5
──日が昇るにはずいぶんと早く、空はまだ暗闇に包まれている時刻だった。
その日、何かが聞こえた気がして、シーラはぼんやりと目を覚ました。
徐々に意識がはっきりし始めると、どこからか怒号のような声と馬の蹄の音、切迫するような大勢の足音が耳に届く。
ハッと起き上がり、急いで窓の外に目を向ける。
向こうに見えるのは国王や正妃の住まいがある王宮。その周辺にはおびただしいほどの松明のような明かりが見えた。
(ああ、なんてこと──)
シーラは小刻みに震える両手を口元に当てる。
ふっと下方に目をやれば、シーラたちが暮らす奥まったこの古びた建物の周りにも、建物を取り囲むように闇に混じって多くの人の影が見える。
それらは月光の下、ゾクリとするような鋭い光を反射している。
(鎧──。それに剣も──)
建物を取り囲む者たちは鎧を身にまとい、剣を携えている。
それらが意味していることはひとつしかない。
(──反乱だわ)
ぎゅっと拳を握りしめる。
シーラはくるりと向きを変え、壁際にある机の引き出しを開けて、二重底になっている中から一通の手紙を取り出す。
それを握りしめると、すぐさま部屋を飛び出した。
「──ケティ! 起きて!」
別室で寝ているケティの身体を揺すり、急いで起こす。
「……シーラさま? どうなさったんですか?」
シーラはまだ寝ぼけ眼のケティに向かって、声を押し殺しながら呼びかける。
「ケティ、急いで起きてちょうだ──」
そう言い終わる前に、階下にある正面の扉が蹴破られたような大きな音がした。
と同時に、侵入してくる複数の足音が響く。
「ひっ──! な、何事ですか」
ケティが叫び、身体をこわばらせる。
シーラは強引にケティの手を引き、建物の奥にある一室へと逃げ込む。
こわばる手を必死で動かし、秘密の通路が隠れているマントルピースの中の壁を開けると、そこに強引にケティを押し込む。
「──シーラさま、何を!」
「ケティ、お願いがあるの」
振り返るケティの目をシーラはしっかりと見つめる。
そして、手にしている一通の手紙をケティに渡し、しっかりと握らせる。
動揺と焦りが表に出ないよう一呼吸してから、シーラは言った。
「……ケティ、ここを出て、いつも寄付をしているあの教会に助けを求めなさい。この手紙を司祭さまに渡してちょうだい。あなた、ひとりで行けるわね」
ケティが目を見開く。
「シーラさま、わたしひとりでなんて──!」
その言葉を制するようにシーラは矢継ぎ早に言う。
「よく聞いて。じつは、あの教会は北部の領主であるルオリさまとつながりがあるようなの」
「ルオリというと……、あの戦勝の将軍と名高いルオリ閣下ですか?」
「ええ、そうよ」
シーラは強く頷く。
数々の武勲と功績を立て、民からの支持も厚く、ベロニウス王国にその人ありとまで言われたほどの人物で、北部の領主でもあるナルヴィク・ルオリ。
彼は数十年前、先代の七代目国王が統治していた当時、協力関係にある隣国が他国に攻め込まれ苦戦している際、隣国からの要請を受けて戦場に赴き、見事勝利して戦を終結に導いた戦勝の将軍だ。だが、その戦のさなかに負傷した味方をかばい、片足を失ったことを機に前線を退いた。さらに、シーラの実父である八代目国王が王になった数年後には王宮の中枢からも身を引き、以来領地に隠居していると言われている。
本来なら、王女とは名ばかりの王城の奥にひっそりと暮らすシーラとは縁のない人物のはずだった。
それなのに──。
「キリルブルーの光で彩られた聖エテディウスはじつに美しい。そう思いませんかな?」
そう声をかけられたのは、母が亡くなってからまだ間もないころ。数えるのも不毛に思えるほど、国王への目通りを断られた帰り道、ままならない憤りを鎮めるために回廊の片隅でふと立ち止まったときだった。
振り返れば、車椅子に座ったひとりの白髪の男性がいた。見知らぬ相手だった。
その人は初老というにはためらいを覚えるほど、がっしりとした体格をしていた。彼の背後には、車椅子を押す世話人が控えている。
シーラは首を傾げる。
声をかけられた気がしたのだが、相手はこちらをまったく見ていなかった。
その視線の先には、王城の端で庭園と呼ぶには手入れが行き届いていない、殺風景な木々が広がっている。
聞き間違いだろう。
シーラはそう思った。だから、邪魔しないようにその場から立ち去ろうとした。
すると、老人は再び口を開いた。
「『汝の胸に曇りあらば、聖エテディウスに祈りを捧げよ。さすれば救われん』。あの荘厳な光と慈愛の微笑みを前にすると、この一節を思い出しますな」
ただの独り言のようで、されど何か意味があるようにも感じる言葉だった。
しかし、そのときのシーラは自分に声をかけてくれている人がいるとは思わず、戸惑い、ただ立ち尽くす。
ややあってから、
「では──」
そう言って老人は、シーラのほうを一瞥もすることなく去っていった。
結局、老人がなぜ自分に声をかけたのかもわからなかったが、やけにその言葉が耳に残った。
その後、キリルブルーとはあの城下の外れにある小さな教会のステンドグラスに見られる特別な青色だと知り、それ以来シーラは祈りを捧げるたびに老人の言葉を思い出すようになった。
そして、それからずいぶんあとになって、正妃に呼び出された王宮の廊下であの老人を偶然見かけた際に、彼がルオリ閣下だったと知ったのだった──。
建物の中を進む荒々しい足音が、だんだんと近づいて来る。
シーラは焦りを覚えながらも、努めて冷静に目の前のケティの目をじっと見る。
「ケティ、あなたには黙っていたけど、わたし一度だけルオリ閣下にお会いしたことがあるの。その際、わたしの境遇を憐れんで、もし何かあったときは閣下の領地である北部を訪ねるようにと言ってくださったの。反乱が起こっている今、北部まで行くのは難しいけど、教会に助けを求めることはできるはずよ。秘密の通路を使えば城下までは行けるわ。そして城を抜け出せたら、教会へ行ってこの手紙を司祭さまに渡してほしいの」
シーラはかつてないほどの強い意志を持って、ケティに伝えた。
ケティは覚悟を決めかねるように、シーラを見返す。
「……このお手紙をお届けすることで、シーラさまをお助けできるのですか?」
シーラはケティを安心させるように微笑んで言った。
「ええ、そうよ。ここで捕まってもすぐに首をはねられたりしないでしょう。その間に司祭さまにこの手紙を届けて、ルオリさまに助力をお願いしたいの。できる?」
ケティが悩む素振りを見せたのは一瞬だった。すぐに頷いて、
「わかりました」
「最後まで迷惑をかけるわね」
「いいんです」
「ケティ、あとこれも持っていってちょうだい」
シーラはおもむろに両手を伸ばし、いつも身につけている母の形見のペンダントを外す。
名残惜しそうに数秒目に焼き付けたあとで、ケティに持たせる。
「でもこれは、形見ではありませんか──!」
ケティが戸惑いを見せる。それがシーラにとってどれだけ大事なものか、ケティはよく知っているからだ。
シーラは努めて明るく、
「きっと取り上げられてしまうわ。だから、助けが来るまであなたに預けておくだけよ。そうでしょう?」
しかしケティは、シーラの真意を探るような目を向ける。
これはお別れを言っているのではないのか。それをシーラは心配しているのだ。
「それでも──!」
ケティは納得できないように声を上げる。
それをなだめるようにシーラは言葉を続ける。
「わたしに残されたのは、このお母さまの形見だけだもの。これだけは無くしたくないの。だから持っていてほしいの。お願いよ」
「……わかりました。お返しするまで大事にお預かりいたします」
しばらくの沈黙のあとで、ようやく納得したようにケティが頷く。
それを見届けると、
「さあ、早く行って」
シーラはケティの背中をぐいっと押した。
ケティが秘密の通路の中に入ったのを確認すると、急いで入口を閉じる。
すぐさま立ち上がると、秘密の通路がある部屋を出て、自分の部屋へと向かう。
あの通路を見つけられては困る。少しでもここから離れなければいけない。
シーラが走っている間にも、建物に押し入った大勢の足音が背後に迫ってくる。口々に何か大声で叫んでいる。
(ごめんなさい、ケティ……。あなただけはなんとしてでも守らなければいけないの……)
シーラは心の中で謝った。
たしかにルオリとたった一度だけ面識を持ったが、それだけだった。シーラの境遇を憐れんで北部を訪れろとも、助けてくれるとも言われた覚えはない。
でもそうでも言わなければ、ケティはシーラのそばを離れなかっただろう。
ケティを道連れにすることだけはできない。
そして、おそらくあの教会なら、ケティをきちんと保護してくれるはずだ。
これまでのやり取りで教会の司祭は信頼できる人物だと感じているし、シーラの予想が正しければ、あの教会の司祭とルオリは本当につながっているはずだ。
教会で眠っている青年。
あの日、彼がケガをする前に必死で取り返そうとしていた、獅子の意匠が彫られた勲章メダルと思われるもの。
あれこそ、かつてルオリが先代の七代目国王から賜ったものではないのか。
はっきりとは見えなかったが、メダルの表面に彫られていた文字は『ナルヴィク・ルオリ』ではなかったか──。
そして、青年を保護している者こそ、ルオリ、その人なのではないだろうか。
理由はわからないが、青年には親がいないと司祭が言っていたとおりなら、身寄りのない子どもがいれば気にかけ、世話をする可能性は十分考えられる。
ルオリは人格者としても広く知られている人物だ。
だからこそ民を苦境に陥れている原因、その王族の一員である無能な王女のシーラを恨むことはあっても、なんの罪もない使用人のケティまで罰するとは到底思えなかった。
ケティに持たせた手紙には、シーラが助かる方法など書いてはいない。
この手紙を受け取った人に、彼女をどうか保護してやってほしいというお願いとケティへの謝罪、王城を離れたセルマへの感謝、そして母の形見のこのペンダントを売って今後の生活のために使ってほしいという言葉だけだ。
まさか反乱が起こることを予測していたわけではなかったが、それでも何かが起こったときに備えて、あらかじめ手紙を用意しておいたのだ。
シーラが死んだあと、ケティはシーラを残して逃げたことで自責の念にかられるかもしれない。それだけが申し訳なかった。
(ケティ、どうか無事に城下まで逃げて──)
自分の部屋に逃げ込み、ドアに鍵をかけたところで、
「──金色の髪だったぞ!」
「王族だ──っ!」
「捕まえろ──!」
ドアの向こうから怒号が聞こえる。
その直後、ドアが勢いよく蹴破られる。幾人もの男たちがなだれ込む足音が響く。
部屋の奥へ逃れようと背中を向けた瞬間、シーラの左脇腹に鋭い痛みが走る。
足がもつれ、倒れ込む。
ドクドクと血が流れている。脇腹が焼けるように熱い。
剣を持った男たちがシーラに迫る。
おそらく王宮にいる王族は全員捕まったのだろう。先ほど見た国王や正妃が住まう王宮が反乱軍によって取り囲まれていた光景が浮かぶ。
同情する気持ちはなかった。
なるべくしてなってしまったのだから。
しかし、すでに失ってしまった多くの民の命を思うと、行き場のない後悔と懺悔で視界が涙でにじむ。
もっと自分にできることあったのではないのか。
そうすれば、失わずに済んだ命があったはずだ。
(もし願いが叶うなら、この国が……)
シーラは無意識に、血で濡れた手を伸ばす。
反乱を起こした主導者が民を導ける人物なら、これからこの国は正しく進んでいけるだろう。
(どうかこの国が安寧と豊かさで満たされますように──……)
薄れゆく意識の中、ふいに教会で眠り続けているあの青年の姿がシーラの脳裏に浮かぶ。
名前も声も、瞳の色さえも知らない相手──。
それでもシーラが最後に会いたいと思ったのは、ほかの誰でもない、彼だった──。