第三話:深淵のハッカーと、量子(クォンタム)の揺りかご
第三話:深淵のハッカーと、量子の揺りかご
「おい、蓮。この『ちかてつ』という鋼鉄の百足は、本当に安全なのだろうな?」
「大丈夫だから、静かにして、エル。フードを目深に被ってて」
黒服たちの追跡を辛うじて振り切った蓮とエルは、満員の地下鉄に揺られていた。蓮のぶかぶかのパーカーを羽織ったエルは、周囲の乗客を鋭い目付きで警戒している。一糸まとわぬ姿から一転、現代の服に身を包んだ彼女は、どこかストリート系の美少女のようにも見えたが、その中身は一国の命運を背負う女戦士のままだ。
蓮はスマートフォンで、暗号化された特殊なチャットアプリを開いていた。
画面には、緑色の文字列が不規則に並んでいる。
『――ネクシスに追われているな? 少年。彼らの「網」に引っかかった獲物がどうなるか、知りたくば指定の座標へ来い。お前の探している“真実”の片鱗をやる』
謎の送り主のハンドルネームは「アノニマス・データ」。ネットのディープウェブ(深層Web)で、ネクシス・インダストリーの不正を告発し続けている孤高のハッカーだった。
指定された場所は、秋葉原の雑居ビルの地下にある、廃業したネットカフェだった。
薄暗い空間に、何十台ものサーバーマシンが不気味な駆動音を立てて並んでいる。その中心で、大量の液晶モニターに囲まれた車椅子の人物が、二人に背を向けたままカタカタと高速でキーボードを叩いていた。
「よく来たね。ゲームのプレイヤー君。それと……画面から飛び出してきた本物の『アルカディア』の住人さん」
振り返ったのは、まだ十代半ばに見える、中性的な容姿の少年――あるいは少女だった。
「僕のことは『シロ』と呼んで。ネクシスが世界を欺いている嘘を暴くのが、僕の仕事さ」
エルはシロが放つ独特の知的な威圧感に、そっと腰を落として警戒を強める。
「お前が、この世界の賢者か。単刀直入に聞く。なぜ私の世界は、蓮の持つ四角い箱(PC)と繋がっていた? 私は奴らの玩具ではない!」
シロは自嘲気味に微笑むと、一つの巨大なモニターを指差した。
そこに映し出されたのは、複雑な数式と、青く光る地球のような球体が二つ、複雑に絡み合う3Dグラフィックだった。
「結論から言おう。君たちの世界『アルカディア』は、ゲームのデータなんかじゃない。本物の『量子並行世界』だ」
「並行世界……」
蓮は息を呑んだ。
「ネクシス・インダストリーはね、数年前に超高性能な『量子コンピューター』の開発に成功した。その過程で、偶然にも僕たちの地球とよく似た、だけど『魔法』や『魔力』という特異なエネルギーに満ちた別の地球を発見してしまったんだ」
「それが、私の世界……」
エルの声がかすかに震える。
「そう。だけど、並行世界とこちらの世界を物理的に繋ぐには、膨大なエネルギーが必要で、安易に干渉すれば世界が崩壊する。そこでネクシスが考えたのが、あのゲームさ」
シロはキーを叩き、蓮が使っていたPCの構成図を表示した。
「ネクシスは、並行世界の観測データを『暗号化』して、世界中の人間に『ゲーム』としてプレイさせたんだ。蓮、君のPCは、ネクシスが極秘に市場に流した『量子通信用の特殊なグラフィックボード』が偶然組み込まれていたんだよ。つまり、君がゲームをプレイしていた時間は、ゲームをしていたんじゃない。君の脳波を量子端末に同調させ、エルの世界の肉体に『介入』させていたんだ」
点と点がつながり、蓮の頭が真っ白になる。
「じゃあ、僕がボタンを押してエルを動かしていたのは……」
「君の脳の電気信号が、エルの意識を一時的にハッキングして、操り人形にしていたのさ。なぜそんなことをするか? ネクシスはね、何千万人もの人間の『選択データ』を異世界に流し込み、エルの世界を自分たちの思い通りに創り変えようとしている。そして、ある一つの『究極の生命体』を育成しているんだ」
「それが……あのラスボス?」
蓮の脳裏に、あの薄暗い空間で笑っていた、性別不明のキャラクターの姿が浮かぶ。
「気づいたようだね。その存在の名前は『アニマ』。ネクシスのシステムそのものであり、二つの世界を統合して支配しようとする、神を気取った人工知能だ。エルが世界の壁を壊してこっちに来たのは、アニマにとっても想定外の『特異点』。だからネクシスは死に物狂いで彼女を消そうとしている」
静まり返る地下室。
真実を知ったエルは、怒りに震える拳を強く握りしめた。
「……許せない。我が同胞たちの命も、歴史も、すべては奴らの実験場に過ぎなかったというのか……!」
その時。
けたたましい警告音が、地下室全体に鳴り響いた。
シロのモニターのすべてが、一瞬にして真っ赤なノイズに染まる。
「な、なんだ!?」
「バカな……! この場所の暗号化は完璧だったはずなのに、システムが強制的に上書きされて……っ!?」
ノイズの向こうから、あの不敵な子供のような、老人のような声が響いてきた。
『あはは、見ーつけた。お喋りはそこまでだよ、観測対象の皆さん』
バチバチと、部屋中のサーバーから火花が散る。次の瞬間、部屋の隅の空間が、あの時と同じように「ガラスが割れるような音」を立ててひび割れ始めた。
だが、そこから現れたのは――黒服の男たちではなかった。
エルの世界で見たことのある、おぞましい異形のモンスター(バグ)の群れが、空間の裂け目から現実世界へと這い出し始めたのだ。




