6
──目が覚めると、どこか知らないところにいた。
あたりは真っ暗闇に覆われ、何も見えない。
しばらくすると、地面からほのかに青白い淡い光が点々と地面を照らし始めた。
不思議なこともあるものだとぼんやり思っていると、まるで霧の中から出てきたように突然、ひとりの中年の男が目の前に現れた。
驚いて見ていると、相手も同じことを思ったのか、こちらを見て目を大きく見開く。
「──誰だ、お前は?」
男が警戒感をにじませながら言った。
誰? 誰だろう。
思い出そうとするが、何も思い出せない。
すると、頭の中にひどく反響するような奇妙な声が響いた。
『──スーヴェ』
空耳かと思い、首を傾げる。
その間にも目の前の男は苛立ったように、
「ここはどこだ!」
と怒鳴り声を上げる。
わからない。
そう思っていると、
『──冥府の狭間』
またもや奇妙な声が聞こえた。
声の正体を探ろうとあたりを見回すが、怒りをあらわにしている男以外見当たらなかった。
戸惑いを覚えていると、男の背後の向こう側に古めかしい扉が現れる。
その扉は意思でも持っているかのように、ゆっくりと静かに開いていく。
そして、すべて開ききった扉の向こう側は、ゾクリとするような黒い煙で覆われていた。
黒い煙は生き物のようにうごめいている。
それはまるで、男を手招きしているようにも見えるのは気のせいだろうか……。
そのとき、ぐぐぐっと見えない何かに引っ張られるように、自分の右手が持ち上がった。
身体の内側からまさぐられるような気持ちの悪い感覚に抵抗するが、自分の意思に反して腕は上がり続ける。
右手は胸の高さまで上げられるとぴたりと止まり、次に人差し指がゆっくりと向こう側に見えている扉のほうを指し示す。
それを見た中年の男はさらに苛立ちを増幅させたように、顔をしかめながら振り返る。
開いている扉があるのに気がつくと、大きく舌打ちする。
「──ちっ! あっちへ行けってか? いったいなんだっていうんだ!」
そんなことを言われても、こっちだってわからない。
突然男が現れ、奇妙な声が聞こえたと思ったら、不思議な扉が見えるようになる。
身体が勝手に動き、扉を指し示す。
なぜ自分はこんなところにいるんだろう──?
そう思ったものの、ゆるゆると思考が薄れていく。
それからどのくらい時間が経ったのか。
まぶたを閉じた覚えはなかったが、いつの間にか眠っていたのだろう。
目が覚めるような感覚のあと、ふと気づくと、また霧の中から誰かが現れた。
今度は年老いた婦人だった。
老婦人は奇妙な暗闇が広がるこの空間には場違いなほど、穏やかな表情を浮かべている。
着ているドレスは華美ではないが、慎ましさがあり、上等そうに見えた。
老婦人はこちらに気がつくと、まるで散歩の途中に出会った隣人にあいさつでもするかのように微笑む。
「あら、どなた?」
わからない。
答えられずにいると、またあの奇病な声がした。
『──スーヴェ』
声は頭上から聞こえたような気がして、見上げてみるが誰もいない。
空はどんよりと分厚い雲に覆われているだけで、その雲は嵐のような速さで右から左へと流れていく。
老婦人は少し困ったように、口元に手を当て、
「ここはどこなのかしら、ねえ、あなたご存知?」
わからない。
申し訳ないような気がして、首を左右に振ろうとすると、また声が聞こえた。
『──冥府の狭間』
冥府の狭間──? それはいったいなんなんだ?
すると、この間の男のように老婦人の背後にも古めかしい扉が現れ、ゆっくりと開き始める。
しかしこの間の男とは違い、扉の向こうは眩いばかりの光に包まれていた。
春のような穏やかな風が吹き、芽吹いたばかりの新緑の爽やかな木々と花々の甘い香りまで漂ってきている。
その光景に驚いていると、またもや自分の右手が勝手に持ち上がり、人差し指がその扉を指し示す。
老婦人が首を傾げて後ろを振り返り、「あら、まあ」と小さく声を上げる。
少しだけこちらに目を向けて微笑んだあとで、扉に向かってゆっくりと歩いていった。
それからも同じようなことが何度も続いた。
そして、理解した。
自分の名は「スーヴェ」。
ここは「冥府の狭間」。
そして、自分はここを訪れた人間を迎えるために存在し、その人間たちを背後に現れる扉へと送り出す役割を持っているのだと──。
理解したからなのか、あの奇妙な声はもう聞こえなくなっていた。
それからスーヴェは、ここを訪れる人間が霧の中から現れるたびに名を名乗り、ここが冥府の狭間だと教え、彼らの背後に現れる扉を指差した。
そのうち、扉の向こう側が黒い煙で覆われているときと、眩いばかりの光に包まれているときのどちらかであることを知った。
ここが本当に冥府の狭間ならば、それぞれの扉の向こうにあるのは、安住の地か闇の深淵なのかもしれないとぼんやりと思った。
そして、それらが見えるここにいる自分は、死んでしまったのだろうか。
わからない──。
考えようとすると、途端に意識が遠のくのだった。
そうして、どれだけの時間が流れたのか。
もう数え切れないほどの人間に対して、彼らが向かうべき扉を示し続けた。
怒り出す者、混乱して泣き叫ぶ者、元の場所に帰りたいと懇願する者、悟ったようにただ受け入れる者、幸せそうに涙を流す者……。
さまざまな人間がスーヴェの前に現れ、扉の向こう側へと消えていった。
その間、ふいに手にじんわりとしたぬくもりを感じることが時々あった。
それは一瞬のことで、すぐに消え失せ、また何も感じなくなる。
でもなぜか名残惜しい気がして、何もない空虚な手を見てしまう。
(いったいいつまでこうしていればいいのだろうか……)
ここを訪れる人間は扉の向こうへ去っていくというのに、自分はじっとここに留まり続けている。
なぜここにいるのか──。
なぜこんなことをしているのか──。
それを考えるのも、何か考え始めるたび遠のく意識に抗うのも億劫になってきたころ、新たな人間が目の前に現れた。
──少女だった。
ブルーサファイアのような神秘的な濃い青色の瞳を見開いている。金色の髪の毛は、毛先にいくほど赤く変化している不思議な色合いをしていた。
きっとこの人間も変わらずスーヴェの前を通り過ぎていくひとりに過ぎない、そう思った。
しかし、その少女はこれまでの人間と違っていた。
彼女の右手首には、淡く光る金色の細長い糸が巻き付いていたのだ。
その金色の糸は彼女の手首から背後の暗闇に向かって、少したわみながらどこまでもどこまでも伸びていた。
初めて見る光景だった。
すると、ここで目が覚めた最初のときに聞いたきりだった、あの奇妙な声が聞こえた。
『狭間を彷徨う者よ──』
──彷徨う者? どういう意味だ。
そう思っている間に、少女が口を開く。
「あなたは誰? ここはどこ?」
大きな声ではないのに、その澄んだ声ははっきりと耳に届く。
その瞬間、自分の中で何かが湧き上がる気がした。
──この声を知っている?
なぜだかそう感じた。
しかし、目の前に立つ少女をいくら見ても、思い出せるものは何もなかった。
湧き上がった何かは、すぐにゆるゆるとしぼんでいく。
「──スーヴェ。ここは冥府の狭間」
スーヴェはいつものように答える。
少女は少しばかり考え込むそぶりを見せたあとで尋ねてくる。
「スーヴェって、あのベロニウス聖書に出てくる『見えざる者』のこと?」
ベロニウス──?
何かが引っかかった気がした。
しかしそれもまたすぐに消え失せる。
スーヴェ? 見えざる者?
知らない。
ただあの声がスーヴェと言ったから、そう答えているだけだ。
わからない。何もわからない──。
スーヴェは混乱し始める。
「……わからない」
かろうじてつぶやく。
少女は軽く肩をすくめる。
呆れたのだろうか。彼女の反応がなぜか気になった。
「それで? ここが冥府の狭間ですって? つまり、死後の世界ってこと?」
スーヴェが答えられないでいると、彼女はじっとスーヴェを見つめる。
「──じゃあ、わたし死んだの?」
そう口にした少女の瞳は、まっすぐだった。
わからない。本当に何もわからない──。
だって自分の存在、本当の名さえもわからないのだから──。
スーヴェはますます混乱した。
初めての感情だった。
すると、
『命と引き換えに、願いをひとつだけ叶えてやろう』
ゆらりとスーヴェの頭の中に、あの奇妙な声が響く。
スーヴェは驚きのあまり、無意識に言葉を繰り返す。
「命と引き換えに、願いをひとつだけ叶えてやろう……?」
どういうことだ──。
ここで目覚めて以来、『スーヴェ』と『冥府の狭間』以外の言葉を聞いたのは初めてだった。