖面に向かって、大きな声で声をかけてみる。
人がよく立ち入る森ではないが、こんな姿を見られたら気でも触れたのかと思われるだろう。
しかしメリッサは気にすることなく、声をかけ続ける。
「泉の神さまー。聞こえますかー? お礼の品を持って来たんですー!」
サーッと風が吹く。湖面が揺れる。すると、不自然に泉の中央から波紋が広がったかと思えば、突如湖面がブクッと盛り上がる。
「──ええい、うるさい!」
そう言って姿を現したのは、あの水の塊のような水色の物体、泉の神だった。
呼びかけたのは自分だが、改めて見ても現実だろうかと目を疑ってしまう。
それでもハッとして、現実だと自分に言い聞かせると、
「泉の神さま……、でいいんですよね? この間は失礼な態度を取ってすみませんでした」
「ああ、いかにも、我は泉の神である。ようやく接し方を理解したようだな」
メリッサの腰の低い態度に、泉の神は満足したように答える。
「あの、これ。この間のお礼に持ってきたんです」
メリッサは手に持っているカゴを差し出す。
「お礼だと?」
泉の神はやや訝しむようにメリッサに視線を向ける。
カゴの中には、メリッサの母オリジナルレシピのリンゴの焼き菓子が入っている。
婚約破棄された日、ランベルトが『正直好みじゃなかった』と言い捨てたあのお菓子だ。彼はいつもおいしいと言って食べていたので、てっきり気に入ってくれているんだと思っていた。でもそうではなかった。
メリッサにとって、母から教わったこのお菓子は思い出が詰まった一番好きなものだ。ランベルトには腹が立つが、いやな気持ちのまま作ることをやめてしまうのは違うと思った。
だからこそ、メリッサは泉の神へのお礼として心を込めて作った。味見をした母も太鼓判を押してくれた自信作だ。
泉の神はふーんと言いながらも、チラチラと視線を向け、どこか期待するようなそぶりを見せる。
泉の神はゆっくりと手らしきものを伸ばし、メリッサが差し出すカゴの中から器用に、バゲットくらいの大きさがある横長のリンゴの焼き菓子を取り出す。
大きく口を開けると、ポイッと放り込んだ。むしゃむしゃと何度か咀嚼したあとで飲み込む。
水色の透けている体の中でお菓子が分解される様子がはっきりと見える。なんとも奇妙な光景だ。
泉の神はにんまり笑うと、
「ふむ、悪くない。もっとないのか?」
メリッサは目を丸くする。
喜んでもらえたらいいなと思っていたが、予想以上に気に入ってくれたようでうれしくなる。とはいえ、大きなお菓子なので何個も持参することは考え付かなかった。こんなことならもっとたくさん焼けばよかったと後悔する。
メリッサが一個しか持って来ていないことを謝ると、泉の神は残念そうにつぶやく。
「そうか、もうないのか……」
その様子を見て、メリッサはある考えを思いつく。
一瞬迷ったものの、すぐさま口にする。
「あの、また作って持って来ます! でもその代わりと言ってはなんなのですが、ひとつお願いがあるんです。たとえば、この焼き菓子と引き換えに、わたしが持ってきた物にまた加護を宿してもらうことは可能ですか?」
「加護?」
「はい、先日わたしが泉に投げ捨ててしまった指輪ですが、ゴミを捨てるなとあなたから返されたら加護が宿る指輪に変わっていました。加護が宿る物は珍しいですし、お力をお借りできればと思ったのですが……」
泉の神はしばらく考えるそぶりを見せていたが、やがて口を開くと言った。
「なるほどな、まあいいだろう。さっきのやつをくれるなら、叶えてやらないこともない」
◇ ◇ ◇
ノイラート商会が新たな事業として本格的に取り扱い始めた加護が宿る物は、半年経った今では知る人ぞ知るレアな品になっていた。
事業を始める前、加護の有無については西帝国のあの貿易商に協力をお願いして、西帝国の専門機関に鑑定を依頼できる手筈、そして帝国内での販売ルートまで整えてもらった。
西帝国の鑑定なら、たとえベネケン子爵家といえどその結果に対して容易に手出しできないと踏んでのことだったが、今のところ妨害には遭っていないのでよい選択だったと言えるだろう。
メリッサは貿易商に協力してもらう代わりに、彼らには優先的に加護が宿る物を渡す約束をした。
また、本格的に加護が宿る物を扱うようになってわかったことは、宝石の場合は質の高い宝石のほうが加護がより長持ちしやすいということだ。そのため、なるべくそういった物を選ぶよう改善も重ねていった。
気づけば、当初見込んでいた魔術師がいて需要がある西帝国だけでなく、王国内でも魔力を持たない人の間でも持っていれば気持ちが安定するとのことで、お守り代わりに求める人も出てくるほどだった。
◇ ◇ ◇
「──これは?」
その日、メリッサは西帝国の貿易商と打ち合わせをしていた。
「メリッサさんに宛てた感謝の手紙と心ばかりのお礼の品、だそうです」
打ち合わせが終わったあと、貿易商は『とある人物』からの感謝の手紙とお礼の品だと言って、メリッサの前に一通の手紙と金の装飾が施された水色の上品な小箱を差し出した。
促されるまま小箱を開けてみると、中には質のよいアメジストが付いた繊細な細工のピアスが収められていた。
「ご存知のとおり、私どもが加護が宿る物を求めるのは、我が国にいる魔術師のためです。加護が宿る物は魔力の安定効果がありますから。ただ、私個人としては別の依頼も受けておりまして、そのためより純度の高い加護がある物を探しているのです」
そう言って貿易商は語った。
なんでも貿易商の依頼人である、とある人物は魔力を持っていて人よりも魔力量が多く、幼少期から魔力過多で苦しんできたそうだ。
これまで加護が宿る物をそばに置いてなんとか安定させていたが、年齢とともに魔力は増えるばかりで、激痛に襲われる周期も短くなっている。最悪魔力が抑えきれなくなった場合は、自身の魔力によって心臓が食われて死に至るだけでなく、暴走した魔力によって周囲に被害が及ぶ可能性もある危険な状態だったという。
それが最近では、ノイラート商会経由で純度の高い加護が宿る物を常に手に入れることができるようになったため、かなり症状が抑えられてきているらしい。
「それでわざわざお手紙とこの品を?」
「ええ、ぜひ受け取っていただきたい、と」
メリッサは手紙に目を落とす。
力強さの中に流麗さも兼ね備えた筆致で、感謝の言葉が綴られていた。
『メリッサ・ノイラートさま
直接会ってお礼をお伝えできず、手紙で失礼いたします。
貴商会で取り扱っている純度の高い加護が宿る品のおかげで、痛みに襲われることも少なくなり、症状が安定してきています。
あのままの状態では、いずれ身の内にある魔力が制御できなくなり、周囲に甚大な被害をもたらす可能性もあったでしょう。
また、私と同じように魔力の不安定に悩む者の中にも、加護が宿る品を手にして救われた者も多くいると聞いています。
西帝国民のひとりとして、心からの感謝を。
今後、何か困ったことがあれば、この手紙を届けた貿易商の男に言付けてください。私にできることがあれば協力を惜しみません。
感謝の意を込めて、あなたの身を守るお守りになるものを贈ります。気に入ってもらえるとうれしく思います。』
メリッサは王国語以外に大陸共通語なら読み書きできるが、手紙の相手はあえてだろう、王国語を使ってくれている。
加護が宿る物を探させて手に入れられるほどの権力と財力があるのなら、おそらく身分の高い人物だと思われるのに、尊大なところなどなく感謝と誠実さを感じさせる内容に、メリッサは好感を抱く。
と同時に、誰かの役に立てていることを強く実感する。これまで感じたことのないほどの大きなやりがいを感じ、もっと多くの人の役に立てたらと思うのだった。
◇ ◇ ◇
顔も名前も知らない、西帝国のとある人物からお礼の手紙とピアスを受け取った日から、メリッサは次の一手を考え始めた。
加護を宿す品には宝石や古代遺物を使うが、そもそもその物の価値が高いため、購入できる人は限られる。
また、泉の神に加護をお願いできるのもメリッサが作るリンゴの焼き菓子と引き換えだが、泉の神からはお菓子の数を増やしたとしてもメリッサが望むまま安易に加護を宿すことはしないと言われているため、数には限度がある。『安易に』と泉の神は威厳を見せながら言っていたが、ようは自分の気分次第という意味合いにも聞こえた。
とはいえ、加護が宿せる物の数は限られるのだから、より多くの人が手にできる品を作るためには工夫が必要だった。
そこでメリッサが思いついたアイデアが、組み紐だった。
材料である糸に加護を宿してもらい、その糸を使って組み紐を作るのだ。
糸の色や組み方などで色々とアレンジがきくので、種類も豊富に用意できるだろう。
早速メリッサは試作品を作って、改良を重ねた。
──しばらくして、納得のいく組み紐が完成する。すぐに取り扱いを始めたところ、たちまち人気になる。
さらに、入手した人の中には願いが叶った、恋が成就した、病気が治ったなどと言う人まで現れる。加護の効果は魔力安定になるので、おそらく本人の行動などの影響によるものだろうが、噂は噂を呼び、加護が宿る組み紐はあちこちの店舗で品切れになるほどだった。
メリッサはふと思いつき、西帝国の貿易商経由で、あのとある人物へこの間のピアスのお礼だと言って、特別に自身が作った組み紐を渡した。
顔も名前も知らないので、前に受け取った封筒の色や装飾、手紙の文面から受ける印象で糸の色や柄を選んだ。そのため、気に入ってもらえるか少し不安だった。
数日後、ノイラート商会を訪れた貿易商から、お礼の手紙を受け取る。
手紙には、早速身につけている、とてもうれしい、ありがとうと書かれていた。
喜んでもらえたことがうれしくて、メリッサはすぐに手紙を書いた。
すると、今度は鳥の姿をした魔術の手紙で返事が来る。さらに、メリッサにも使えるように個別の返信用の紙まで渡してくれた。
それが何度も続き、気づけばメリッサは顔も名前も知らない相手と定期的に手紙のやり取りをする仲になっていた。
◆ ◆ ◆
広い大陸の西地域一帯を治めている西帝国、その皇城の一角。
堅牢な回廊を歩くその人物の左手には、黒や紫色などを基調とした糸が精緻に組まれた組み紐が揺れている。
艶やかな黒髪とアメジストのような紫色の瞳を持つ青年は、この西帝国の若き皇帝だ。
まれなほど甚大な魔力を保有していることもあり、幼い頃から魔力過多の症状に苦しめられてきた。加護が宿る物をそばに置きなんとか魔力を安定させ抑えていたが、魔力は年齢とともに増える一方で、心臓が針で突き刺されるような、体が引き裂かれるような激痛に襲われる周期も短くなっていた。
魔力が抑えきれなくなった者の末路は見えている。自分が死ぬだけならまだいい。しかしひとたび魔力が暴走してしまえば、周囲への被害はどれほどのものになるのか想像するのも恐ろしい。帝国内には魔術が使える魔術師が数多くいるとはいえ、自分よりも魔力のある魔術師は存在しないのだから、完全に防ぐことはほぼ不可能に思えた。
皇帝である自分がこの国の災厄となるのか──。
表には出さないよう臣下の前では平静を装うも、心の中は不安と恐怖に押しつぶされそうだった。
しかしある日、希望の光が見える。
西帝国に隣接する王国、その王国を拠点にしているノイラート商会が加護が宿る物の取り扱いを本格的に始めたのだ。
これまでノイラート商会から加護が宿る古代遺物を手に入れたことは何度かあったが、いずれもさほど加護が強いと感じたことはなかった。それでも加護が宿る物自体が多くはないため、自身の配下である貿易商の者に指示して、引き続き商会と連絡を取れる状態を維持させた。
それがどうしたことだろう。ノイラート商会が本格的に取り扱うようになって、不思議なほどに純度の高い加護が宿る物ばかりが継続的に手に入るようになった。
どういう経由で商会が仕入れているのかは不明だったが、調べさせたところ違法なことをしているわけではないようだったので、頼ることにした。
ノイラート商会を頼るようになって、格段に魔力が安定し始めた。激痛に襲われることも減り、平穏な日常を送れるようになる。
また、物に宿っている加護の力が弱まっても、新たな物を手に入れられる状況は自身の心の安定にもつながった。以前はそばに置く物に宿る加護が失われても、次の物を用意できないこともあり、まさに綱渡りの状態だった。
それ故に、ノイラート商会、そして事業を主導しているという商会長の娘であるメリッサに、感謝の気持ちを抱くのは当然のことだった。
彼女に何かあれば、加護が宿る物が手に入らなくなるかもしれない。
それに気づいたとき、ならばと思い、感謝の意も込めて自身の魔力で防御の魔術を付与したピアスを、お礼の言葉を綴った手紙とともに贈った。
ピアスの宝石が自分の瞳と同じ色のアメジストになったのは偶然のはずだが、あとで思えば無意識に選んだのかもしれない。
その後、ノイラート商会が新たな展開として組み紐を手がけ始めたと聞き、さらにメリッサ自ら作ってくれたという特別な組み紐を受け取ったときは、驚くほど気持ちが高揚した。
そして気づけば、メリッサと手紙のやり取りをする仲になっていた。
手紙を通して感じる、彼女の人柄やひたむきに努力する姿勢に徐々に惹かれていった。
彼女の容姿については最初の頃に配下の貿易商の者経由で聞いていたが、いつしか自分の目で彼女の姿を見たいと思うようになっていた──。
◆ ◆ ◆
メリッサがあの日婚約破棄されてから、一年が経っていた。
その間、ノイラート商会の勢いは目を見張るものがあった。つながりを持ちたいと考える貴族家門は数多くいて、平民ながらもノイラート商会はベネケン子爵家が手出しできないほどの地位を確立するまでになる。
その一方で、ベネケン子爵家が手がけるいくつかの商会は、買い叩いたり脅したりして商品を独占するなど、強引で身勝手な方法が目につくようになり、勢いが衰えて落ちぶれていく。
そのうえ、一年前ノイラート商会の娘であるメリッサに、一方的な婚約破棄を突きつけた事実も明るみになる。
人々の間では、ベネケン子爵家はノイラート家の娘を自ら手放したために加護を失ったのだという噂まで広まり、貴族の間では子爵家との付き合いを控える家門まで出ているらしい。
ベネケン子爵家に関する記事が書かれたいくつかの新聞に目を通したあとで、メリッサは満足の笑みを浮かべる。
「──案外うまくいくものね」
すべてはメリッサの計画通りだった。
メリッサ、そしてノイラート商会が受けた仇を返すため、用意周到に動いていたのだ。
ベネケン子爵家によって被害を受けている相手に手を差し伸べたり、より有利な条件を提示したりして味方を増やした。そして少しずつ少しずつ、砂の城を崩すように子爵家を孤立させていった。
ゴシップ記事を多く取り扱う大衆紙の記者を買収して、子爵家は加護を失ったという記事を書かせて噂を流したのも、すべてはメリッサが裏から手を回したこと。
さらに、とある家門の名義を借りて、仕入れに苦戦している子爵家の弱みにつけ込み圧力をかけ、こちらが要求した法外な価格での取り引きを何度も呑ませた。これで婚約破棄の際に理不尽に取られた損害賠償金は、多額の利子をつけて返してもらったことになるだろう。
今やベネケン子爵家は昔ノイラート家が援助したとき以上に財政が厳しくなっていて、当主のベネケン子爵は援助を求めようと四六時中駆けずり回っているらしいが、手を貸す者はいないようだ。
メリッサの元婚約者、ベネケン子爵の息子ランベルトは、運命の相手と言って惚れ込んでいた子爵令嬢にも逃げられたらしい。
子爵家とランベルトがどうなろうと、メリッサの知ったことではない。
◇ ◇ ◇
その日、メリッサは商談で貿易の要所になっている大きな街を訪れていた。
一番の目的だった商談が無事に済み、ひとりで市場でも見て回ろうと思い、商会の同行者や護衛から離れたときだった。
「──今さら、なんの用?」
道を塞ぐように立っているのは、元婚約者のランベルトだった。
最近やたらと送りつけてくる手紙や面会の取り次ぎを一切無視していたら、ついにはこんなところまで追いかけてきたようだ。
かつてはあんなに好意を抱いていたのに、もう顔を見てもなんの感情も湧いてこない。むしろ、そういえばこんな顔だったっけ、と思うくらい。
「メリッサ、僕たちやり直そう」
あまりに身勝手な提案に、メリッサは冷めた口調で言い返す。
「あり得ないわ。だって、あなたが一方的に婚約破棄したんじゃない。表向きは婚約解消にして、追い込む形で書類にサインまでさせたくせに?」
「それは……、あのときの僕はどうかしてた。運命の相手はきみのことだったのに。でも僕たちうまくいってたじゃないか、やり直せるはずだ、そうだろ?」
メリッサは呆れながら、首を横に振る。
「いいえ、すべては間違いだったの、うまくいってなんかなかったわ。わたしが作ったあのリンゴが入った焼き菓子も『正直好みじゃなかった』んでしょ、察しの悪い女で悪かったわね」
「そんな──! あ、あれはちょっと言い方を間違っただけで、きみが作ってくれるのはうれしかったんだ、本当だ」
「はあ……、もう終わったことよ。受理された婚約解消の書類の控えだってちゃんとあるわ、ご丁寧にベネケン子爵家から送ってくださった正式な書類がね。もうこれ以上関わらないで」
メリッサは向きを変えて立ち去ろうとするが、なおもランベルトは食い下がる。
「待ってくれ、メリッサ! きちんと話せばわかるはずだ!」
「触らないで──!」
とっさに腕を引っ張られそうになって、メリッサはランベルトの手を跳ね除ける。
すると、ランベルトは侮辱されたとばかりに、怒りをあらわにする。
「この卑しい商人の分際で!」
ランベルトが手を振り上げる。
その瞬間、考えるよりも先にメリッサの体が動いていた。頭を下げ、ランベルトの顔面目がけて、両手を前に勢いよく突き出す。
顔を突かれた衝撃でランベルトは体勢を崩してよろめき、後ろに倒れ込む。
メリッサの反撃に、ランベルトは何が起こったのかわからない様子だった。
昔から裕福な商人の子どもは身代金目的で誘拐される危険があったため、メリッサは亡き祖父から幼い頃に護身術や対処法などを教え込まれていた。とはいえ実際に襲われたのは初めてのことだったので、冷静さを保ちながらも心臓はドクドクと波打っていた。
「今後一切近寄らないで」
メリッサは唇が震えそうになるのを堪え、なんとかそう言うと背中を向けて、その場から一刻も早く立ち去ろうとする。
しかしその一瞬の油断が仇となった。
「──メリッサァァァーッ!」
怒号のように名前を呼ばれ、振り返ったとき、ランベルトはピストルを構えていた。銃口がメリッサに向いている。ランベルトは血走った目で引き金を引く。
避けられない──。
痛みを覚悟したが、メリッサに向けて発射された銃弾はなぜか彼女の体に触れる前に弾き飛ばされ、撃ったランベルト本人の太ももを貫通する。
ランベルトが悲鳴を上げて、地面にうずくまる。太ももからは血が流れ、あまりの激痛にうめいている。
メリッサの耳にあるアメジストが付いたピアスが、きらりと光ったのは気のせいだろうか。
このピアスは以前、西帝国のとある人物から感謝の印と身を守るお守りにもなるからと言って贈られたものだ。
「これが守ってくれた……? まさかね……」
手を伸ばしてピアスに触れながら、メリッサはつぶやく。
その後、ランベルトは駆けつけたノイラート商会の護衛によって憲兵に突き出され、殺人未遂で捕らえられた。
メリッサを襲ったことは新聞でも大きく取り上げられ、ベネケン子爵家は貴族社会でますます孤立。立ち直る術は皆無だろうと言われている。
◇ ◇ ◇
メリッサはその後もさまざまなアイデアを出して加護が宿る品の事業を拡大、そのほかの事業も手がけるなどノイラート商会をより一層発展させるべく奔走している。
泉の神からは「神をこき使うとは、こんなはずではなかった……」とぼやかれているが、約束は約束だ。
その代わり、泉の神に持参する手作りのリンゴの焼き菓子には最高級のリンゴを使ったり、限られた地域でしか採れない希少なはちみつを加えてみたりして、色々グレードアップを図っているので許してほしい。
そんな忙しく働くメリッサのもとに、魔力過多の症状がほぼ治った『とある人物』である西帝国の皇帝が訪れるのはもう間もなくのこと。
そして皇帝から求婚されることになろうとは、このときのメリッサはまだ知る由もない──。
「──どうしたらいいだと? 知らん、そんなことは自分で決めろ」
「ひどっ!」
一か月ほど前、身分を明かした西帝国の皇帝から、なんの前触れもなく突如求婚されたメリッサだったが、いまだに返事ができずにいた。
ずっと手紙でやり取りしていたものの、相手は顔も名前も知らない相手だったのだ。筆致からなんとなく男性かなと察してはいたが、いきなり自分だと言われても。そのうえ西帝国の皇帝だったなんて、頭と心が追いつかない。
そうして悩みに悩んだあげく、どうしたらいいのかわからなくなって、泉の神に相談したのだった。
ノイラート商会の事業もあるし、婚約破棄されるなどつらいこともあったが、それでも生まれ育った王国を離れるのも寂しい。
父は事業のことはこちらに任せていいとは言ってくれているが、本当に大丈夫だろうか。今は優秀で頼もしい人材が多く揃っているため、メリッサが思うほどの不安はないはずなのだが……。
それにメリッサが西帝国に行くことになれば、泉の神とは今みたいに頻繁には会えなくなるだろう。
加護を宿してもらっていることを抜きにしても、なんだかんだ築けたこの関係をメリッサは失いたくないと感じている。
ふいに泉の神が言う。
「でも西帝国か、そうだな、もしお前がこの国を出るなら我も一緒に移動するとしよう。昔そのあたりにいたこともあるし、確か皇城の近くの森にちょうどよい泉もあったはずだからな」
「えっ!」
「それで? あのうまいやつは、これからも届けてくれるんだろうな?」
泉の神が移動できる事実もさることながら、まさかの提案に驚きながら、メリッサはうれしさのあまり勢いよく何度も頷いたのだった。
* * * fin * * *
たくさんの素敵な作品がある中、目を留めてくださり、最後までご覧いただきありがとうございます(*ˊᵕˋ*)
「婚約指輪を泉に捨てたらどうなる?」というところから生まれたお話でした!楽しんでいただけるとうれしいです。
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ほかにも短編・連載作品投稿しています。こちらも楽しんでいただけるとうれしいです!
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【2025.6.18追記】
\電子書籍化(リブラノベル様)が決定/いたしました‼︎
作品を読んでくださった皆さま、応援くださった皆さまのおかげです(*ˊᵕˋ*)本当にありがとうございます!