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そのあとのことは、シーラは断片的にしか覚えていない。
気づけば、どこかに座っていた。
ゆるゆると意識が戻り、あたりを見回すと、いつも寄付と祈りを捧げている城下の中心区の外れにある小さな教会の礼拝堂の中、古びた木製の長椅子に腰かけていた。
後ろでカタンッと音がして振り返ると、見慣れた司祭の姿があった。
(やっぱり──、さっきの男性は司祭さまだったのね)
先ほどはとっさのことですぐには気づかなかったが、自分の肩を掴んで助けてくれたのは彼だったようだ。
シーラは念のため、被っているローブのフードをさらに引っ張る。
この教会を訪れる礼拝者は数多くいて、その中にはローブを着てフードを被った者もいる。だから、たとえ司祭といえど、言葉も交わしたことのない礼拝者などいちいち把握していないだろう。それに寄付する際は、母がいたころから誰にも見られないように、寄付用の硬貨や薬が入った布袋を建物の裏口などにこっそり置くようにしていたので、誰からのものなのかは知られていないはず。だが、用心しておくに越したことはない。
母もそうだったように、自分も外に出ていることを知られてはいけないし、誰かに名乗れる立場でもない。
そもそもどの面を下げて名乗れるというのだろう。
民たちの状況が悪化しているとわかっていながらも、それを止めるすべはなく、こうして人目を忍ぶように少しの飢えと治療を受けられるわずかな寄付しかできていないというのに──。
司祭がこちらにゆっくりと近づいてくる。
「あの──」
シーラは急いで立ち上がり、フードの下から司祭をうかがう。
あの少年は無事なのだろうか。
断片的に思い出せる記憶を探ると、あの事故のあと、医者をともなってこの教会に運び込まれたことを思い出す。そのあと、司祭は放心状態のシーラを長椅子に座らせ、待つように言い残して奥の部屋へと消えたのだった。
司祭はわずかに顔を曇らせたが、すぐに警戒心を抱かせないような笑みを見せ、
「ええ、ひとまず治療は終わりました。彼は無事です。しかし、何があったのですか?」
シーラは少しだけ言い淀む。しかし伝えないわけにはいかないだろうと思い直し、事故が起きる直前のことをぽつりぽつりと伝える。
言い終わったあとで、シーラはあっと小さく声を上げた。
「──あの、これを」
あのとき拾った何かを、ずっと握ったままだった。
こわばっていた手を開き、司祭の前に差し出す。
シーラは今さらながら、自分の手におさまっていたものを見つめる。
銀製だと思われるそれは銀貨のような平らで丸い形状をしていたが、銀貨よりもふた回りほど大きかった。その表面に彫られているのは、王冠を被った横向きの獅子が力強く天に向かって吠えている意匠。その細工は見惚れるほど精緻だった。
(勲章……、かしら?)
シーラは心の中でつぶやく。
武勲を立てた臣下や騎士などに贈られる勲章メダルのように見えた。
その証拠に、メダルの上部には装飾用のリボンを通すための輪っかの金具が付いている。
メダルの表面には獅子の意匠のほかに、何か文字が見えたような気がした。
もっとじっくり見ようと顔を近づけようとしたとき、司祭が手を伸ばし、シーラの手からメダルを拾い上げる。
「なるほど。これは彼にとってはとても大切なものですから。守ってくださり、私からも感謝を申し上げます」
司祭は納得するように頷き、胸に手を当てて頭を下げた。
シーラは慌てて首を左右に振る。
「そんな、でもそのせいで──」
自分が無理に拾おうとさえしなければ、彼は事故に遭わなかっただろう。
そもそも地面に落ちたメダルだって、運がよければ馬車に轢かれずに済んだかもしれないし、轢かれても無傷だった可能性もある。
(できれば直接謝って、お礼も伝えたいけど……)
シーラの余計な行動によって彼は血を流すほどの大ケガをしてしまったのだから、やはりきちんと謝りたい。そして馬車にぶつからないよう、自分の身体を引っ張ってくれたことに対してもお礼を伝えたい。あのまま石畳の上で動けずにいたら、きっとシーラは馬車にぶつかっていただろう。
安易に行動してしまった自分が情けなかった。
シーラが次の言葉を探していると、ふいに司祭が教会の窓を見上げる。
つられて視線を上げると、窓からは茜色の光が差し込んでいた。
気づけばもう夕暮れ時だった。
司祭がおもむろに、
「……お住まいはどちらですか、お送りいたしましょう」
話は終わりだと言うように促す仕草を見せる。
これ以上尋ねられる雰囲気ではないのを察する。
それでも引き下がりたくはなかったが、やがて断念するように社交の笑みを浮かべると、首を横に振って丁寧に断った。
「いえ、お気遣いなく。失礼いたします」
そう言ってお辞儀すると、教会をあとにした。
***
「今日も教会へ行かれるのですか?」
次の日、今日も城下の教会へ行こうと思うと告げたシーラに、ケティは驚きながらも心配するような顔で尋ねる。
「一か月に一度の訪問と決めていらっしゃったのではないのですか? あまり頻繁に城を抜け出せば気づかれてしまうからと、シーラさまのお母さまもおっしゃっていたではありませんか。昨日訪問されたのですから、来月までお待ちになってみては……」
シーラは言いにくそうに、
「じつは昨日事故に遭遇して助けてもらったから、その方のケガの具合を確認しておきたいのよ」
ケティが大きく目を見開き、
「じ、事故ですって⁉︎ シーラさま、おケガは⁉︎ 大丈夫なのですか⁉︎」
慌てたように両手をばたつかせ、シーラにケガがないか確認する。
シーラはそれをなだめながら、
「ケティ、落ち着いて、わたしはなんともないわ。でも代わりにケガをされた方がいるの。それなのにきちんと謝れていないし、お礼だって言えなかったから……」
「はあ、それでシーラさまは気になっておられるんですね」
「ええ、せめてお顔を見て謝りたいのよ」
シーラは眉尻を下げた。
昨日司祭から彼は無事だと聞いたものの、やはり気になる。
一晩経ってもシーラの気持ちは変わらなかったため、今日も城下へ行くことを決めたのだった。
心配そうに見送るケティを残し、シーラは秘密の通路を通って城下にある教会へと向かった。
しかし予想に反して、あの少年に面会することは叶わなかった。
「申し訳ありませんが、まだ安静にしているようにと医者から言われているのです」
司祭はそう理由を口にした。
やはりケガがひどかったのだろうか。シーラはひどく心配になった。
その翌日も、翌々日も教会を訪ねたが、司祭の返答は同じだった。
さすがにこれ以上続けて出かけるのは危険なため、数日空けてから改めて教会を訪ねたが、司祭は首を横に振るばかりだった。
ほんの少し会って話せれば安心できると思っていたのに。
(本当に無事なのかしら……。もしくは思っていた以上に打ちどころが悪かったら……?)
断り続ける司祭の態度に、シーラの不安は増すばかりだった。
それから一か月以上が経過した。
あの事故からシーラはいまだに本人に会えていなかった。
不安を通り越して、もしかするともうすでに教会をあとにしたのではないのかと司祭への疑念を抱き始めてしまう。
「あの、少しでいいんです、お会いすることはできませんか。せめて一言だけでも謝りたいんです」
その日、シーラは意を決して司祭に頼み込んだ。
すると、司祭はこれ以上断るのも難しいと感じたのか、あらかじめ決めていたかのように、
「……わかりました。ではこちらへ」
小さく息を吐き出したあとでそう言った。
シーラは驚きながらも、はやる気持ちを抑えながら、司祭のあとに続いて教会の奥へと進む。
廊下を通り、突き当たりにある小さな部屋に通される。
部屋の中に置かれた古い木製のベッドの上には、あのときの少年が横になっていた。
まぶたは閉じられ、眠っているのがすぐにわかる。
シーラは戸惑いながら、司祭を振り返る。
「……あの、すみません、お休み中だったのですね」
すると、司祭は静かに首を横に振る。
「いいえ、あの日からずっと眠ったままなのです──」
***
シーラはベッドに横たわっている青年の手を握りしめながら、眠り続ける彼の顔を見つめる。
事故からもう一年ほどが経過したが、いまだに彼は目覚める気配はない。
出会った当初は少年らしさを残していた顔立ちも少しずつだが変わり、今では青年らしさが増している。
あとでわかったことだが、この教会の司祭と青年は元々の知り合いのようだった。
詳しいことは教えてもらえていないが、司祭との会話でそうらしいと気づいた。
青年の家族に連絡をしなくていいのかと問いかけたときには、司祭は、
「彼に親はおりません。ただ保護する立場のお方がいて、その方からのご指示もあって、ここでお世話をすることになりました」
それを聞いたシーラは、なんと答えていいのかわからなかった。
「そう、ですか……」
そう言うのが精いっぱいだった。
それからシーラは、教会を訪れるときには彼のもとにも寄るようになった。
一度だけ何かの折に、司祭に彼の名前を尋ねてみたが、教えてはもらえなかった。
名前も声も、瞳の色さえも知らない相手──。
最初は、助けてもらったこともあってケガの具合が気になり見舞っていたが、いつしか彼の元を訪れるのが待ち遠しくなるようになった。
「今日の調子はどう?」
「この間よりも顔色がいいんじゃない?」
「フレラリブが咲く季節よ。いい匂いがするから、少し窓を開けるわね」
「また今年も凶作になるかもしれないんですって……。疫病もどんどん広がっているわ……」
「ああ、この頬の傷? 大したことないわ、少しあの人に手を上げられただけだから」
「城下の状況はますます悪化しているわ。身寄りのない子どもたちの姿を多く目にするもの」
「そうそう、この教会への寄付だけど、今まではお母さまと同じように、建物の裏口なんかに寄付用の硬貨や薬が入った布袋を置いておく方法をとっていたのだけど、さすがにわたしが来た日にばかり寄付があるんじゃ司祭さまが気づく可能性があるでしょう? だから今は配達役にお願いしてるの」
「配達役が誰かって? じつはこの付近で寝起きしている身寄りのない子どもたちにお願いすることになったの。彼らをまとめているリーダーみたいな男の子がいてね。偶然知り合ったんだけど、その子が手間賃をくれるならなんでもやるからって言ってきて……」
「彼らみたいに苦しんでいる子はほかにも大勢いるわ。それなのに、わたしにはこうやって手間賃を渡して、彼らのその日の飢えをしのぐことしかしてあげられない。教会にももっと大きな額を寄付できれば、子どもも大人も多くの人が飢えないように頻繁に炊き出しを行って、病気だってきちんと治療できる環境を整えられるはずなのに……」
「ううん、でもそれだけじゃ根本的な解決にはならないわ。この国そのものを正さないといけないのよ。それなのに……」
「──わたしにもっとできることがあれば……」
王城から出ることを許されないシーラにとって、唯一の話し相手は世話をしてくれるケティだけ。
でも彼女の前では、弱音や不安は口にできない。してはいけない。なぜなら、ケティはシーラの身を案じてそばにいてくれるのだから。
それでもたまらなく不安になる。このままずっと王城の中で暮らし続けるのか。それだけじゃない、一歩城の外に出ると国や王族への強い怒りと憎しみ、憤りが渦を巻いている。圧政や飢饉、疫病により人々の暮らしは日に日に悪化し、死の影がすぐそばまで迫っている。
シーラは国の実情を訴えようと、実父である八代目国王への目通りを何度も申し出るが、一度も叶ったことはない。
そしてシーラが動くたび、正妃は苛立ちをあらわにし、シーラを罰する。
「……今日も聞いてくれて、ありがとう」
シーラは青年の手の上に乗せている自分の手に力を込める。
彼のしっとりとした冷たい肌の感触が心地よい。
ただ一方的に話すだけの関係。
それでも、青年の前でだけこうして自分の胸の内をさらけ出せることで、シーラはとても救われていた。
青年には一日も早く目覚めて元気になってほしいが、そうなればこの関係は終わってしまう。
いつかは訪れるその日のことを思うと胸がちくりと痛んだが、シーラはなるべくそのことを考えないよう頭の隅に追いやるのだった。