【受賞・コミカライズ予定】婚約破棄された訳あり聖女は仮面をつけている〜「こんなはずじゃなかった」と言われても、もう訂正できません〜
◆第8回アイリス異世界ファンタジー大賞「ゼロサム賞」受賞いたしました。
コミカライズ予定です。
『 ──……その令嬢が目元を覆っている仮面を静かに外すと、あまりの美しさに、大広間にいる者たちはみな息を呑んだ。
仮面をつけている令嬢のあるがままを受け入れ、何よりも彼女の心根の素晴らしさに惹かれ今まさに求婚すべく、令嬢の前に跪いていた王子もまた、予想外のことに目を見張った。
誰もが、令嬢が今まで仮面で素顔を隠していた理由は、顔にある傷を隠すためだと思い込んでいた。
しかし、そうではなかったのだと、その場にいたすべての者が理解した。
令嬢は素顔を隠すことで、真実の愛を見つけたのだ── 』
数年前、隣国で発行された一冊の恋愛小説はこのスラウゼン王国でもまたたく間に話題となり、貴族のみならず平民にも多くの愛読者がおり、今や王都の大歌劇場の演目でも何度も演じられるほどの人気を博していた。
今夜、まさにその仮面を外す場面を彷彿とさせる出来事が目の前で展開され、建国パーティーのために王城の煌びやかな大広間に集っていた大勢の者たちは、みな固唾を呑んでその行方を見守っていた。
大広間の中央、人垣に囲まれるようにぽっかりと空いた空間に立っているのは、目元を覆う仮面をつけたひとりの少女、──アマーリエだった。
彼女がつけている仮面は滑らかな光沢がある真っ白な絹地に、色とりどりの鳥や花などを模した繊細な刺繍が施されている。
アマーリエは、このスラウゼン王国の教皇庁に所属する〝聖女〟だ。
聖女の象徴である白百合を連想させる、雪のようなホワイトブロンドの髪の毛と、金色と緑色が複雑に混ざる瞳を持つアマーリエは、数百年に一度現れるとされる〝聖女の現し身〟と言われている。
アマーリエの前には、この国の王太子で婚約者でもある、一際目を引く容姿のレナルド・スラウゼンの姿が見える。
赤毛に濃い紫色の瞳を持つレナルドは、確信を持って興奮気味に叫んだ。
「──それほどまでに言うのなら、見せてやろう!」
そうして彼は迷いなく、アマーリエの仮面を勢いよくはぎ取った──。
「──ほら、美人だろう! 私の目に狂いはない!」
レナルドは幼少期に自身が一目惚れした、仮面に覆われる前のアマーリエの素顔を思い浮かべながら高らかに声をあげ、すぐさま賞賛を求めて周りをぐるりと見回す。
しかし──、予想に反して大広間に響いたのは悲鳴と戦慄の声、会場全体をざわつかせるほどの激しい動揺だった。
みな恐怖に慄き、ある者は青ざめ、仮面をはぎ取られたアマーリエの顔から目をそむけ、ある者は邪悪な魔法でもかけられたかのように彼女の顔から目をそらせないでいる。
レナルドが不穏な空気にハッと後ろを振り返る。
「──ひっ!」
その瞬間、彼は悲鳴をあげ、我が目を疑った。
アマーリエの右目周り──、そこには爬虫類の鱗のような、この世のものとは思えないほどの禍々しい赤黒い痣が浮かび上がっていたのだ。
それを目にするなり、レナルドは背筋が寒くなるほどの恐怖に襲われ、その場に崩れ落ちそうになるほど膝をガクガクと震わせた。
はぎ取ったばかりの仮面が彼の手から滑り落ち、カツン──と、空虚な音を立てて床に落ちる。
恐怖に駆られた大勢の視線を一身に受けるアマーリエは、急いで右目元に右手を当て、少しでもその痣を隠そうとする。
「で、殿下……」
アマーリエは震えながら声を出す。
「これには訳が……」
理解を求めるように、か細い左手をレナルドに伸ばす。しかし──。
「さ、触るな──ッ‼︎」
彼女の手は、婚約者であるはずのレナルドによって無情にも乱暴に振り払われてしまう。
レナルドは血走った目をアマーリエに向けると、凄まじい形相でにらみつけると言った。
「──私をだましたな! アマーリエ‼︎ その醜い顔はなんだ‼︎」
辺りが凍りついたようにしんと静まり返る。
すると誰ひとり動けずにいた人垣の中から、美しいドレスを身に纏ったひとりの令嬢がさっと進み出る。彼女は周りの視線をもろともせず、レナルドを目指して駆け寄った。
「──レナルド殿下! 大丈夫ですか!」
そう言ってレナルドに近づき、彼の体を支えるように背中に手を回したのは、この国の宰相を務めるダラム公爵家の令嬢だった。
公爵令嬢はレナルドに気遣うような言葉をかける一方で、声高にアマーリエを激しく非難し始めた。
「このようなことになって、レナルド殿下がお怒りになるのも無理はありません! あの者は殿下を長年にわたり謀っていたのです。なんと罪深いことでしょう! いくら聖女とはいえ、あのような者がこのまま未来の王妃になるなど、許されるはずがありません‼︎」
レナルドが公爵令嬢を唯一の味方かのような眼差しで見つめる。
ややあってから、彼は恐怖と怒りでわなわなと震え始める。かと思えば、狂ったように大声で笑ったあとで、ハッと息を吐き出した。
「──アマーリエ! もはやお前がこの国の王太子である私の婚約者などあり得ない! この場をもって、お前との婚約は破棄する‼︎」
まるで鋭い剣先を突きつけるかのように、レナルドが自身の人差し指をアマーリエに向かって突きつけた──。
◇ ◇ ◇
スラウゼン王国の教皇庁に所属するアマーリエは、〝聖女〟と呼ばれていた。
なぜなら、彼女が聖女の象徴である白百合を連想させるホワイトブロンドの髪の毛と、金色と緑色が複雑に混ざる瞳を持つ容姿に生まれたからだ。
数百年に一度現れるとされる〝聖女の現し身〟として、アマーリエは赤ん坊のときに保護という名目で教皇庁に引き取られた。
以来、アマーリエは聖女として育てられ、物心つく前から聖女として日々神に祈りを捧げ続けてきた。
八歳を迎える頃になると、アマーリエは教皇庁が管理する救済院や孤児院などを陰ながら手伝い、民のために献身し、ときに民の救済につながる施策などを国王に申し出るなど、聖女としての務めを一心に果たすようになる。
そして彼女が十歳のとき、婚約者ができた。
相手はこの国の王太子である、二歳年上のレナルドだった。
レナルドは国王と同じく赤毛で濃い紫色の瞳を持ち、同世代の貴族の中でも一際整った容姿をしていた。
王国では聖女を娶ると国が栄えると言い伝えられており、折よく年齢が近かった国王のひとり息子であるレナルドが選ばれたのは自然な流れだった。
当初レナルドは、言い伝えに則って婚約者を決められたことに不満をあらわにしたが、アマーリエの愛らしさに一目惚れしたことで、婚約関係は順調に進み、心配していた国王や教皇庁の長である教皇はほっと胸を撫で下ろした。
聖女であるアマーリエは、引き取られた赤ん坊のときから教皇庁の中ではことさら大切に扱われてきたが、教皇庁に所属するどの聖職者とも異なる特別な立場だったため周りからは一線を引かれ、本当の意味での愛情を知らずに育った。
そのため、婚約者となったレナルドの好意を最初の頃は嬉しく感じていた。
しかし、いつからか彼が自分の容姿しか見ていないことに、アマーリエは気づいてしまう。
さらに、レナルドは王太子でありながら、政や民の暮らしに関心が薄いようだった。
アマーリエが国内で発生した作物の不作や災害、それらによる民の苦境、支援策について話題にしても、彼は面白くなさそうに聞き流すばかりだった。
そんなレナルドの態度に、アマーリエは将来この国をふたりで背負うことへの不安を覚えるようになる。
そしてアマーリエが十二歳を迎えた頃、アマーリエの右目周りに、爬虫類の鱗のような禍々しい赤黒い痣が浮かび上がったのだ。
──古に伝わる、ドラゴンの呪いだった。
大昔、北壁に棲む凶悪なドラゴンによって支配された土地で、人々は常に怯えながら細々と暮らしていた。
しかしあるとき、あらゆる剣技を極めた〝ソードマスター〟であるひとりの青年がドラゴンに深手を負わせ、ついにドラゴンの封印に成功する。
その後、北壁を含めた一帯の土地をスラウゼン王国として定め、青年が初代の国王として国を治めたことが、このスラウゼン王国の始まりとされている。
それから長い歳月の経過とともに、ドラゴンの封印は次第に弱まっていた。
その影響により数十年に一度、王族の血を引く女性の中にドラゴンの呪いによる痣が現れるようになった。
呪いが現れた女性は、みな短命だった。
ドラゴンの呪いを解くためには、今度こそ完全にドラゴンを退治するしかないように思われたが、そのためには初代国王がかけたドラゴンの封印そのものを解かねばならず、封印が弱まりつつあるとはいえ、末裔であるどの王をもってしてもほぼ不可能に近かった。
アマーリエは聖女ではあるものの、出自は平民のはずだった。
しかしドラゴンの呪いがその身に現れたことで、彼女が数代前に平民と駆け落ちした末娘の王女の末裔で、王族の血を引いていたことがわかったのだ。
聖女である彼女にドラゴンの呪いが現れた事態を重くみた国王は、その事実はアマーリエ本人と、年の離れた王弟であるクライヴにだけ告げるに留め、ひとり息子でアマーリエの婚約者のレナルドには、慎重を期して時期を見て打ち明けることにした。
アマーリエにドラゴンの呪いの痣が現れたあと、王弟のクライヴが目元を隠せる仮面をアマーリエにつけてくれた。
アマーリエにとって、大人で威厳のある国王はひどく緊張する相手だったが、クライヴは国王とは二十歳以上も年が離れていたため、国王よりは自分に近い存在に感じられ、安堵できる相手だった。
またクライヴ自身、王弟でありながらも気さくな性格で、十一歳も年が離れている少女のアマーリエに対しても早いうちから、「クライヴ殿下だと堅苦しいからクライヴと呼んでくれればいい」と言ってくれたことも身近に感じられた理由だろう。
そんなクライヴが、アマーリエに仮面を用意したのはドラゴンの呪いの痣を隠すためであることは、彼女にもよくわかっていた。
しかし、国王すらもアマーリエの顔を見て痛ましそうに一瞬目を背けたにもかかわらず、クライヴだけはじっと目を見て何事もないかのように微笑んでくれたのが印象的だった。
彼がつけてくれた白い仮面は高価な絹地が使われており、色とりどりの鳥や花などを模した繊細な刺繍が施された特注品だった。
当時まだ十二歳だったアマーリエには大人っぽいようにも思われたが、禍々しい痣が浮き出る素顔を見ることが苦痛になっていた彼女にとって、綺麗な刺繍が入った仮面をつけると少しだけ心が和らぐ気がした。
国王はアマーリエが突如仮面をつけることになった理由について、王太子のレナルドには「アマーリエはこの国の聖女であり、王太子の婚約者でもあるため、しかるべきときまで身を守ることを優先して素顔を隠したほうがいい」と伝えた。
レナルドは納得できない様子だったが、数日後、仕方ないと受け入れた。
そこには、当時流行り出していた隣国で発行された一冊の恋愛小説の影響があった。
小説の中に登場する主人公の令嬢は、アマーリエと同じように目元を仮面で隠していたからだ。
何事もやや流されやすい性質のあったレナルドは、巷で話題になっている小説と同じように、素顔を隠した神秘的な婚約者も悪くないと思ったようだった。
ドラゴンの呪いの事実を知るのは、国王と王弟のクライヴだけ──。
しかし、この仮面をアマーリエにつけてくれたクライヴは、その後出かけた遠征先で命を落としたと国王から聞かされた。
それを聞いたとき、アマーリエはあまりの衝撃にその場に崩れ落ちた。
遠征に出かける前に見た、クライヴの優しい笑みが頭から離れなかった。頭を撫でてくれたあの大きな手が恋しかった。
そして、国王の右腕でもあった王弟のクライヴが亡くなったことで、アマーリエに降りかかるドラゴンの呪いの事実を知る者は、国王以外にはいなくなったのだった──。
◇ ◇ ◇
それから五年の年月が過ぎ、アマーリエは十七歳になっていた。
アマーリエの右目周りには、いまだドラゴンの禍々しい呪いの痣が浮かび上がったまま──。
そのため、目元はいつも仮面で覆い隠すしかなかった。
この仮面をつけてくれた優しい王弟のクライヴはもういない。
アマーリエは心にぽっかりと穴が空いたような気持ち抱えていた。
王太子であるはずの婚約者のレナルドは、相変わらず政や民の暮らしにはさほど関心が持てないようで、アマーリエはますます不安を募らせる。
そのうえ、王弟のクライヴがいなくなった王城内では、宰相を務めているダラム公爵がますます力をつけているという不穏な動きもあるようだった。
教皇庁は政には介入しないという戒律があるため、教皇はダラム公爵の動きを一層警戒するも、それ以上踏み込めずにいた。
そんな中、恐れていた事態が起こった。
翌月に建国パーティーの開催を控えていたある日、アマーリエは国王が床に伏しているらしいと、教皇から密かに聞かされた。
病に侵されたのか、または最悪の事態である暗殺未遂でも起こったのか──。
表面上、国王は公務による疲労で大事をとってしばらく休んでいるとされ、真相は厳重に秘匿されていたが、いつまで経っても公に姿を見せない状況に水面下ではさまざまな憶測がささやかれていた。
アマーリエはレナルドにそれとなく何度も状況を確認するも、彼は「陛下は公務の疲労が溜まっていて、少し休養しているだけだ」と返すばかりだった。
最初は何か隠しているのかとも思えたが、良くも悪くも考えていることが表に出やすいレナルドの表情を見ていると、嘘をついているようには思えなかった。
そして、不安な日々が続く中で迎えたスラウゼン王国の建国を祝う日──。
王城では、今年も建国を祝うパーティーが大々的に開かれ、大広間にはこの国に名を連ねる貴族や著名人など、大勢の者たちが一堂に会していた。
例年であれば、国王がみなの前で建国を祝う言葉を伝えるのが慣例だが、国王は不在だった。
建国パーティーに国王が顔を見せないなど、過去の歴史を振り返ってみてもあり得ないことだった。
国王の不在について、アマーリエは会場の大広間に入る直前、レナルドから聞かされた。
レナルドはどこか落ち着かないそぶりで、心配そうにつぶやいた。
「……まだ少しお加減が優れないようだ」
その横顔は、確かに父親を心配する息子の顔だった。
レナルドのエスコートで、アマーリエは左右に開かれた大扉から煌びやかな大広間へと足を踏み入れる。
レナルドとアマーリエが入場し、しばらくしてから見計らったかのように、宰相を務めるダラム公爵が娘の公爵令嬢を伴ってあいさつに来た。
「スラウゼン王国の光、レナルド王太子殿下にごあいさつ申し上げます」
ダラム公爵は胸に手を当て、敬意を示す。
その彼の隣、娘の公爵令嬢が優雅に淑女の礼をする。
「ああ、ダラム公爵か、よく来てくれた」
気安そうにレナルドが声をかける。
ダラム公爵が愛想の良い笑みを見せたあとで、アマーリエにすっと視線を移す。
「──我が国の聖女さまにも、ごあいさつ申し上げます」
アマーリエは形式どおりに微笑み、言葉をかける。
「白百合の祝福がともにありますように」
聖女であるアマーリエが貴族も平民も関係なく、すべての者にかけるあいさつの言葉だ。
〝白百合の祝福〟。つまり聖女の祝福がともにあるように、という祈りが込められている。
ダラム公爵がやけに意味深な表情で、ふっと口端を上げた。
「有り難く存じます。しかしながら聖女さまの素顔を拝見できないので、祝福もいささか半減しそうですな」
不敬とも取れる言葉だった。
さすがにレナルドが耐えかねたように釘を刺す。
「公爵、言葉が過ぎるぞ」
「これは大変申し訳ございません、少しワインを飲み過ぎたようです」
ダラム公爵は心から詫びるように深く頭を下げたが、やや思案するそぶりを見せたあとで、ことさら痛ましそうに続けて言った。
「……しかし、聖女さまの素顔については幼少期に一部の者が拝見して以来、誰も拝見しておりませんので、近頃さまざまな憶測が飛び交っていることを殿下はご存知でいらっしゃいますでしょうか? 口さがない連中の戯言だとは思いますが、噂が大きくなればなるほど民は不安に駆られることでしょう」
レナルドが不愉快そうに、眉間にしわを寄せる。
「噂だと──?」
「ええ、誠に残念ながら……。巷では数年前から隣国のとある恋愛小説が流行っておりますが、それを利用して公には出せない本当の姿を隠しているのでは──、と言う者もいるようで……」
ダラム公爵はアマーリエにだけ見えるように、にやりと口元をゆがめた。
その瞬間、アマーリエの背筋が凍る。
(もしかして、わたしの素顔を知っているの……? まさか──)
アマーリエははっと気づく。
いつだったか、教皇庁の敷地内にある庭園を歩いているときに、急な夕立に降られたことがあった。
そのとき大切な仮面もびしょ濡れになってしまったため、アマーリエは辺りを見回してから急いで建物の陰に身を隠すと仮面を外し、ぐっしょりと濡れてしまった仮面の表面をハンカチで丁寧に拭いた。
そのとき、周りには誰もいないはずだった。
(でも、もしもあのとき、誰かに見られていたら──?)
アマーリエは弾かれるように、横に立つレナルドを見上げる。
彼は機嫌を損ねたように言葉を漏らす。
「そんな噂があるのか? 事実無根だというのに……」
「ええ、しかしみな聖女さまの素顔を知らないのですから、そう思ってしまうのも無理もありません」
気づけば、周りにいた者たちは一歩、また一歩下がり、アマーリエたちがいる大広間の中央だけ不自然にぽっかりと空いた空間ができていた。
レナルドが隣に立つアマーリエに目を向ける。
その目は自分の持ち物の価値を疑われたような不快感をあらわにしていた。
本能で危険を察知したアマーリエはとっさに下がる。
しかし、彼女の手首をレナルドがぐっと掴み、引き止める。
レナルドが不自然なほど優しく微笑んだ。
「アマーリエ、ここまで言われてしまっては隠しておくこともないだろう。きみの愛らしさ、美しさは私が一番知っているが、良い機会だ、そろそろ公にしてもいいと思わないか?」
予期せぬ展開に、アマーリエは一気に青ざめる。
「──い、いけません!」
彼女はそう叫ぶと、レナルドに掴まれていないほうの手で仮面をぎゅっと押さえる。
しかし、アマーリエの言葉はレナルドの耳には届いていなかった。
レナルドがぐいっと強引にアマーリエを引き寄せる。
「──それほどまでに言うのなら、見せてやろう!」
彼は興奮気味にそう叫ぶと、迷いなくアマーリエの仮面をはぎ取った。
「──ほら、美人だろう! 私の目に狂いはない!」
レナルドは高らかに声をあげ、周りをぐるりと見回す。
そうして、アマーリエの素顔は公の面前にさらされたのだった──。
◇ ◇ ◇
「──衛兵、今すぐこの者を捕えろ! 牢屋にぶちこんでおけ‼︎」
アマーリエのドラゴンの呪いによる禍々しい痣を目にしたレナルドは大声で叫び、一方的な婚約破棄を突きつけた。
「で、殿下……、これには訳が……」
アマーリエは震える声で必死に訴えようとするも、すぐさま衛兵らによって取り押さえられる。
レナルドはこの世で最も汚らわしいものを見るかのような、激しく嫌悪する視線をアマーリエに向けている。
アマーリエは苦しげに彼を見上げ、懇願するように声を振り絞る。
「……っ! どうか、国王陛下にお尋ねください──!」
しかし、レナルドは心底呆れ果てた様子で冷淡に言い放つ。
「陛下はつい先頃から大事をとってお休みになられている! 陛下に尋ねろだと? 時間稼ぎのつもりか、ふざけた真似を! 早くこいつを連れていけ──‼︎」
アマーリエは衛兵らの手によって、なかば強引に立ち上がらされる。
思いもよらない事態に、大勢の者たちが戦々恐々としながら遠巻きに行方を注視している。
(どうして、こんなことに──)
アマーリエは唇を噛み締める。
目には涙がじわりとあふれる。
視線の先、そこには床に落ちている自身の白い仮面があった。
目元の痣を隠すため、人前では片時も仮面を外したことはなかった。
それなのに、王太子であり婚約者であるはずのレナルドの手によって、こんな形で公の目にさらされるなど誰が予想できただろう。
(でも、あの仮面だけは──)
アマーリエは衛兵らに両腕を拘束されているにもかかわらず、なんとか体を捻りもがくようにして、床にぽつんと残されている仮面に手を伸ばそうとする。
せめて、あの仮面だけは手元に持っておきたかった。
(──ごめんなさい)
心の中でつぶやく。
(──誰にも素顔を見せないと約束したのに)
アマーリエは力を振り絞って、衛兵らの拘束から逃れようとする。
彼らはアマーリエが逃げ出そうとしていると思ったのか、痛いくらいに力を込めて押さえつけてくる。
アマーリエは必死に抵抗した。
周りからの視線を常に意識し、その期待に応えるべく、いついかなるときも聖女らしくあろうと努めてきた彼女からは想像もできないほど取り乱した様子だった。
その強い抵抗に、彼女を取り押さえていた衛兵のひとりが体のバランスを崩してしまう。男の片足が床に落ちている彼女の仮面に向かって一直線に下ろされる。
「だめ──!」
アマーリエが悲痛な声をあげる。
しかし願いは届かず、その瞬間、バキッ──、と嫌な音がした。
あまりの衝撃にアマーリエは言葉を失う。唇が小刻みに震える。
視界の先、何よりも大切にしていた仮面は見るも無惨に真っ二つに割れ、表面の滑らかな白い絹地には薄汚れた黒い靴跡がべったりとついていた。
アマーリエの金色と緑色が複雑に混ざる瞳から涙が零れ落ちる。
「──おい! 何をしている! さっさとつまみ出せ‼︎」
苛立ちを抑えられないようにレナルドが叫ぶ。
そのとき──。
突如として、背後にある大広間の大扉が勢いよく左右に開かれた。
弾かれたように、大広間にいた者たちが一斉に振り返る。
その開かれた大扉を一気に通り抜け、猛然とこちらに駆け寄ってくるのは、ひとりの男性──。
(まさか……、そんな……)
アマーリエの瞳が大きく見開かれる。
見覚えのある赤みを帯びたブラウンの短い髪の毛に、鋭さの中にも優しさが覗く濃い青色の瞳──。
そこにいたのは五年前に遠征先で亡くなったと聞かされた国王の弟、クライヴ・スラウゼン──、その人だった。
クライヴは険しい表情を見せているものの、精悍な顔立ちは昔とまったく変わっていなかった。
アマーリエは信じられない思いで、駆け寄ってくるクライヴを見つめる。
大広間にいる者たちも死んだはずの王弟が突然現れたことで、驚きと動揺を隠せないようだった。
するとひと呼吸遅れて、大扉の向こうからもうひとりの人物が姿を現す。
「──そこの衛兵らよ! 聖女から手を放せ!」
威厳のあるよく通る声でそう言ったのは、床に伏していると噂されていた国王だった。
アマーリエを押さえていた衛兵らは、弾かれたように急いでその手を放す。
アマーリエはその場にへたり込みそうになる。
そのとき、彼女のもとにたどり着いたクライヴの大きな手が、その華奢な体を支える。
アマーリエは夢でも見ているような気持ちでクライヴの顔を見上げる。
「……本当に、クライヴさま、なのですか……?」
クライヴは申し訳なさそうに目尻を下げる。
「……黙っていてすまない」
彼は素顔をさらしているアマーリエの顔を、昔と同じようにじっと見つめたあとで優しく微笑むと、はっきりと告げた。
「でももう大丈夫だ。きみにかかっているドラゴンの呪いを解く方法を見つけたんだ」
◇ ◇ ◇
アマーリエは大きく目を見開き、目の前のクライヴを見つめ返す。
クライヴが優しい微笑みをこちらに向けてくれている。
信じられない気持ちでいっぱいだった。
先ほどまではレナルドに仮面を無理やりはぎ取られ、禍々しいドラゴンの呪いの痣を公にさらしてしまったうえ、一方的な婚約破棄を突きつけられ、拘束されるという絶望の淵に立たされていた。
それが一変して、死んだと思っていたクライヴにもう一度会えただけでなく、ドラゴンの呪いが解ける方法までも見つけたと聞かされ、何もかもが夢の中の出来事のようだった。
ふとクライヴの後ろに目を向けると、そこにはひとりの見知らぬ女性が立っていた。
緩やかに波打つ長い黒髪、黒曜石のような黒い瞳。
その女性は、体の曲線を強調するような真っ黒のドレスに身を包んでいる。
どこか浮世離れした美しさに、アマーリエは思わず見惚れてしまう。
「眠りの魔女だ」
クライヴがアマーリエに告げた。
アマーリエは驚きのあまり、女性を凝視してしまう。
魔女が存在したと言われているのは大昔の話だ。今となっては、物語の中でしか語られることはない。
「北壁の麓の森に棲まう魔女だ。百五十年に一度しか目覚めることがないため〝眠りの魔女〟と、そう呼ばれている」
そう言うと、クライヴは振り返って魔女を呼ぶ。
「眠りの魔女殿、彼女がドラゴンの呪いを受けているんだ。頼む」
魔女はカツカツと靴音を響かせアマーリエの前まで進み出ると、彼女の右目周りに現れている爬虫類の鱗のような痣──ドラゴンの呪いをじっと見つめる。
するとすぐさま、ひどく臭いものでも嗅いだように顔を盛大にしかめる。
「──ええ、確かに。ドラゴンの呪いね。嫌な臭いがプンプンするもの」
魔女は事の重大さに対して不釣り合いなほど軽やかに肩をすくめ、涼しい顔で言い切った。
「まあ、大丈夫でしょう」
魔女がすっと手のひらを宙にかざすと、その瞬間、どこからともなく真っ黒な液体が入った小瓶がポンッと現れる。
あり得ない現象にアマーリエが驚いていると、その間にも魔女は手にした小瓶の蓋を開け、中に入っている不気味な液体をアマーリエの口元へと無造作に押しやる。
「飲んで。これで呪いが解けるはずよ。なんせ呪いをかけたドラゴンの心臓から作った解呪薬だから」
アマーリエはひゅっと息を呑み、思わず唇をぎゅっと閉じる。
魔女は気にせず、解呪薬の小瓶をアマーリエの唇へと強引に押し当て、無理やり口を開かせて一気に飲ませる。
「え、あ、あの……、んぐっ──!」
アマーリエは心の準備もできないまま、解呪薬をすベて飲み干してしまう。
どんな恐ろしい味がするのかと思ったが、舌触りは滑らかでハチミツを溶かしたように甘かった。
すると間もなく、アマーリエの右目周りに現れていた禍々しい赤黒い痣──、ドラゴンの呪いが徐々に薄れていく。
しばらくすると、まるで最初から痣など何もなかったかのようにすべて消え去った──。
魔女が自身の手のひらを見せるように、アマーリエの目の前にさっと掲げる。その瞬間、魔女の手のひらがキラリと反射し、まるで鏡のようにアマーリエの顔を鮮明に映し出していた。
アマーリエは震える指先で自分の右目元に触れる。
呪いが現れた十二歳のときから今日までの五年間、ずっと視界に入り続けてきた痣が綺麗になくなっていた──。
とても奇妙な感じだった。
その場に居合わせた全員が信じられない思いで息を呑む。
彼女の右目周りにあった禍々しい痣が消えると、そこには聖女の象徴である白百合を連想させるホワイトブロンドの髪の毛と、金色と緑色が複雑に混ざる瞳を引き立てるような透き通った白磁の肌を持つ美しい少女がいた。
クライヴがアマーリエの顔を覗き込む。
呪いが消えたことを確認すると、安堵するようにゆっくりと大きく息を吐き出す。
「……長い間、すまなかった」
彼は力を抜いてゆっくりと倒れ込むと、アマーリエの小さな肩にその頭を預け、震える声で言った。
アマーリエは恐る恐る手を伸ばし、クライヴの短い髪の毛に触れる。
こうして自ら彼に触れるのは、初めてのことだった。
今なら触れても許される気がした。
アマーリエの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「クライヴさま、生きていてくださって、本当によかった……。本当にありがとうございます……」
◇ ◇ ◇
アマーリエとクライヴの行方を見守っていた国王は、床に伏せっている噂があったとは思えないほど、しっかりとした足取りでみなの前に進み出る。
大広間に集う全員の顔をさっと見回したあとで、息子である王太子のレナルドにピタリと視線を止めた。
レナルドは久しく向けられたことのない父である国王の険しい視線に思わずたじろぐ。
「──レナルド。アマーリエのことをお前に話していなかった私にも非がある。しかし、こともあろうにアマーリエの仮面を勝手にはぎ取り、ドラゴンの呪いを公にさらしただけでなく、彼女に一切の非がないにもかかわらず、一方的に婚約破棄を突きつけるなど言語道断!」
国王は厳しい声音でレナルドを叱責する。
そして険しい表情を見せる宰相のダラム公爵にスッと鋭い視線を向けると、手を大きく振り上げ背後に命じた。
「ダラム公爵を捕らえよ!」
国王の後ろに控えていた騎士たちがすぐさまダラム公爵を取り押さえる。
「──陛下! な、何を⁉︎ 血迷いましたか⁉︎ 宰相である私に対してこのようなことを──っ!」
ダラム公爵が騎士たちの手から逃れようと暴れながら叫ぶ。
国王は冷ややかな目で、床に押さえつけられているダラム公爵を見下ろす。
「ダラム公爵。そなたには王太子であるレナルドを利用し、国王である私を毒殺しようとした大罪を償ってもらう」
レナルドがヒュッと息を呑む。
「──毒、殺?」
彼は真っ青になり何やら独り言のように漏らす。
「──あ、もしかして、あの……、ワインに……?」
何やら思い当たる節があるようにそうつぶやいたあとでわなわなと震え、鬼の形相で公爵をにらみつけた。
「公爵──! そなたが私に献上したワイン、あれに毒を入れていたのか⁉︎ 父上を殺そうとするなど──‼︎」
「気づかぬほうが愚かというものです、殿下。あなたは私の言うとおりに動く駒にすぎない。それなのに失敗に終わるとは──!」
ダラム公爵は嘲笑うかのようにハッと笑い、そう吐き捨てた。
レナルドは激しい怒りで体を激しく震わせる。
知らず知らずのうちに、父である国王毒殺の片棒を担がされていたのだ。
国王が声を発する。
「公爵、そなたはレナルドに私を毒殺させたあとレナルドにその事実を告げ、おおかた裏から国政をほしいままにしようと目論んでいたようだが、私の命まで奪えず残念だったな」
ダラム公爵が激しい殺意と敵意のこもった形相で国王をにらみつける。
国王はその視線を受け流し、レナルドのほうへと目を向ける。
レナルドの隣には、いまだ彼の体に手を置いているダラム公爵令嬢がいた。
「──ダラム公爵令嬢。そなたがこの件にどこまで加担しているのかは追って調べさせてもらう」
「ヒッ──!」と公爵令嬢は声をあげ、レナルドの体から手を離し、ガクガクと震え上がる。
国王は呆然と立ち尽くすレナルドに向かって、圧倒するほどの厳しい声を発する。
「レナルド、事の重大さはわかっているだろう。自分が何のためにその立場にあるのかを理解せず政をおろそかにし、民の暮らしに目を向けずにいる振る舞いは、もはや許されることではない。さらに、ダラム公爵のような国に害をなす者の思惑に振り回されたこと、愚かで浅はかにもほどがある。よって、この場をもってお前の王位継承権を剥奪する──!」
「ち、父上──! お待ちください──‼︎」
レナルドが悲痛な叫び声をあげる。
国王はもうレナルドには目もくれず、無慈悲とも言える冷たさで言い放つ。
「北部の領地でもう一度、自分を見つめ直すがいい。私がお前にかける言葉は、もうこれ以上ない」
最後通告とも言えるその言葉に、レナルドがへなへなとその場に崩れ落ちる。
しかしすぐに何かに気づいたように急いで顔を上げると、アマーリエに視線を向ける。
そこには、幼い頃に自分が目を奪われた少女が美しく成長した姿があった。
これこそまさに、レナルドが求めていた完璧な理想像だった。
レナルドがすがるような目でアマーリエを見つめ、発狂するように叫ぶ。
「──こんなはずじゃ! こんなはずじゃなかったのに‼︎ アマーリエ、私は本当にきみのことを──‼︎」
国王は小さく首を左右に振り、騎士たちに告げる。
「……連れていけ」
アマーリエはべったりと纏わりつくレナルドの視線から逃れるように、クライヴの背後に身を隠す。
つい先ほどまで、レナルドは血走った目の凄まじい形相で自分をにらみつけ、ひどく非難し罵倒した。
しかしドラゴンの呪いによる痣がなくなったとたん、手のひらを返すようにまるでかつての恋人を見るような目で見つめてきたのだ。その視線が何よりも怖かった。
震えるアマーリエの小さな手を、クライヴの大きな手がぎゅっと包み込んでくれる。
大丈夫だと言ってくれているような温もりに、アマーリエはぽっかりと空いたままだった自分の心が少しずつ満たされていくのを感じていた──。
◆ ◆ ◆
「北壁のドラゴンの呪いだ……」
国王からその言葉を聞いたとき、クライヴはがく然とした。
目の前には、まだ十二歳になったばかりの少女が不安げに立ち尽くしている。
クライヴは彼女を怯えさせないよう細心の注意を払い、なんでもないことのように微笑んで見せた。
少女の右目周りには愛らしい彼女には不釣り合いなほど、爬虫類の鱗のような禍々しい赤黒い痣が浮き出ている。
少女は数百年に一度現れるとされる、このスラウゼン王国の聖女だ。
人々から敬われる尊い存在にもかかわらず、ドラゴンの呪いを受けることになってしまったのだ。
そしてそのことは、あるひとつの結論をクライヴに示唆していた。
──王族の血を引く女性。
ドラゴンの呪いは、王族の血を引く女性にのみ現れるとされている。
唯一思い当たる可能性は、数代前に平民と駆け落ちした末娘の王女、その末裔がアマーリエではないか──。
すでにその結論に行き着き、確信を得ているであろう国王が深く息を漏らした。
「……聖女であるアマーリエがじつは王族の血を引いており、そのうえドラゴンの呪いを受けてしまったなど、公にはできぬ。事はあまりにも重大だ。今はまだお前の胸の内にだけ留めておいてくれ。……そうだな、レナルドにはいずれ時期を見て話すことにしよう」
国王の意見にクライヴは頷くしかできなかった。
それから数日間、クライヴは思い悩んだ。
祖先であるソードマスターの初代国王が封じたという北壁のドラゴン。
その封印は長い歳月とともに弱まりつつあり、その影響で王族の血を引く女性にドラゴンの呪いが現れるようになった。
当然ながら、そのことはごく限られた人間しか知らない。
そして呪いが現れた女性は、いずれも若くして亡くなっている。
アマーリエは聖女ではあるものの、王族として生を受けたわけでもなく、聖女であること以外はごく普通の少女だ。
それなのに、本人が知らぬまま王族の血を引いているというだけで、不幸にも呪いをその身に受けてしまった。
本当なら、聖女として王太子のレナルドの婚約者として、そして何よりもひとりの女性として、これから幸せな未来が待っているはずだったのに──。
クライヴは拳を強く握り締め、決心する。
翌日、朝早くクライヴは私室にいる国王を訪ね、こう切り出した。
「──兄上。ドラゴンの封印は弱まりつつある。それはつまり、遠くない未来にドラゴンが目覚めることを意味しているのではないですか? ならば今しかない。封印が切れ、力を蓄えたドラゴンが最悪の形で目覚めれば、この国は甚大な被害に見舞われます。そして何よりもこれ以上、アマーリエのような不幸を背負う女性が出ないよう、ドラゴンの呪いが繰り返されることはここで断ち切らねばならない、違いますか──」
彼は揺るぎない決意を告げた。
国王が険しい表情で大きく息を吐き出す。それは国王自身、長年考えていたことだった。
「……確かに、お前は王立騎士団の団長として長年にわたり私を支えてくれ、この国唯一のソードマスターでもある。しかしいくらお前がオーラを扱えるソードマスターとはいえ、初代国王がかけたドラゴンの封印を解き、なおかつドラゴンを退治するなど、無謀以外の何ものでもない。それをわかっているのか?」
「はい、誰よりも──」
クライヴは深く頷く。
「ですから、私のことは死んだものと思ってください。ドラゴンの封印解除と退治、そのふたつを成し遂げるためには想像もできないほどの困難が立ちはだかっているでしょう。ましてや、生きて帰れる可能性は限りなく低い。王弟である私が、死んでいるのか生きているのかわからない状態では、後継者争いの火種を生みかねません。それだけは、いずれ国王としてこの国を支えるレナルドのためにも、避けなければならないはずです」
国王はゆっくりとクライヴに歩み寄ると、弟である彼の体を正面からしっかりと抱き締めた。
「──すまない、お前にそんな決断をさせてしまったことを、私は詫びることしかできない」
クライヴは兄である国王の背中を優しく叩く。
二十歳以上も年が離れているため、兄というよりも父のような存在だった。
「兄上、あなたはただ私に『行け』とだけ命じてくれればいいのです。王族に生まれたときから、この身は民のためにあります。ですが、ひとつだけお願いがあります。みなと同じく、アマーリエにも私は死んだと伝えてください。ドラゴンの呪いが解けるかもしれないと淡い期待を抱かせたものの裏切ることになれば、その絶望は計り知れないでしょうから」
国王が迷った末に、静かに頷く。
「……わかった、そうしよう。だが、私はお前のことを決して諦めない。レナルドに王位を譲り渡すときになってもお前が戻って来なければ、私は老体に鞭打ってでも地の果てまでお前を探しに行くからな」
クライヴは頬をゆるめる。
「ええ、そうならないよう、肝に銘じておきます」
そうしてクライヴは水面下ではドラゴン退治に向かう準備をしながら、公には北方へ遠征に行くためだとして各方面に必要な準備を進めるよう指示を出した。
彼は王立騎士団の中でも群を抜いて実力のある精鋭騎士を数十名ほど選び抜き、そこに従騎士や治療師、武器職人なども加えた全員に対し、密かにドラゴン退治に力を貸してもらえるよう協力を仰いだ。
遠征という名目で北方へ出発する前日、クライヴは一時的に王城でその身を預かっているアマーリエのもとを訪ねた。
国王はこのままアマーリエを王城に留め置くことも考えたが、事情を知らない教皇や教皇庁の者たちから聖女の帰りを首を長くして待ちわびているという催促の手紙を日に何通も受け取っており、やむなく断念したという。
クライヴはアマーリエの前に片膝をつけて屈むと、懐からハンカチに包まれたあるものを取り出した。
ゆっくりとハンカチを開き、彼女に見えるように差し出す。
少女らしい好奇心がこもった瞳でアマーリエがクライヴの手元を覗き込む。
「……仮面、ですか?」
アマーリエが顔を上げて尋ねる。
それは、クライヴが彼女のために特注で作らせた目元を覆う白い仮面だった。
光沢のある絹地に、色とりどりの鳥や花などを模した繊細な刺繍が施されている。
「ああ。これからは素顔が誰にも見られないよう、隠しておかなきゃいけない……」
クライヴは苦しげに言葉を吐き出す。
アマーリエが小さくコクンと頷く。
幼いながらも聡い彼女はクライヴのその一言だけですべてを理解し、何も言わず受け入れているのだ。
クライヴはぶつけようのないやるせなさを必死で堪え、懺悔するように漏らす。
「すまない……」
先ほどからアマーリエはクライヴを気遣い、小さな右手を自身の右目に当てている。禍々しい呪いの痣ができるだけ見えないようにしてくれているのだ。
クライヴは彼女の右腕にそっと触れ、ゆっくりと動かして下ろさせる。そして、アマーリエの金色と緑色が複雑に混ざる美しい瞳を正面からじっと見つめ返す。
自分は背丈があるうえにがっしりとした体格で、さほど愛想が良いとも言えないため、女性や子どもからは怖がられることがある見た目だと自覚している。
クライヴはなるべく優しく微笑むと言った。
「仮面の模様はどんなものにしたらいいのか迷ったんだが、前に鳥や花が好きだと言っていただろう? どうだろうか、少しでも気に入ってもらえるといいんだが……」
アマーリエは一瞬きょとんとしながらも、おずおずと手を伸ばし、仮面にそっと触れる。
手に取って、じっくりと見つめる。
ややあってから、少しはにかみながらクライヴにお礼を述べる。
「……はい、とても気に入りました。ありがとうございます」
「そうか、ならよかった」
クライヴは一安心する。怖がらせないようゆっくりと手を伸ばし、彼女の小さな頭をそっと撫でる。
そのあとで、アマーリエの目元に仮面をつけてやる。
「……どうですか?」
仮面をつけたアマーリエが心配そうにクライヴに尋ねる。
クライヴは大きく頷いて笑った。
「ああ、とても似合っている。きっとレナルドも褒めてくれるはずだ」
幸いにもアマーリエの婚約者である王太子のレナルドは、アマーリエに好意を抱いている。
ドラゴンの呪いが解けず、もしこの先その事実を知ったとしてもアマーリエのことを受け入れられるかもしれない、そんな期待もあった。
◇ ◇ ◇
翌日、クライヴは遠征という名目で、大勢の騎士を含めた遠征部隊を率いて出立した。
そして王都を離れてから三か月ほどが経った頃、道中通りかかった崖から転落して死亡したように偽装した。
その後、あらかじめ話をつけておいた精鋭騎士や従騎士、治療師などの別部隊の者たちだけを密かに伴って、ドラゴンが封印されているという北部辺境にある北壁を目指し、北上し続けた。
王都から離れれば離れるほど、手に入る情報は少なくなる。
しかしそれでも、聖女であるアマーリエの噂はよく耳にする。
『仮面をつけた聖女さまが、災害で亡くなった魂を弔ってくれた』
『王都の救済院で、聖女さま自ら怪我の手当てをしてくださった』
『聖女さまが、辺境の地にも孤児院を建てるよう、陛下に進言してくださったらしい』
クライヴは立ち寄る町や村でアマーリエの噂を聞くたびに、決意を新たにした──。
季節ばかりがどんどんと過ぎていく中、ようやく北部辺境までたどり着いたクライヴと仲間たちはある日、ひっそり佇む小さな村を見つける。
切り立った崖のような巨大な北壁の周りには、行く手を阻むように広大で鬱蒼とした未開の森が広がると言われている。
その小さな村は、未開の森へ向かう荒れ果てた道の途中、忘れ去られたようにポツンとあった。
クライヴは仲間たちに少し離れた場所で待機するよう指示し、側近ひとりだけを伴って村に立ち寄った。自分たちの動きが噂になることを避ける意図もあったが、大勢の騎士たちの訪問によって過度に村人たちを怖がらせたくない思いもあった。
そこで彼は、村の年老いた村長からある古い言い伝えを聞く。
「ドラゴンは、恨みつらみによって人間を呪うことがあると言われておりますな……。すでにその呪いを受けている人間は呪ったドラゴンがたとえ死んだとしても、その呪いは怨嗟となって残り続けるとも……。それがどのような呪いかは、この地で長年生きてきたわしどもにもわかりませぬが……」
村長は、かつて自身の父親から聞かされたであろう古い話を思い出しながら、そう語った。
それを聞いたクライヴはがく然とする。
ドラゴンの封印解除と退治だけでも成し遂げられるかわからない中、たとえ成功したとしてもドラコンの呪いは解けないと村長は口にしたのだ。
目の前が真っ暗になる。
しかし続けて、村長がわずかばかりの光となる話をクライヴに伝えた。
「呪いを解く方法があるとすれば、ドラゴンの心臓を用いて作られる解呪薬のみだという話も、わしどもは伝え聞いております……」
そして、その解呪薬を作れる者がいるとするならば、北壁の麓に広がる森に棲まうとされる〝眠りの魔女〟だけだろうと付け加えた。
しかしそもそもその魔女が実在するのか、広大な森のどこにいるのかもはっきりとしたことはわからない。
そのうえ魔女が目覚めるのは、百五十年に一度だという。
「眠りの魔女さまが目覚めたとされるのは、そうですな……、今から百年以上前といわれておりますが、果たして本当かどうかは……」
村長が申し訳なさそうに首を横に振った。
クライヴは落胆する。
人間にとって十年でも長い年月だ。とても魔女が目覚めるのを悠長に待っている余裕はない。
すると村長が迷うそぶりを見せたあとで、再び口を開いた。
「これも本当かどうかは定かではないのですが、なんでも眠りの魔女さまとドラゴンは敵対する者同士らしく、ドラゴンのにおいがするものを魔女さまはことさら嫌うと言われておりますな」
「……なるほど」
クライヴにある考えが閃いた。
そのためには、いずれにしてもまずはドラゴンの封印を解き、倒す必要があった。
◇ ◇ ◇
クライヴは村長に礼を述べ、立ち寄ったその小さな村をあとにする。
クライヴたち一行はさらに北上を続け、やがて北壁の麓に広がる未開の森にたどり着く。その広大な森を抜けるまでに季節がひとつ変わり、なんとか通り抜けた先、山脈のように両腕を大きく広げる巨大な北壁がようやく目の前に現れる。
より安全な経路を選んで北壁を登りながら、王家に伝わる文献の写しを頼りに、頂上にあるドラゴンが封じられているという洞窟を探し当てるのは容易ではなかった。
封印されたドラゴンを見つけたとき、クライヴたちは目の前の信じられない光景に大きく息を呑んだ。
北壁の一部をえぐり取ってできたような洞窟の中、岩のような巨大な体躯を折り曲げ眠りにつくドラゴンが、その巨体よりもさらに大きな氷の塊に閉じ込められていたのだ。
もちろん本物の氷ではない。
ソードマスターだった初代国王が自身のオーラで生み出したものだ。そしてその封印が決して解かれぬよう、氷の塊の周りにはオーラの鎖が幾重にも巻き付けられていた。
よく見れば、眠っているかに思えたドラゴンの首には、一本の長剣が深々と刺さっていた。おそらく初代国王がドラゴンに深手を負わせたときの剣だろう。封印の媒介としての役割も担っているのかもしれない。
クライヴ、そしてかろうじてオーラを扱える一部の騎士たちは覚悟を決め、ドラゴンの周りを覆う強力な封印をオーラを纏わせた剣をぶつけて徐々に解いていく。気が遠くなるような作業だった。
それでも一年かけ、ようやく氷の塊と鎖の封印を解くことに成功する。
封印が解かれたドラゴンは長剣が首に刺さっている影響もあってか、完全にはまだ覚醒していなかった。やや酩酊状態ではあったが、戦闘が長引けば長引くほど完全な覚醒に近づくようで時間との勝負だった。
クライヴと騎士たちは総力を結集し三日三晩戦い抜き、気力が尽きかけようとした頃、ようやくドラゴンの息の根を止めることができた。
クライヴがドラゴンの首に刺さった長剣を抜くと、剣は青白い光を発して泡のように消えた。
一息つくことなく、クライヴは息絶えたドラゴンの硬い鱗をはぎ取ると、心臓を取り出す。
ドラゴンの心臓は、アメジストのような深い紫色をした結晶だった。
ようやく手に入れたドラゴンの心臓を手に、クライヴは休む間もなく北壁をあとにし、眠りの魔女が棲まうとされる麓の森へと向かった。
やがて鬱蒼とした広大な森に足を踏み入れるも、この森の中のどこに魔女が眠っているのかもわからず、長い間さまよい続け、焦りばかりが募る。
そんな中、ある日偶然濃い霧が漂う森の中、わずかに霧が晴れる場所に小さな湖を見つけた。
湖を覗き込むと、長い黒髪の女性が眠るように湖の中に横たわっていた。
(──眠りの魔女だ)
直感的にクライヴはそう思った。
迷うことなくざぶざぶと湖の中に入り、懐からドラゴンの心臓である紫色の結晶を取り出す。
そして水中で静かに眠る魔女の顔に、ドラゴンの心臓を近づけた。
その瞬間──。
「──ぶはっ‼︎ 臭い‼︎」
勢いよく眠りの魔女が目を覚ます。
魔女はかなり苛立った様子でクライヴに険しい視線を向けながら、指先で鼻をつまむ。
「──はあ⁉︎ あんた誰よ! でもって、そのくっさいのを早くどこかへやってくれないかしら?」
クライヴは信じられない思いで、手元のドラゴンの心臓を見つめる。
「……まさか、本当に目覚めるとは」
正直なところ、ドラゴンの心臓で眠りの魔女が目覚めるかは半信半疑だった。
それに魔女はしきりに臭いと言っているが、クライヴや仲間の騎士たちにとっては無味無臭のただの石の結晶にしか見えない。
「眠りの魔女殿で間違いないか」
クライヴは尋ねる。
「あら、わかっていて眠りを邪魔したのね。いけない子ね」
魔女は妖艶に微笑み、クライヴの顎に長く伸びた爪の先をスッと突きつけ、そのまま撫でるように下から上へと滑らせる。
クライヴは魔女から目をそらさず言った。
「すまない、眠りを邪魔されるほど嫌なものはないと理解している。しかしある少女の命がかかっているんだ。どうか、このドラゴンの心臓を使って、ドラゴンの呪いを解く薬を作ってくれないか」
魔女は目を瞬かせる。
ややあってから、子どものように大きく口を開いて笑った。
「あーはははっ! 眠りの重要さをよくわかっているなんて、できた人間じゃない。そうよ、お肌のハリとツヤを保つためにはきちんとした質の高い睡眠が必要なのよ。そこのところ、きちんと理解してくださる?」
クライヴはことさら真剣に頭を下げる。
「ああ、重々承知している。しかし事は急を要する。ある少女の命を救ってほしいんだ。そのために、あなたの力を貸していただけないか」
魔女はクライヴの真意を確かめるようにじっと見つめる。
しばらくしてから、面白そうににんまり笑うと言った。
「ま、いいでしょう。人間が訪ねてくるなんてずいぶん久しぶりだもの。でもただで力は貸さない、お礼はしっかりもらうから」
「ああ、私に差し出せるものであれば、望みのものを用意しよう」
「あら、魔女にそんな約束をしていいの? あなたの命をちょうだいって言うかもしれないのよ?」
クライヴはわずかに目を見張る。彼の背後にいる仲間たちに緊張が走る。
ややあってから、クライヴは小さく息を吐き出す。
「……ああ、望みとあらば差し出そう。ただし、その少女の呪いが解けたあとにしてほしい」
そこで、またも魔女は大きく笑った。
「あはっ! おかしな人間ね! 自分の命と引き換えにするなんて!」
魔女はひとしきり笑ったあとで続けて、軽く手を振る。
「別に人間の命なんて何の材料にもならないもの、いらないわ。それよりも久しぶりに目覚めたんだもの。王都には美容にいいものがいっぱいあるんでしょうね? たんまり買ってもらうから!」
想像とまったく異なる魔女の言動にクライヴは目を丸くする。しかしすぐに頷く。
「──承知した。そもそもドラゴンの呪いを受ける少女は王都にいる。呪いを解く薬ができ次第、一緒に王都へ行ってもらえるとありがたい」
◇ ◇ ◇
ドラゴンの呪いを解く薬が完成したあとで、クライヴは眠りの魔女を伴い、ようやく王都へと帰還した。
彼が王都を去ってから、すでに五年の年月が経過していた。
王都は変わらず、平和で活気にあふれていた。
そのうえ、数日後には王城で建国パーティーが開かれるとあって、街は祝いの雰囲気一色だった。
兄である現国王の統治が上手くいっていることを目にして、クライヴは深く安堵する。
しかし国王に自分の帰還を知らせるため、密かに王城内部と連絡を取ろうとしたところ、不穏な事実があることを知る。
──先頃から、国王は床に伏せっている。
同時に得た情報の中には、宰相であるダラム公爵が怪しい動きをしているという内容も含まれていた。
危機感を覚えたクライヴは、すぐさま王城に潜入することにした。
幸い、魔女の手を借りて一時的に王城の見張り役の衛兵たちを眠らせることができたため、城内への潜入はさほど難しくはなかった。
そして国王の寝室へと忍び込んだクライヴが目にしたのは、いつ事切れてもおかしくない国王の衰弱した姿だった。
「……兄上」
クライヴはベッドに横たわる、兄である国王の手を取る。
わずかに国王が意識を戻したかに見えた。
「──兄上、わかりますか。私です、クライヴです。ようやく帰還いたしました」
国王がブルブルと指先を小刻みに震わせ、わずかにまぶたを押し上げる。
「……ああ、待ちわびた」
国王が小さく息を漏らす。
しかしすぐにまた眠るように目を閉じてしまった。
おそらく夢を見ているとでも思ったのかもしれない。それほどまでに危険な状態だった。
眠りの魔女が興味深そうに、クライヴの後ろから国王を覗き込む。
「あら、ずいぶん強力な毒を盛られたのね」
クライヴはハッと振り返る。
──そうだ、こちらには眠りの魔女がいる。
クライヴは急いで問いかける。
「解毒は可能だろうか」
魔女は艶やかな唇に人差し指を当て、首を少しばかり傾ける。
「──そうね、できるわ。ちょうど手持ちの薬があるの、調合するだけでいけるでしょ。本当はお金持ちに売ろうと思って持ってきていたんだけど、国王に恩を売っておくのも悪くないわね」
クライヴは頭を下げる。
「頼む。兄上は、この国になくてはならない存在だ」
その後、眠りの魔女にすぐさま解毒薬を作ってもらい、それを飲んだ国王は徐々に意識を保てるようになり、しばらくすると会話ができるまでに回復する。
「さすがは魔女殿だな」
クライヴが思わず感嘆の声を漏らす。
「あら、もっと言ってちょうだい」
魔女がにんまり笑う。
そのやり取りを、ベッドの上でかろうじて上半身起こした状態の国王が神妙な面持ちで見つめていた。
「……クライヴよ、こんなことになって本当にすまない。眠りの魔女殿と言ったか、心から感謝申し上げる」
そう言ったあとで、国王は自分の身に起こったことを語り始めた。
ある日、国王は息子のレナルドから希少なワインが手に入ったという言葉とともに、一本のワインを受け取った。
数日後、そのワインを飲んだ直後、ワインに毒が盛られていたことに気づく。
国王はその立場ゆえ、幼い頃から毒への耐性をつけていたが、それをもってしても瀕死に陥るほどの強力な毒だった。
かろうじて命だけは取り留めることができたが、いつまた命を狙われるかわからない。
薄れそうになる意識を必死に保ちながら、国王は処置にあたってくれていた信頼できる侍医だけをそばに置き、毒殺未遂の事実と自分の容態が外部に漏れることを防いだ。
そして侍医を通じて真相を探った。
すると、レナルドにそのワインを密かに献上したのは、宰相であるダラム公爵だという事実が浮かび上がったのだ。
そこまで聞いたクライヴは、想像以上に悪い出来事が起こっていたことを知り、表情をさらに険しくする。
国王はまだ少し息苦しそうな様子を見せながらも、続けて言った。
「──だが、レナルドから受け取ったワインによって私が毒殺されかけたことが公になれば、レナルドは国王殺し未遂の罪を問われ、処分は免れない。しかし公にしなければ、いずれこの事実をもとにダラム公爵はレナルドを強請るだろう。そうなれば、ダラム公爵に逆らうことのできないレナルドは傀儡の国王に成り下がる……。いずれにしても、ダラム公爵に優位に働くよう仕組まれていた。そして本当に私が命を落としていれば、今頃はダラム公爵がこのスラウゼン王国のすべての権力をほしいままにしていたはずだ。考えるだけでも恐ろしい……」
「兄上……」
クライヴはベッドの上に力なく置かれている国王の手に、自分の手をそっと重ねる。
国王は顔を上げ、苦しげに言った。
「お前がいない間にもしそんなことになっていたら、私は死んでも死にきれなかった……。それどころか、こうしてお前は身を挺してドラゴンを退治し、アマーリエの呪いを解く方法を見つけてくれたというのに……。ダラム公爵ならば、自分の野望のために王都に帰還したお前に国王殺しや毒殺未遂の罪をなすりつけ、何がなんでもお前を消し去ろうとしただろう」
クライヴは事の深刻さを受け入れ、静かに頷く。
確かに、五年前に死んだことになっている王弟の自分が生きていたと知られれば、ダラム公爵はどんな手を使ってでも邪魔な存在である自分を殺そうとしたはずだ。
「──クライヴ」
国王が為政者たる強い眼差しをクライヴに向ける。
クライヴもその眼差しを受け止める。
国王はひとつ大きく息を吸い込んだあとで、確固たる声音ではっきりと言った。
「私はレナルドの王位継承権を剥奪する。ダラム公爵の罪も明らかにする。そしてすべてが落ち着いたあとで、お前に王位を譲ろうと思う。──受けてくれるか」
目の前の兄が国王としてではなくひとりの父親として息子のレナルドを大事に思っていることを、ずっとふたりを見守ってきたクライヴはよく知っている。
それでも背負うもののためには情けはかけるべきではない。その国王の気持ちが痛いほどわかった。
クライヴは決意とともに頷いた──。
◇ ◇ ◇
その後、王城で開かれる建国パーティーでダラム公爵が何かを企んでいるらしいという情報を得たクライヴは、国王と示し合わせ、国王はいまだ床に伏していると偽ることにした。
おそらくダラム公爵は建国パーティーに国王が参加していないと知れば、いよいよその容態は悪いのだとほくそ笑むだろう。
そうなれば、より大胆に行動するかもしれない。
そうして迎えた建国パーティー当日、クライヴの予想は的中した。
大広間の裏手ある一室に隠れて事態を注視していたところ、ダラム公爵はレナルドにあいさつをするふりをして、揉め事を起こそうとしていた。
しかし、まさかレナルドがアマーリエの仮面を大勢の前ではぎ取る愚行に及ぶとは思いもしなかった。
さらにレナルドはあろうことか、アマーリエのドラゴンの呪いによる痣を見て慄くあまり彼女を罵り、勢いに任せて婚約破棄まで突きつけたのだ。
クライヴは怒りで我を忘れるかと思った。
だが、まだ事の行方を見守るようにと国王に強く制止され、身を切られる思いでぐっと堪えた。
しかし、アマーリエが衛兵らの手によって罪人のように拘束されるのを目にした瞬間、もう黙って見ていることなどできなかった。
クライヴは国王の呼び止める声も聞かず、すぐさま駆け出す。
「──仕方ない、クライヴに続けっ!」
国王が声をあげ、待機していた騎士たちに告げた──。
◆ ◆ ◆
──国王の毒殺未遂という前代未聞の事件と建国パーティーでの一件のあと、国王は王弟であるクライヴに王位を譲ると宣言した。
それから、さらに一か月が経ったある日のこと──。
「──わたし、聖女を辞めます」
アマーリエは断固として譲らない気持ちで臨んでいた。
教皇庁の敷地内にある庭園の一角。
目の前には、困り果てた顔のクライヴが見える。
アマーリエはもう一度口にする。
「──ですから、クライヴさまのおそばに置いていただけないのなら、わたし、聖女を辞めます」
大人のクライヴにとって十一歳も年が離れているアマーリエなど、子どもにしか見えないことは痛いほどわかっている。
でも決めたのだ。
(もうクライヴさまを失いたくない。ずっとそばにいたい──)
だから卑怯は承知で、彼が断れないであろう言葉を使って、そばにいさせてもらう約束を取り付けようとしているのだ。
クライヴが両手をおろおろさせながら、まるで駄々をこねる子どもをあやすように言葉を発する。
「……アマーリエ、ドラゴンの呪いを解いたことを恩に感じているのなら、きみが気にする必要はないんだ。だから私のそばにいる必要はない。これからはきみの好きにしてくれればいい。それに、もし仮に聖女を辞めたい気持ちがあるのなら、そうだな、うん、かなり難しいとは思うが、私から教皇に相談してみることもできるだろう」
アマーリエは頬をふくらまし、むくれたようにそっぽを向く。
「……そういうことじゃ、ないんです」
ますます子どもにしか見えないとわかっているが、自分の想いがまったく伝わっていないことが悔しい。
「そ、そうか、すまない……」
クライヴは弱りきった様子で髪の毛をかき上げる。
そのあとでふと、別の説得できる言葉を思いついたのか、続けて言った。
「でも、ほら、もうきみは王太子の婚約者ではなくなったのだから、無理をしなくていいんだ。きみの人生はきみのものだ」
アマーリエはますますむくれる。
このままふくらみ続ければ、リスのようにほっぺたがパンパンになってしまうかもしれない。
しかしクライヴとの約束を取り付けるまでは引けない。
国王が王弟であるクライヴに王位を譲ると宣言したことを受けて、来年に開かれる予定の建国パーティーでは、新たな国王としてクライヴが即位することになっている。
そのため、次期国王としての引き継ぎなどに追われているクライヴは非常に多忙だった。
実際こうして会うことができたのも、アマーリエが教皇を通して願い出てから一か月後のことだった。
それほどまでにふたりの距離は遠い。
アマーリエは長身のクライヴを仰ぎ見る。
(……クライヴさまが国王になれば、いずれその立場にふさわしい方を王妃として迎え入れることになるわ)
教皇庁の中でもその話題で持ちきりだった。
本来なら聖女を娶ると国が栄えるという言い伝えに則り、王太子であったレナルドと同じように、国王になるクライヴにも聖女であるアマーリエを娶ることが打診された。
しかしクライヴがそれをやんわり断ったのだ。
こんなことになってしまったアマーリエへの最大限の配慮だということは、明らかだった。
そのため、適齢期の令嬢がいる国内の有力家門がいくつもクライヴの婚約者候補として名乗りをあげているという。
アマーリエの金色と緑色が複雑に混ざる瞳に、じわりと涙が浮かぶ。
「ア、アマーリエ……、泣かないでくれ!」
クライヴが必死でアマーリエをなだめようとする。
「……泣いてまぜん」
アマーリエは強がるようにつぶやくが、わずかに鼻声になっている。
なんとか気持ちを落ち着かせるように、ふうと息を吐き出す。
「クライヴさまを困らせたいわけじゃないんです……。クライヴさまがお忙しいのはわかっています。わたしのような者が、本当におそばにいられるとは思っていません。ただ、これからも、あなたにお会いできるというお約束をいただけるだけでいいんです、それでもだめですか……」
言葉のとおり、アマーリエとてクライヴを困らせたいわけではない。
優しいこの人は無理だとわかっていても、なんとかして精いっぱい応えようとしてくれる。
聖女でなくとも、自分がクライヴの妻になるなど年齢差だけでなく、あらゆる面であり得ないことだとわかっている。
だから、せめてクライヴが愛する人を見つけるまでのわずかな間だけでも、そばにいたい。
それが、アマーリエの唯一の願いだった。
──ただ一言、これからも会えるという約束がほしい。
アマーリエはこれ以上涙があふれてしまわないように、ぐっと唇を引き結ぶ。
すると、クライヴの大きな両手のひらがアマーリエのほっぺたを優しく包み込む。
アマーリエの顔がくっと上を向く。
突然、クライヴの濃い青色の瞳が目の前に見えて、彼女は激しく動揺する。
ふくらんでいたほっぺたは、すでにしぼんでいた。
クライヴが屈託のない顔で笑う。
「なんだ、そんなことでいいのか? それなら、いつでもきみの会いたいときに王城へ来ればいい。甘いお菓子でも用意しておこう」
アマーリエはきょとんと彼の顔を見返す。
「……いいのですか?」
「ああ、私もきみに会いたいし、でもこうやって教皇庁を訪れる時間がなかなか作れなくてな。きみから会いに来てくれるなら嬉しい」
その言葉を聞いたとたん、アマーリエの透き通るような白磁の頬が真っ赤に染まる。
もう顔を上げていられなくて、思わず下を向く。
「え、どうしたんだ?」
クライヴは体を傾け、心配そうにアマーリエの顔を覗き込む。
アマーリエは下を向いたまま、
「……毎日、行きます」
嬉しさと恥ずかしさを精いっぱい隠しながら、小さな声でそう言った。
◇ ◇ ◇
──一年後、王城で開かれた建国パーティーで、クライヴは正式にスラウゼン王国の国王となった。
国王クライヴの隣にいるのは、未来の王妃になることが決まっている聖女のアマーリエだった。
あれからふたりは少しずつ思いを通わせ、正式に婚約を交わしたのは三か月ほど前のこと。
周りにいる者たちは、年下のアマーリエのほうがかなり積極的だったと感じていたが、その事実は国王の名誉のためにみなそれぞれの胸の内にそっとしまっているらしい。
さらに隣国で発行され、この国でも大流行したあの恋愛小説の生みの親である作家が、スラウゼン王国の新たな国王と未来の王妃となるふたりの実話をぜひ小説にさせてほしいと頼み込んできたという話もあるとか、ないとか──。
来年の建国パーティーでは、ふたりの挙式が盛大に行われる予定だ。
その後、聖女を王妃として迎え入れたクライヴ国王は理想の君主として国をよく治め、のちに名君と呼ばれるまでになり、スラウゼン王国はより一層繁栄した──。
ーーー<2026/6/1追記>ーーー
第8回アイリス異世界ファンタジー大賞にて、「ゼロサム賞」を受賞いたしました。
ゼロサム賞は「コミカライズ化」の賞とのこと!とても楽しみです(*´▽`*)
これもひとえに、作品を読んでくださり応援してくださった皆様のおかげです。本当にありがとうございます!
詳細が決まり次第、ご報告させていただければと思います。
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少しでも楽しんでいただけると嬉しいです(*ˊᵕˋ*)
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ちなみに、こちらの短編投稿時に連載していた作品が完結しました!
また違った内容・登場人物たちになっていますので、楽しんでいただけたらうれしいです!
【完結】『死に戻りの仮初め伯爵令嬢は、自分の立場をわきまえている』
https://ncode.syosetu.com/n2956ik/






